彼女に初めて会ったのは、近所の駅の構内だった。
未だ大人びて人間くさくない彼女を他人としてあしらっていたのを今でもよく覚えている。それが互いに打ち解けたあの日、彼女がボクにくれたその笑顔がすべての始まりであり、高鳴りでもあった。
それから、互いに学生として電車で通う日課を当たり前のものだと、二人は平然な毎日を送っていた。
ボクはいつも空いている席を無視して窓の側に身体を寄せて外の眺めを見ているような大人しい部類の人間なのに対して、彼女は茶髪の短い髪をボサボサさせながら青や黄や赤の有性色で色鮮やかに着こなしていた。現代風というよりは、何処か質素で幼気な様子で。
そして、たった十分足らずの通学はすぐに終わり、彼女は眠たそうに足を重くしても足早だった。
その日の帰り、大勢の学生たちが構内に向かう最中、ボクは彼女の後ろの方を歩いていた。
ボクと彼女が二人揃って一緒に帰らないのは訳があって、周りに気付かれないように彼女と相談して決めた事。だからボクは常々、周りに気を遣って彼女から離れている生活を送っていた。
彼女の後を追うように改札口で定期を取り出すと、前の方にいた彼女が駅の改札口で定期がないと後ろに並んでいた人々を驚かせては困惑していた。
ボクは彼女を陰で心配しつつもその光景をあえて見送ると、ホームに向かっていつもの電車を待っていた。
地下鉄内では彼女と連絡を取ろうにも、互いの携帯の電波は圏外という状態の中、ボクは目の前の電車を何本見送っては、彼女がホームに現れるのを内心、心待ちにしていた。
夕方遅くなって構内に戻ると、定期の見つからない彼女は改札前の柱に寄り添うようにしゃがみ込んでいた。鞄からいつも下げていた財布がない事から、切符が買えないという事実もまた、彼女を悲しませていたのだろう。
そんな彼女を見て見ぬふりして通り過ぎていく人々は何食わぬ顔して去って行くというのに。
そもそも、ボクが彼女に声をかけてあげれば、すべてが解決なのは判っていた。しかし、彼女と喧嘩をしている今の状態では、彼女からボクに連絡を取る事をしようとはしないし、ボクもまた同様だった。
喧嘩の発端は、彼女の浮気。だから今の二人の関係は、別れる寸前の状態でもあった。
ボクはそんな彼女に背を向けて、足取り重くその場を後にした。
彼女はしばらくして体育座りで顔を伏せていると、構内の電気は徐々に消灯していた。
最終電車のサイレンが辺りにこだましても彼女はじっとそのまま動こうとはせず、やがて駅の灯りはすべて消え、凍える夜が静かに訪れていた。
「大丈夫...?」
灯りのない構内で、一人の男が彼女にそっと近付いて言った。
「え!だ、誰、ですか?」
彼女は顔を上げてそう呟いた。少しばかりの物音が暗闇の構内に響くように。
「どうして、こんな所にいるの?」
ウォークマンの微かな音がこぼれると、彼女は話を続けた。
「ボクもさ、何でだろ」
耳を澄ますと、何処かで水の滴る音まで聴こえる。ここがきっと地下だからと、彼女は何気に思い過ごした。
「何か最近、つまんなくて」
「何か、あったの?」
彼女はウォークマンを止めても尚、悲しそうな顔をした。
「彼氏がいるんだけどね、その彼が最近冷たくて、怖いの」
「怖い?」
二人を除けば、そこはただの二つの空気の振動が重なり合っただけの場所。
「何かに憑りつかれているというか、眼が冷めて見えるの。手はあまり出してこないけど、いつか何かの拍子に私、殺されるんじゃないかって思って」
「まさか...」
「あの眼は、私を愛してなんかいないの。むしろ、心の中にはきっと悪魔が棲んでいるのよ」
人間には表面というものがあり、それを時折見せたり隠したりする事がある。
「昔はとても真っ直ぐな眼をしてたのに。夢に向かって挫けても転んでも何度でも立ち上がって、とても純情な人だったのに」
「そうなんだ...」
二人の声が暗闇に響いているという不思議な光景に、彼女は容姿の不明な男にその時は興味を持っていたのかもしれない。
「あなたは?」
「えっ」
「あなたは、どうなの?」
「.....」
少しの間、会話が途切れた。
「ボクで良ければ、力になるよ」
彼女は優しく笑った。
「ありがと」
やがて朝日が昇る頃、彼女も次第に明るく笑うようになってきた。男はその場を離れてホームの方へと歩いていくも、すぐに戻ってきては構内に塞がれて外に出られないと彼女に告げては、朝早く駅員が来るのを暗闇の中で待ちわびていた。
「何か少しだけ、気持ちが楽になってきた。ありがとう」
男は少し笑って、彼女もその場から立ち上がって歩き出した。
「それは、良かった」
早朝、外は次第に晴れ渡りを見せているだろうに地下にはなかなか灯りが燈らない。それを男は、実は知っていたかのように。
「もうすぐしたら、きっと始発が来るよ」
「そしたら、お別れだね」
「ああ...」
もうすぐしたら別れが訪れる。彼女はどんな気持ちで今を迎えているのか。
「そう言えば...」
「何?」
向こうから電車の音が少しずつ追いかけてくるように、徐々に微かに聞こえてくる。
「あなたって」
「.....」
電車の音と前方を照らす灯りが見えてきた頃。
「彼にとても...」
「.....」
男は咄嗟に彼女を抱きしめると、ホームから線路へと勢いよく投げ降ろした。そして電車は突然大きな音と共にホームに近づくと、彼女の悲鳴さえも聞こえぬまま男の所に来て緊急停止した。
男は彼女の台詞の続きを思い描きながら、彼女の後を追うようにポケットから取り出したナイフを自らの腹部に押し当てると、赤くなりながら悲鳴をあげた。
倒れ込んでしまいそうな体勢を堪えながら、男は彼女のなくした定期入れを赤く握りしめたまま、階段付近で力尽きるように動かなくなってしまった。
「彼にとても...」
彼女が残した最期の台詞、それが何を言わんとしていたのか、彼女の悲報が伝わるまでのボクには当然知る由もなかった。
しかし、男が着ていたコートのポケットから見つかった定期入れの中に、彼女の写真があった事から彼女の浮気相手であった事が後日になって判明した。
あの時。
真夜中の構内で、彼女と男の話はボクの話題へと進展していた。
「彼氏さんって、どんな人なの?」
「…」
男がそう尋ねると、なくした定期入れの中に大切にしまってあると告げると、彼女は少し淋しそうだった。
「今、喧嘩中なんだけどね。何だかんだ言っても、彼の事が大好きなんだ」
「そう」
男が真っ赤になって握りしめていた、彼女の定期入れの中にある大切な写真。
彼女のいなくなった構内の遺品として、後日ボクがそれを初めて目にすると、震える手を堪える事が出来ないまま、止めどなく溢れる涙だけが右の頬を優しく伝っていった。
「あの時ボクがキミのそばから離れなければ、こんな事にならずにすんだのに、どうして、どうして…」
二人の中に生まれる気持ちのすれ違いというものは、どちらかの疑いの中に起こってしまうもの。それを修復するには、相手の事を信じ抜く気持ちが必要なんだ。
「浮気なんてしてないのに、どうして信じてくれないの?」
「じゃあ、どうしてボクに黙って隠そうとしたんだ?」
疑う気持ちもまた、相手を信じたいからこその賜物。
「隠してなんかないよ、単に言う必要ないと思ったから」
相手を知ろうとすればする程、その理解もまた、誤解という闇の中へ。
「それを浮気っていうんだよ!」
バシンッ!
彼女に初めて手をあげてから、ボクは自分の知らない自分をさらに狂気へと変貌させていった。
「大切な彼女を、信じてあげれなかったボクなんか、死んでしまえばいいのに!」
彼女をいつしか追い込んでしまっていたように、ゆきずりの過ちを身勝手に生み出していたのは、ボクの横暴な勘違いでしかなかった。
疑いの闇へと葬り去るのは大切な彼女なんかではなく、ボク自身なのだから。
「死ぬとか、そんな事軽々しく言わないで」
「…?」
聞き覚えのある声に振り返ると、信じられない光景を目の当たりにした。
「そんな…」
いなくなったはずの彼女の姿が、そこにあったのだ。
「私は幸い、こうして生きてるよ?光は失ってしまったけれど、私こそキミをずっと捜してたの」
目元に包帯がされた状態の彼女は両目の光を失った事を告げた後、そっと涙を包帯に滲ませて言った。
「もう見えないの、キミの形が。それでも私は、キミの事が大好きだから…」
それでも包帯が滲んでゆく様の彼女の肩をボクの方にグッと引き寄せると、地下鉄がホームを過ぎ去る風音に二人はかき消されるように一瞬辺りが見えなくなった気がした。
「…」
彼女の唇にボクのがようやく重なると、泣き崩れる彼女の身体を優しく抱きかかえて笑った。
「例え目の前の光を失っても、ボクがキミの光になってあげるよ。だからもう泣かないで、キミが泣いてしまったらボクまで目を閉じてしまいそうになるから」
「ううっ…」
彼女の唇がボクのそれからそっと離れると、包帯をゆっくり外して静かに呟いた。
「私、見えるよ?こんなのなくても、キミの顔がちゃんと想像できるから」
「うん、ありがとう。これからはキミのそばを離れたりしないから」
ボクがそう言うと彼女は少し笑って、右腕を差し出した。
「私をずっと離さないでとは言わないから、せめて好きなだけつかまっててもいい?」
「ボクので良かったら、好きなだけいいよ」
そう言って、彼女はボクの心をつかむように優しくも力強く握ってくれた。
「信じてるから、疑わないでね」
「うん、約束するよ」
例え疑うとしても、それはきっとキミにじゃなく、自分自身にだから。
「私、何も見えなくなったけど、心の距離はずっと近くなった気がするよ?」
「うん、ボクもそう思うよ」
明日も明後日も。
それはもう、気が狂う程に。
キミの思う存分、キミの好きなだけ。
ずっとつかまっていてね?
それはもう、気が狂う程に。
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