えー、世の中には「生まれ変わり」なんてぇ不思議な話があるそうでございます。昨日まではあっちの国の人だったのが、目が覚めたらこっちの国の人になってる。現代の言葉ではこれを「異世界転生」なんて言うそうですが、もしも、現代の「天才物理学者」が、落語の世界の「与太郎」に生まれ変わっちまったら……という、世にもとんでもないお話でございます。
まずはその、生まれ変わる前の男のお話から始めなきゃあいけません。
名を、白銀修一(しろがねしゅういち)と申します。こいつがまぁ、とんでもない大天才の物理学者でございました。頭の中は常に数式で満たされておりまして、アインシュタインだのニュートンだの、過去の偉人が積み上げた学問のさらにその先を行くような男。ところが、天は二物を与えずと申しますか、この白銀、恐ろしいほどの「コミュ障」でございました。
「君の書いた論文は、熱力学第二法則を根本から誤解している。時間の無駄だ、小学校からやり直すといい」
学会へ行けば、大先輩の教授に向かって平然とこんなことをのたまう。相手のプライドなんてぇものは、彼の計算式には一ミクロンも入っちゃいない。悪気はないんです。ただ、彼にとっては「真実」がすべてで、人間の感情なんてぇ曖昧なものは、観測不能なノイズに過ぎなかった。
「白銀の野郎、また俺たちの研究を鼻で笑いやがった」
「いくら天才だからって、あんな嫌な奴、生かしておいちゃおけねえよ」
当然、周囲からは恨まれ、嫌われ、孤立していく。特に、彼の研究室でいつも怒鳴られていた助手の男は、腹の底で真っ黒な炎を燃やしておりました。白銀が何年もかけて完成させようとしていた「室温超伝導」の画期的な理論、この手柄をなんとかして横取りしてやろう、そのためには、あの忌々しい天才に消えてもらうしかない、とね。
ある夜のこと、研究室で一人、数式と格闘していた白銀の前に、その助手が一本の缶コーヒーを持って現れました。
「先生、お疲れでしょう。これでも飲んで、少し休んでください」
「……ふん、作業効率が落ちていたところだ。お前の持ってきたものにしては役に立つ」
お礼の一言も言わずに缶コーヒーを煽る白銀。しかし、その中には、助手が裏ルートで手に入れた特殊な毒薬が仕込まれていた。
数分もしないうちに、白銀の心臓が激しく脈打ち始めます。視界が歪み、世界が数式ではなく、ただの真っ暗な闇へと崩れていく。
「な……に、を……。この、化学反応、は……」
「へへへ、先生。あなたの偉大な理論は、明日から僕のものになりますよ。さようなら、天才の先生」
薄れゆく意識の中で、白銀は怒りよりも、激しい「虚しさ」を感じておりました。
(ああ……俺は、宇宙の真理をあれほど解き明かしたのに……人間の、こんな単純な悪意の方程式一つ、予測できなかったのか。誰も、俺を助けてくれない。俺の人生は、なんと孤独で、嫌われたままの……)
パチン、と。そこで白銀修一の意識は完全に途絶えました。
――さて、ところ変わって、こちらは江戸は神田の貧乏長屋。
ここに、白銀とは真逆の、宇宙の真理なんてぇものにはこれっぽっちも縁のない、一人の男がおりました。名を「与太郎」と申します。
これがまぁ、絵に描いたような「愛されアホ」でございまして、働かない、覚えない、まともに喋れない。だけど、どこか憎めないもんだから、長屋の連中がなんだかんだとご飯を食べさせてやっている、そんな男です。
その日、与太郎は長屋の裏手にある、お隣の大家さんの敷地の柿の木を見上げておりました。
「あふぅ……あそこの柿、おっきくて、赤くて、おいしそうだなぁ。へへっ、一つ、もいじゃおうっと」
泥棒をしちゃいけないなんてぇ道徳は、与太郎の頭にはございません。ただ「美味そうだから食う」という本能だけで、木に登り始めた。ところが、与太郎の運動神経ですから、高い枝まで登ったところで足を踏み外した。
「あ、あれぇーーーっ!?」
ドスン! と。
ものすごい音がして、与太郎は頭から地面に叩きつけられた。さぁ、長屋は大騒ぎ。
「おい、大変だ! 与太郎の奴が木から落ちたぞ!」
「しっかりしろ、与太郎! 息をしてるかい!?」
近所の八五郎やら熊五郎、お家のお婆さんまで集まって、与太郎を長屋の布団へ運び込みましたが、それから丸三日、与太郎はぴくりとも動かず、昏睡状態に陥っちまった。
そして、四日目の朝のことでございます。
(……痛い。頭が、割れるように痛い)
白銀修一の意識が、ゆっくりと浮上してきました。
(おかしいな。俺は、あの毒薬で確実に心停止に至ったはず。救急搬送されたのか? いや、それにしてもこの、背中に感じる硬い感触は何だ。ベッドじゃない、これは……藁か? それに、この妙に生臭い、埃っぽい匂いは……)
ゆっくりと、重い瞼を開けました。
すると、視界に飛び込んできたのは、病院の白い天井ではございません。煤で真っ黒に汚れた木造の天井と、そして――自分を上から凝視している、泥だらけの、見慣れない人間の顔、顔、顔。
「あ! 起きたぞ! 与太郎が目を覚ました!」
「おい、生きてるかい! 与太郎、俺の顔が分かるか!?」
耳元で、聞いたこともないようなべらんめえ調の大声が響く。白銀の頭脳はパニックを起こしました。
(な、何だこの人間どもは!? 時代劇のコスプレか? いや、それよりこの男たちの顔……毛穴の密度、皮膚の弛み、どれをとってもCGや変装の類じゃない。それに、俺の体……どうしてこんなに手足が短い? 脳の質量に対する頭蓋骨の容積の比率が、生前と明らかに違う!)
「おい与太郎、ぼんやりしやがって。やっぱり頭を強く打って、本当の木念仁(ぼくねんじん)になっちまったか。ほら、これが見えるか?」
八五郎が、与太郎の目の前で指を三本突き出しました。
「これがいくつに見えるゥ? 三つだぞ、三つ。分かるか?」
白銀は、条件反射的にそれを数式で処理しようとしました。
(指の数は三。自然数における 3。これをこの、前近代的な言語空間で出力しなければならない。ええと、私の声帯の振動数は……)
「……あ、あふぅ。み、みっつ、だよぅ。へへっ」
「おお! 分かったぞ! 三つって言えた! よかった、いつものバカのままだ!」
「バカのままで良かったってのも変な話だが、まぁ、命があって何よりだ。ハハハ!」
長屋の連中がドッと笑い、与太郎の体をぽんぽんと叩く。
白銀――いや、与太郎となった男は、その手の温もりに強い衝撃を受けておりました。
(笑っている……? この男たちは、俺が目を覚ましたことを、心から喜んでいるのか? 生前の俺なら、倒れても誰も心配しなかった。それなのに、この『与太郎』という男は、ただ生きているだけで、こんなにも他人に囲まれて、笑いかけられている……)
鏡などなくても、自分の状況が分かりました。これは「転生」だ。それも、歴史上のどの記録にもない、古典落語の世界の、あの有名なアホへの転生。
頭脳は、天才物理学者のまま。しかし、肉体と言語中枢は、与太郎の「あふぅ」「へへっ」という幼児化フィルターが強制的にかかってしまう。
「(……面白い。熱力学、量子力学、相対性理論……俺の頭の中にあるすべての現代科学の数式は、そのまま残っている。だが、この世界でそれを出力しようとすると、すべて『与太郎の世迷い言』に変換されるわけか)」
天才物理学者としてのプライドと、与太郎としての「愛され属性」。この二つが奇妙に混ざり合った新しい人生が、神田の貧乏長屋で、いま静かに幕を開けたのでございます。
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