9 怪しい遺族
水曜は統計資料の取りまとめに終始した。昼食はコンビニ弁当にした。不祝儀袋を買うついでに唐揚弁当を買ってきた。終業の5時少し前に調査報告書が大体出来上がった。第1次草稿をカラープリンターでプリントアウトし、深野に提出した。統計表と図表がメインで、コメントは簡潔にまとめた。A4で30頁程になった。
5時迄に少し時間があった。亜衣子に目配せして土岐は南條の携帯電話にかけてみた。敬子の都営団地の部屋番号を聞くためだ。南條は呼び出し音が鳴ってから十数秒で出てきた。
「はい、南條」
というしわがれ声が聞こえてきた。風体よりは十歳位若い声だった。
「土岐です。昨日葬儀に参列できなかったんで彼女の家にお線香を上げに伺おうと思ってるんですが部屋番号を教えてもらえます?」と土岐が最後迄言い切らないうちに南條の返答があった。
「八○五だよ。8階だ。ところでいまどこ?」
「統計研究所です」
「じゃ6時頃都営団地のテニスコートで落ち合おうか」
という南條の申し出に土岐は声を弾ませ、
「一緒に行っていただけるんですか」
「うん、ちょっと、引っかかることがあってね」
「6時にテニスコート」
という土岐の声で亜衣子は状況を察した。
「南條さんもいらっしゃるの?」
と困惑したような声で微笑んだ。土岐は携帯電話をオフにし、
「何か気になることがあるんだって」
と亜衣子の涼やかな目を盗み見た。二人は帰宅ラッシュで混雑する日比谷線の広尾から乗車した。人ごみに塗れながら三ノ輪で降りた。駅から大関横丁経由で明治通りに出た。明治通りとぶつかる日光街道の交差点はトラックや営業車で溢れていた。広尾辺りと比べると3ナンバーの車が5ナンバーの車より圧倒的に多い。都バスのバス停で白鬚橋方面のバスを待った。他に乗客はいなかった。数分ですぐ来た。乗車した。白鬚橋の東詰で下車したのは6時5分前だった。都営団地の中央のテニスコートにたどり着くと南條がダスターコートの襟を立てて煙草の紫煙をくゆらせながら所在なげに待っていた。薄暗い夕刻のテニスコートの金網の傍らに煙草の火が揺れていた。煙いのか待たされたからか、南條の眉間に深い皺が刻まれていた。
「こんばんは、昨日はどうも」
と亜衣子が先に艶っぽい声をかける。南條の疲れきった渋い顔がだらしなく破れた。
「お前らをだしにするようだけど、もう一度聞きたいことがある」と言いながら南條はエレベータホールに向かってそそくさと歩き始めていた。土岐と亜衣子は小走りに南條の後を追った。805号室はエレベータホールと非常階段を挟んで、北側の棟のちょうど真ん中だった。表札に、
〈平野〉
とあった。南條がドアフォンを親指で強く押した。暫くして、
「はい、どなたですか?」
という中年の女性の煙草の喫煙でしわがれた品のない声が聞こえた。
「南條です。恐れ入ります。お線香を上げさせてもらえますか?」と言い終えると、少し間をおいて、ドアチェーンがカチャカチャとはずされる音がした。ベージュ色の鉄扉が押し開けられた。アルコープでぼんやりと立っていた土岐はドアにぶつかりそうになった。
「昨日の葬儀はちょっと所用があって参列できなかったもんで、こちらでお線香をあげさせてもらえますか?」
と言う南條の野球帽を怪訝そうに見上げながら厚化粧の小太りの中年女が彼を招き入れた。どてらのようなダスターコートを脱ぎながら玄関に上がる南條の後に亜衣子と土岐が続いた。玄関には安物の脂粉の臭いが漂っていた。
「ご愁傷さまです。私達も警察の者で。お線香を上げさせて下さい」
と中年女に胡散臭い眼で迎えられた亜衣子が言った。
玄関を上がるとすぐに8畳のダイニング。右側にキッチン、左側にトイレと風呂場。中年女はダイニングの奥の左側の居間に三人を通した。団地サイズの六畳の居間の左側の壁際に低い座机、その上に乳白色の骨壷がむき出しのまま置かれていた。その後ろに真剣なまなざしで背面跳びでバーをクリアする少女の写真と墨田区民大会走り高跳び第三位の賞状が額入りで立てかけてあった。骨壷の傍らにアニメに登場するキャラクターのぬいぐるみが十数個配置されていた。亜衣子の目がそれに釘付けになった。放心したようにその前に正座した。その様子を土岐は怪訝そうに眺めていた。南條と土岐は代わる代わる香典を骨壷の前に置き、ぎこちなく手を合わせた。南條はコートと野球帽を畳の上に置いた。櫛の通っていない薄い髪を整えることもなく軽くお辞儀をした。頭頂部が薄くなっていた。南條が般若心経を暗誦し終えて、中年女の方に膝を向けた。
「あの子をここ迄育てるのにいくらかけたことか」
と女が垂れ下がった瞼の下の目を三角にして南條ににじり寄った。黒地の厚手のサテンに金ラメで竜の刺繍が胸から腹にかかっていた。
「この印のついたバッジのようなものに見覚えありません?」
と南條は女を制するように手帳に書き込んだマークを突き示した。
「さあ、それなんですか?」
と言う女の目付きを南條は眼やにの付いた目で食い入るように見た。
「お嬢さんの遺体の付近に落ちていたんですが」
「それが分かると、何かが分かるんですか?」
「もし事件だとしたら犯人に繋がるかどうか。とにかくこれがなんだか分からないもんで。お嬢さんと関係があるのかないのか」
と言いながら南條は手帳を引っ込めた。脈はなさそうだと言いたげに半袖ワイシャツのポケットに手帳を捻込んだ。
「クラブ活動の同級生の話だと風邪を引いてたとか」
「そうね。熱があったみたいで。何か関係あるんですか?」
「まだ流行してないのに風邪をひいてたというのが。それから不審な男がここの住民に目撃されているんですが、何か心当たりは?」
「そいつが犯人なんですか?」
と女は答えずに逆に聞いてきた。
「それも関係があるのかないのか、分からないもんで」
と言ったのを合図に南條はもう一度、女に深々と頭を下げた。
「一応自殺ということにはなってはいますが今後とも必要に応じて捜査を続けますんで何か気が付いたことがあれば、こちらに電話を」
と言いながら南條は名詞の裏に携帯番号をボールペンで書き込んだ。
「この不景気で、亭主の町工場も思わしくなくって。その上、都銀の貸しはがしにあって、会社もいつ迄もつのやら」
という女の哀訴を振り切るようにして南條は立ち上がった。二人もそれに続いた。玄関で最初に南條が草臥れた革靴にプラスティックの靴べらをあてた。野球帽を既に被っていた。亜衣子がローヒールのパンプスに足を滑らした。最後は土岐になった。女が先刻の部屋から出てこないので振り返って、その部屋を柱と襖の僅かな間隙からのぞき見た。女は香典の袋の中身を見ていた。思わず土岐は背筋に冷たいものが走るのを覚えた。土岐がスニーカーを履き終えると、南條と亜衣子は既にコンクリートの回廊に出ていた。三人とも玄関の外に出ようとするとき、中年女がやっと部屋から出てきた。
「それじゃ、失礼します。おじゃましました」
と土岐が代表する形で別れの挨拶をした。女は少し頭を下げた。土岐が回廊に出るとドアノブを強く引いた。鉄のドアが勢い良く閉じられた。チャリチャリというチェーンが施錠される音が聞こえた。エレベータに向かって歩き出すと亜衣子が息せき切って話し出した。
「あのぬいぐるみ見た?ミッキーとミミーとスノーホワイトと7人の小人とドナルドダックと、沢山いたでしょ。これで、繋がったわ!」
南條の足が止まった。
「それはどういうことだ?」
「仮説が検証されたんです。こじつけのような気がするけど」
と土岐が亜衣子の反応を目の端でうかがいながら説明した。
「なんだ、それ?お祭りのあと仮説って?」
と言いながら南條はダスターコートに突っ込んだ両手を下腹の前あたりで合わせた。
「お祭りがあると未成年女子の自殺が増えるんです。とくにCDL開園のあと、有意に東京と千葉で未成年の女子の自殺が多発しているんです。敬子はCDLに行っているんです。しかも、多分、数回」と亜衣子は身振り手振りで得意げに話した。
「そういうのを牽強付会てえんだ。何のことだかさっぱり分からん」と南條が眉根に深い縦皺を寄せた。そこで土岐が二人をエレベータホールに誘導し亜衣子の直感を解説した。
「警察庁と総務省の自殺統計を調べると大阪万博の後とかCDLとかWSJとかが開園すると、明らかにそれ以降、未成年女子の自殺や事故死が僅かではあるけれど増えているんです。理由はまだ分からないんですが。敬子は明らかにCDLに行っているんです。だから、未成年の女の子がCDLに行くと、自殺するという流れがありそうだということです」
そこで南條は腕を組んで首を垂れた。脂汚れで黒ずんだコートの襟があらわになった。エレベータで1階に着く迄南條のため息混じりの沈黙が続いた。終始、エレベータの低い天井を見上げていた。狭いエレベータを降りながら組んだ腕を解き、南條が話し出した。「待乳山に行ってみるか。去年のその近くの自殺も事件か事故かで、ちょっともめたんだ」
と話しながら白鬚橋に向かって歩き出した。
「隅田川に転落して溺死したということで処理されたが転落が事故なのか自殺なのか確証がいまだにない。事件の可能性も」
と言いながら南條は二人が付いてくるのを目の隅で確かめた。ダッフルの土岐は南條の左側にダウンの亜衣子は右側に付いていた。
「問題はその女の子が多少泳げたということだ。泳げる人間が入水自殺をするとは考えられねえ。しかし飛び込んだ地点と思われる桜橋の上には彼女の靴が揃えてあり、肺の中からは隅田川の水が検出された。外傷もない。恋愛問題や進学問題で悩んでいたらしい。状況証拠から署は例によって事故化させようとし、実際そうなった。調書では事故か転落か自殺かは断定せずに着衣のま迄泳ぎづらかったこと、桜橋の中央から転落したので川岸迄泳ぎきれなかったこと、水面に叩きつけられたショックが強かったこと、生きようという強い意志のなかったこと、おまけに風邪をひいていて体力が弱っていたこと、薬を飲みすぎていたこと。そんなような後付の理由がまことしやかに添付されて落着した。高校三年生だったかな。花火大会の終わった後で、死亡推定時刻は午後十一時ごろだ。発見したのは隅田公園沿いでダンボール箱で小屋を作って寝泊りしていたホームレスだ。目撃はしなかったがドボンという音を聞いたと言っていた。最初は容疑者扱いされたが検挙するには証拠が何もなかった。事情聴取のあと帰したら蒸発した。元々住所不定だから蒸発と言うのも変だが。でもこのホームレスが不審な奴でデジタルビデオを持っていた。『ビデオが唯一の趣味で全財産をはたいて買った』とは言っていた。実際、録画したものを確認したら、花火が撮影されていた。
『はやくネットカフェで映像を見たい』というようなことを言っていた。まあ、あのくそ暑い夏にろくに風呂にもはいっていないようで、強烈な体臭だった。しかし、身なりはそれ程プー太郎っぽくなかった。その仏が流れ着いたのが墨田区側の東岸の桟橋で。桟橋と言っても橋はなく、コンクリートの船着場があるだけだが。その船着場も、石段が数段あるだけで、水位が下がると石段の下のほうで乗り降りする。ときどき大学のレガッタの競技があったりもする。ときどき練習もしている。そのホームレスもこちら岸だったんで、墨田署が扱う事案となったいきさつがある。だがその船着場は桜橋の上流にあるんだ。まあ、上流と言っても桜橋から五十メートルもないが、だから、仏は川岸に流されたのではなく、上流に向けてもがいて、川岸に漂着した。そこにホームレスが通りかかった」
「でも他に、目撃者はいなかったんですか?いつかテレビのニュースかなんかで見たとき川岸沿いにダンボールハウスが、いっぱいあったような気がしたけど」
「あいにく、その日はホームレスにとっては年間二大イベントのひとつの日だった。当日、ビニールシートを持った一般人が大挙して花火を見に集まってくる。ホームレスにとっては絶好の稼ぎ時だ。やつらが使用するビニールシートやタッパーや食器や割り箸の大半はこの日に仕込む。あと、この辺のビルの屋上に潜り込んで近隣の住民に成りすまして一緒に飲み食いしたり、ついでに洗濯物を失敬したりする。当日、ほとんどのホームレスは稼ぎが忙しくて、出払っていた。とくに桜橋の下は空が見づらいから一般人も集まらない」「もうひとつの大イベントってなんですか」
「花見だ。土手沿いの木はみんな桜の木だ。四月には土手に一斉に桜が咲く。ホームレスの連中は酔いの回ったグループにまぎれ込んでご馳走をたっぷり食って瓶に残っている日本酒をかき集める。後片付けを手伝う振りをして大量のビニールシートをかき集める。あとは空き缶集め。リヤカー一杯かきあつめると相場によっちゃあ千円から五百円程度の現金収入が得られる。酔った勢いで脱ぎ捨てた上着も拾い集める。中には内ポケットに財布のあるのもあるからいい稼ぎになる。重箱や銘々皿なんかの食器集めも馬鹿にならない」
土岐が思い出したように、
「風邪って言いましたよね。平野敬子と同じじゃ?転落と風邪が」
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