汚れた街を行き交う人々は、こんなにも汚れた格好をしている自分を、何も見てないかのように容易に見過ごして去っていく。
哀れだとか悲しみだとかキレイな意味で使われる事があっても、それを身近で見るとどうして良いのか分からずに、私にそっと冷たい表情を残していくんだ。
いつものように変わらない人生だった自分でさえ一瞬の不幸に遭遇してしまい、駅の外れで今もこうしてダンボールに横たわっていると、色々な人々に出くわす事がある。
幸せに浸っている人やそうでない人、みんな心に陰りがあるのに、それを闇雲に隠そうとする。人と比べてみて、自分の方が上だったら安心する。そんな些細なものでも、ここにいるとそれがそれとして、様々な形として見えてくるのだ。
慣れや習性の恐ろしい所は、人や心を何処までもダメにする作用があるという事を、私は改めて知った。
今日も朝のラッシュアワーが訪れ、それと同時に目が覚める毎日だった。
しばらくの時が過ぎるまで、いつもこうしてボーっとして垢抜けた眼で何かを見据えている。
昼になると相変わらず昼寝と言わんばかりの寛ぎに追われるのだが、その時まるで生きようとしない廃人と何も変わらない私の元に、見知らぬ二人の親子が私の前までやって来て、子供の方が私に話かけてきた。
「…ねぇ、何してるの?」
私は何も答えずに、その場を避けたかった。
「どうして、こんな所で寝てるの?」
条件反射なのか、私は逃げるように二人からそっぽ向いていた。
しばらくしても二人の親子はその場から離れようとせず、気がつけば自分からふて腐れながらも、素っ気なく返答を済ましていた。
「ほっといてくれ…」
ふと二人に眼をやると、その母親は失明したかのように顔に包帯を巻いていた。
「すいません、私の不注意であなたに迷惑をかけてしまいました」
母親はそう言うと、私は咄嗟につられた。
「あ、いえ…あの、大丈夫ですから。お気をつけて下さい」
すると母親は少し笑って、子供に言って聞かした。母親に同情したのか、私は久々に当たり前の感情に出くわした。
母親はそう言って一礼すると、隣の子供は母親の手を離れて、私に嬉しそうに続けた。
「…おじちゃん、これあげる」
子供は私にハーモニカを渡して、さよならを告げた。
「おい、これ!」
「一生懸命練習したら、また聞かせて」
そう言うと、二人はそのまま去っていった。 ただ呆然と二人を見守りながら、私はしっかりと、そのハーモニカを握り締めていた。
すると何故だか自然に涙がこぼれて驚嘆しながらも、そのハーモニカをずっと見つめていた。
その日の夕方、再びラッシュアワーの時間を迎え、あっという間に夜も更けてきた頃、人気のない駅の片隅で密かにハーモニカを吹いている自分がいた。ただ音が鳴り響いているメロディに心の何処かで、もしかしたら弾んでいたのもしれない。
やがて、その日は過ぎていった。
次の日、私の元に二人の親子が再びやって来て、互いに挨拶を交わした。どうやら今日を以て、東京から実家へ帰省するらしい。
母親はもう一度、私に一礼をした。
「…おじちゃん、練習した?」
その言葉に、私は恥らいに拒んで言った
「いや、まだ…」
「じゃあ、頑張ってね」
そう言い残すと、子供は母親を引っ張って駅の方へと走っていった。
それ以来、私は無意識のうちに平気でハーモニカを人前で吹けるようにまでなっていた。私の前を行き交う人々は何も言わず、知らん顔をして去っていく。しかし、私は二人のお陰で一つの答えに辿り着く事が出来たのだ。それは人がどれだけ無垢なものか、そして生き甲斐というものがこんなにちっぽけで、こんなに身近にあったものだと、その時初めて知らされた。
そんな優しさに包まれながら、私はいつまでもハーモニカを吹き続けている。例え人々がどんなに冷たくても。どんなに、ちっぽけであっても。
「…スゴイね、おじちゃん」
いなくなったはずの子供の声が、後ろの方から聞こえた気がした。
「…」
「それ、何て曲?」
私は亡き妻をなくしてから仕事も辞め、生きる気力もないまま。こんなみすぼらしい格好で、ただ流れる時間を持て余すように、死ぬまでの時間を無駄に潰して生きてきた。
こういう大人たちは時代と共に増えていくばかりだと。周りの人たちを見ていると、それが手にとるように分かるのだ。
若いうちに魅せられた夢や希望や愛という幸せの形は、大切な人の死によって簡単に摘み取られてしまうのだと。そのような幸せを継続させるには、妻や子供という家族の力が必要不可欠なのだ。
私にそれがなくなってからというもの。時代は不景気から抜け出す事もなく、若者たちにもそのハンデが強いられている。
「…これ、か?」
失明という障害を持って懸命に生きている母親と連れ添いながら、その小さな子供はたくましい以外の何者でもない。
私はその子供に、どうしても希望という形を教えたかった。
「…これはな、希望の唄って曲さ」
「希望の唄?」
子供はそれを気に入ってくれたのか、手拍子をして相槌を打ってくれると、終始笑顔だった。
「おじちゃん、上手だね」
「なあ。ママは、どうした?」
私が尋ねると、その子供は駅の方を指差した。
「切符、買ってるの」
「ママ、一人で切符買えるのか?手伝わなくて大丈夫なのか?」
子供は頷くと、私はまたハーモニカを吹き続けた。
「おじちゃん。今度は、違うの吹いてよ?」
私はその時、亡き妻の事を思い出していた。まだ妻のお腹には生まれて来ようとしていた子供がいたにも関わらず、そのままこの世を去ってしまった、愛する妻の行方を。
「湊!」
「…!」
駅の方から、大きな声で子供を呼ぶ声がした。
「ママ、今行くよ」
私は唖然として、子供を呼び止めた。
「なあ!」
「…何?」
私はその子供に、勇気を出して質問した。
「お前の名前…湊って、言うのか?」
「そうだよ。私は、北川湊。ちなみに、ママの名前は…」
「よせっ!」
私は突然声を荒げて、強く叫んでしまった。
「あ、いや…いいんだ。ママの名前は」
「おじちゃん、変なの。じゃあ、私行くね」
私は亡き妻を思い出しながら、涙を浮かべていた。
妻は私のいない所で交通事故に遭い、行方不明のまま数年が経っても見つかる事はなかった。だから、私はてっきりもう死んでしまったのだと思い込んでいたのだ。
それなのに。
「湊…」
「なあに?」
遠くから私がその子供の名前を呼ぶと、隣にいた母親は私の方を向いて、しばらくの間、そのまま呆然と立ち尽くしていた。
「北川、玲子さん…ですよね?」
「!」
私は子供の目の前でしゃがみ込むと、ハーモニカを差し出して、子供にこう言い聞かせた。
「今からパパの所に行くんだろ?じゃあ、これ大切に持っていかなきゃな?」
私はそう言うと、母親の頬にスッと涙が伝うのが分かった。
「…そのハーモニカは、私がママにあげたものなんだ。だから、大切にしてほしいんだ」
「おじちゃん、どういう事?ママの知り合い?」
「あ、あの、あなたは…」
母親は私に少し近づくと、私は母親の腕をそっと握りしめて喋り続けた。
「こんな形だけど、会えて嬉しかった。湊を宜しくな」
私がそう言うと、母親はその場に泣き崩れた。
「おじちゃん、ママを悲しませないで!」
「ああ、ゴメンな。おじちゃん、もう行くから、元気でな…」
子供はしばらくして、母親を連れ添って駅の方に向かって行った。
「北川湊、か。幸せにな、玲子…」
玲子に贈った、ハーモニカ。
それは、彼女に想いを伝えた時だった。
玲子はオルガンを、私はハーモニカを。同じ大学内で専攻していた。
私が初めて作った『希望の唄』に、オルガンで伴奏をつけてくれた玲子に、ある時から惹かれていたんだ。
大学卒業の日、私は勇気を出して玲子に告白をした。すると玲子は、快く頷いてくれたんだ。
私はそれがとても嬉しくて、大切なハーモニカを玲子に受け取ってほしいとプレゼントした。
その時のプレゼントが、今は子供に受け継がれているんだね。
湊という名前も、二人が大好きだった神戸の港の景色からあやかって名付けたもの。
キミがまだ、この世に生きていてくれてるという事だけで、私は幸せ者なんだ。
本当に心から、会えて良かった。
湊と玲子を幸せにしてくれる、パパがいるのなら。
私もまた、幸せだ。
それから、どれくらいの月日が流れたのだろう。
粉雪の降り積もる駅の向かいで、私はずっと俯せのままピタリと動く事もなく。少しばかりの笑顔で、しばらく眠り込んでいた。
彼女のオルガンが、私の耳元で囁くと。
湊の前で、再度ハーモニカを奏でながら。
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