「大丈夫、大丈夫」
何度も何度も、ただ無意味に繰り返される言葉。
ミク姉に抱きしめられた少女は、真っ青な顔をして震えていた。その理由すら、僕には分からない。しかし、少女がひどく怯えていて、ミク姉の声すら耳に入っていないことは分かった。
ミク姉は僕の存在に気付いたようで、少女の方を気遣いながらも、僕の方へ歩いてくる。ルカ姉は廊下で立ち止まったまま、何も言わなかった。
メイコ姉たちの姿はない。おそらく、もう帰ったのだろう。
「レン君」
ミク姉が僕の名を呼ぶ。その瞬間、少女の肩が大きくはねた。そして、ぎこちない動きで、恐る恐る僕の方へ顔を向ける。
見開かれた瞳が僕を映した、その次の瞬間、僕の視界がぐるりと回った。
一拍おいて襲ってくる、背中の痛みと息苦しさ。
「レン君!」
ミク姉の叫び声でようやく、自分が投げ飛ばされて床に叩きつけられたことを知った。
僕の身体の上には少女が馬乗りになって、憤怒にゆがんだ顔で僕を見下ろしている。先ほどまでの恐怖に満ちた表情に上塗りされた、僕には理由も分からない激情。
少女の震えた手に力がこもり、僕の腕がぎしぎしと音をたててきしんだ。
包帯にじんわりと血がにじむ。
それを少女とミク姉から隠すために、身体をねじって少女の手を振りほどいた。
それでも、少女との位置関係をどうにかすることは出来ない。
「なんで……」
震えた声が降ってくる。身体は震えているくせに、少女の声は妙に落ち着きはらっていた。彼女の中で拮抗する何かが、そうさせているのだろうか。
「なんで、あたしを助けたの」
僕には、少女が何を言わんとしているのか、まったく分からなかった。
視界の端で、扉が閉まる。ルカ姉がミク姉を廊下へ引きずり出したのだと知った。
「なんで一人で逃げなかったの」
少女の恐怖も怒りも、僕があのとき、倒れるまで魔法を使い続けたことにあるのだろうか。何故、この少女は僕を嫌い、そのくせ僕のことをこんなにも気にかけるのだろう。
初対面なのに。
「なんで! なんであたしなんかのために! 助けてほしいなんて、あたしがいつ言ったのよ!」
少女は、何に怒っているのだろう。「誰に」怒っているのだろう。君が見ているのは、本当に僕なのか?
「……別に、君を助けたわけじゃない」
「嘘!」
「本当だよ。あの状況では、僕も村も、皆危なかった。君一人見殺しにした程度でどうにかなる状況でもないし、第一、逃げ足だったら君の方が早い」
「そんなの知ってる! でも、でも……」
少女は、僕の胸に顔を伏せて、泣きだした。
僕は、恐る恐る、少女の背中に手をやった。少女は、僕の手を拒絶しなかった。
少女が怒った理由も、泣いている理由も、何もかも分からない。分からないけれど、少女が酷く傷ついていることだけは分かった。
出来る限り優しく、血のにじむ腕で彼女を抱きよせる。
彼女は僕を嫌っているかもしれないけれど、でも僕にだけすべての表情を許してくれているのだ。
「一人で生きるなんて嫌だよ……だから、だから……」
分かったよ、僕は死なないから、君のためであろうとも自分を犠牲にはしないから。
喉まで出かかった言葉を、呑み下す。それはきっと、僕の言っていい言葉ではない。
彼女が僕に許してくれていることと、決して許してくれないであろうこと……その境界線を越えてしまったら、傷ついた彼女は壊れてしまうかもしれない。
彼女にとって僕がどんな存在なのかは分からないけれど、彼女が僕を通して他の誰かを見ているのだとしたら、彼女の言葉は僕に対してのものではないのだ。
「ねぇ……」
彼女は、声にはせず、唇だけで誰かを呼んだ。
一体誰を呼んだのか、僕には分からないけれど……レン、と呼んだように見えた。
-----
泣き疲れて寝てしまった彼女をミク姉のベッドに戻して、廊下に出る。立ち聞きしているかと思ったけれど、ルカ姉もミク姉も、そこにはいなかった。
ルカ姉の声がどこかから聞こえてきて、それを頼りに、狭いリビングの扉を開く。
「あ、レン君……って、ちょっと、その腕!」
ミク姉は、悲鳴のような声を発して、僕の手を思い切り掴んだ。
「痛いって!」
心配してくれるのなら、もう少し優しくしてくれたっていいのではないか。
「だって!」
包帯からもれだして指先まで伝う鮮血に、ミク姉は驚いてあたふたするばかり。
溜息をつきながら、ルカ姉が新しい包帯を出してきた。ミク姉は、それを受け取ってようやく落ち着き、僕の腕を診てくれる。
「で?」
ルカ姉は、僕の怪我にはさして興味がないのか、それともミク姉の慌てっぷりに自分は傍観を決め込んだのか、ともかく妙に落ち着いた声で言った。
「あの子は、どうなったの?」
どうなった、と訊かれて、僕は困った。泣き疲れて眠った、それしか僕には分からない。でも、それでは説明にもなっていないだろう。
「……分からないよ」
僕はただ、そう口にした。
彼女が何を思っていて、そしてこれからどうなるのか、何も分からない。それが分かるほど信用されているとも思えない。
でも、誰かが彼女の理解者になるのだとしたら、それはきっと自分だろうと思った。理由もない、漠然とした確信。
「分からないけど……もしかしたら、その方がいいのかもしれない」
「どういうこと?」
ミク姉は首を傾げる。
「あの子が話してくれるまで、分からないままでいいのかもしれない。分からなくても、出来ることはあると思うから」
もし彼女が、ほんの少しでも僕に心を許してくれているのなら、彼女を救う糸口はあると思う。
たとえ、彼女が本当に怒った相手が、本当に泣きつきたかった相手が、僕じゃなかったとしても。
「……お人好しね」
呆れたように、ルカ姉が言う。
確かに、僕はどうしようもないお人好しなのかもしれない。
でも、少なくとも、ルカ姉が思っているようなものではない。
僕が彼女を救いたいと思った理由は、博愛でも隣人愛でもない。外見が似ているからでも、彼女が無知だからでもない。うまく言葉に出来ない、他の何かだ。
魔法使いは言葉を操って強制的なコミュニケーションを可能とする。言葉に出来ない感情というのを、こんなに意識したのは初めてだ。
魔法使いとして、致命的なことかもしれない。
でも、何故か、その感情は温かかった。
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