時にそれがどうしようもなく私の心を苛んだって構わない。私は、何度も自分に言い聞かせて、激しい感情を塗り潰しながら生きてきた。
それで良いのだとずっと思っていたし、そうすれば目指すものに近付けるのだと思っていた。
<私的空想パレット・2>
「昼休みに油絵?ああ、なら多分あいつだよ」
あっさりと友人はそう言った。
彼は私と同じ、中学二年生らしい。ただし私が知らないのも当然で、彼の在籍クラスは私のクラスより三つほど離れていた。
この学校は割と有名な進学校の私立中高一貫校、一学年にクラスは十程ある。高三までの六年間で全員と顔見知りになれるか否か、というところ。私には無理な気がする。
「それに、あんまりあいつ目立つタイプじゃなくない?」
「…う」
確かに、なんて失礼な事を言いそうになって、慌てて口を閉じる。
いくらなんでもここで肯定は酷い、よね。
でも正に彼女が言う通り、彼は目を引く何かを持っている訳じゃない。
ううん、違う、きっと本当はそういう物を持っている。だけど彼は自分からそれを隠しているようなところがあった。
人の顔の美醜は良く分からないけれど、多分不細工だからとかではなくて、纏う空気が停まっているというか、もっと極端に言うならやる気がないというか面倒そうというか…多分、色んなことに無関心なんだろう。それを隠そうとしないから全体的に消極的な空気が纏わり付いているんじゃないかな。
ただし絵を描くことにだけは一心不乱。それが私が感じた彼の姿だった。
要するに、他に向けられるべき力が全部絵に向けられているような気がする。そう考えると、納得できた。
「でもね、確かあいつってアレで結構凄いんだよ?コンクールとかでばんばん賞取ってるみたいだし、腕は確かなんだよね」
「へえ、そうなんだ…」
―――凄い、な。
私は賛嘆の思いを込めて、そう考える。
つまり、彼は非凡な存在。私から見て手の届かない、高みにいる存在の一人だって言うことなんだろう。
―――やっぱり、これ…貰うべきじゃなかったのかも。
制服のポケットに入りっぱなしの青の色彩。
中身をなくしてぺしゃんこになった、天上の青。
私が勝手に考えているだけだって分かっているんだけど、それでも私と彼の間に隔たりを感じてしまって、少し気分が落ち込む。
はあ、と溜息をつくと、友人がすかさずそれを拾った。耳聡い。
「なーに、もしや一目惚れ?」
一目惚れ…
私は首を傾げた。
あの場所に、そんな甘いものが発生する要素って、あったっけ?
ラブロマンスを期待するには、ちょっと淡々としすぎていたような気がする。
ただその一方で、彼から貰ったチューブは確かにポケットの中に存在していて。
とりあえず、私は当たり障りのない答えを返す。
「そんな、柄じゃないよ」
「いや、リンなら古典的な恋も有り得る」
「イエス、何をしても不思議じゃない」
これは褒められてない。ような気がする。
「でもそれはないよ。…あ、そうだ、今のうちに本返してこなきゃ」
私の恋愛談議に花が咲く前に、借りていた本を手にそそくさと席を立つ。
結構分厚い本を五冊机から取り出すと、皆は流石にそちらに興味を引かれたらしい。
「しかしリンも本当に良く本読むね。凄いなあ」
「いやいや奥さん、あんなにいそいそ出掛けるのは最近外に男が出来たからですぜ」
「アキ、あんたほんとに何キャラ目指してんの。リン、この馬鹿は気にしないでゆっくり行っといでー」
「うん、ありがとう」
わいわいと遠慮なく技を掛け合う一団を背にして教室を出ている。
そこで私は、ほう、と息を吐いた。
愛だとか恋だとか、そういうのではないと思う。
ただ、彼が気になるのは確かだった。アキちゃんの最後の台詞はあながち間違いじゃない。
人通りが殆どない廊下を、また少しだけ遠回りしていく。
彼に会った日から一週間くらいは、なんだか気恥ずかしいというか…とにかくあんまり美術室に近寄る気にならなくて、意識して避けて歩いていた。だって、万が一彼に会ったらきっとかなり気まずい。確実に変な奴だと思われているだろうし。
今日も彼はいるんだろうか。
それとも。
「……あ」
私は軽く声を出す。
美術室はドアが閉まっていた。見たところ、電気も点いていないみたい。
…いないのかな。
何となく気落ちしながら、隙間から間でも覗けないかと扉に近づいて目を寄せる。
当然ながら鍵の掛かった扉にそんな隙間があるはずもなく、結局無意味に目を凝らしただけで終わってしまった。
別に期待してたわけじゃないって思ってたけど、これだけ残念な気持ちになるって事は、やっぱり心のどこかで彼に会いたいと思っていたのかもしれない。
はあ。私は身を屈めたまま溜息を吐く。
右肩に、ぽん、と手が置かれたのは次の瞬間だった。
「何してるの?」
ぎょっとして顔を上げる。―――呆れた顔でそこに立っているのは…
「なんか、前も思ったけど、君って結構奇行が多い人?」
み、見られてた…!?
「…い、いつからそこに」
「割と最初から。…ちょっといいかな?鍵、開けたいので」
ちゃり、と鍵を鳴らして彼が手を伸ばす。
慌てて避けると「どうも」とお礼を言われた。律儀というか、何と言うか…
…ちょっとだけ、勿体ないな。
だって、それを笑顔で言えば周りからは愛想の良い人だって思われるだろうに。
ただ、ここで笑顔を作れるようなら、彼はこんな絵は描けるようにならなかったのかもしれないとも思う。うう、難しい。
がららっ、と勢いよく扉が開かれて、人のいない部屋特有の微かな冷気が一瞬だけ肌に触れた。私、少しの間ぼんやりしていたのかな。
―――そうだ、何か、何か話し掛けないと。
すぐに閉められるだろう扉を予想して、急いで頭を回してみ…ても残念ながら相応しい話題が見つからない。
沈黙が横たわる。
くうぅ、空気が肌が痛いような…
…って、ん?沈黙?
私は慌てて顔を上げる。そこには、黙ってこっちを見ている彼がいた。
開かれたドアに寄り掛かりながら表情の読めない顔で私を見つめている。
私を見ているのか、待っているのか、多分そんな所だろう。
でも、どうして?
困惑しきって彼を見つめると、彼は当たり前のように私を促した。
「入れば?」
「入…え?いいの?」
「勿論」
知り合いに見られたらどうしよう。そんな逡巡が頭を掠める。
男子と部屋で二人きり、なんて所を見られるのは極力避けたい。だって、噂を流されるか面白そうな目で見られるか、どうなるかは分からないけれど、あまり歓迎できる未来を予測できないから。
でも、彼がせっかく待っていてくれているし…
結局、考える時間は殆どなかった。待たせたら悪い、という気持ちが他に勝ってしまったせいだ。
「で、ではお邪魔します」
ぎこちなく頷くと、彼は応えるように重々しく頷いた。
「お茶は出ないけどね」
…普通、美術室にお茶は期待しないよ。
それを契機に、私はたまに彼のいる美術室を訪ねるようになった。といっても何をするわけでもなく、無言で座って彼の作業を見たり、時々言葉を交わすくらい。長居さえしない。長くても5分とか10分とか、その程度。
ただ、流石に慣れてきたせいで敬語が取れたのは変化と言えると思う。
彼との最初の接点になった絵は滞りなく完成に向かい、セルリアンブルーのチューブは未だに返す事なく制服のポケットに入ったままになっている。
どうしよう、といつも思うんだけど、毎回出しそびれてしまって、段々そこにあることに違和感がなくなって来てしまっている。
問題だよね、渡すの忘れちゃいそう。
というか、冷静に考えるとこれってゴミ?…中身もう無いみたいだし。
かといって捨てる気分にもならないのが、ちょっとおかしいような気もする。
絵筆を持つ彼の傍で特に何をすることもなく立ってみる事数日。
だんだん慣れてくるのと一緒に、私はその静かな空間が意外と居心地が良い事に気付いた。
誰がいる訳でもない。唯一側に座っている彼は私の言葉を求めない。
その、「何をしなくても良い時間」がとても私を落ち着かせた。やっぱり、自分以外の人と一緒にいるっていうのは気を張るものなんだろうな。
…特に、…
「そういえば」
不意に彼が口を開いた。
「君さ、どうしてそんなに繕ってるの。性格」
「えっ?」
唐突に何を言われたのか分からなくて、私は目を瞬かせた。
私に質問しているくせに、彼はいつも通り絵筆をもってキャンバスに向かったままこっちを見ようともしない。冷静に考えたら人付合いとしてはどうかと思うけど、大体慣れちゃったし…まあ、いいか。彼らしい。
「自覚してないのかな。まあこっちだって、人を批評するだけの人生経験を持ってる訳じゃないけど」
筆先は止まらない。
薄い色が何層も塗り重ねられて…果てしない空が描き出される。
今の彼がそういう気分なのか、その色合いはちょっと厳しさを持って見える。
「…」
その青になんとなく気圧されて、口ごもる。
「ああ、良いんだよ別に。だからどうって訳じゃない」
私の沈黙に対し、やっぱり彼は目線すら上げずにそう言った。
さすがにちょっとむっとする。そう言われた側の私の混乱とか、想像しないの?どうって訳じゃない、なんて…じゃあ口に出さなければいいのに。
わざわざ言うほどじゃないけどなんだか納得出来ない気持ちを押し込めて、結局私は呟くに留まった。
「じゃあ…傍若無人に振る舞え、って?」
思ったよりも感情が声に出た。ぴたり、と彼の持つ絵筆が止まる。
私を仰ぎ見た瞳は、キャンバスと同じ色で揺れている。
「…単に、窮屈そうだと思っただけなんだけど」
ぼそ、と呟かれた言葉は何かの感情を滲ませていて、そこで私ははっと我に返った。
大丈夫、別に気にしてない―――反射的にフォローの言葉が口を突きそうになるのを留める。
彼はそういう言葉を欲しがっている訳じゃない。
そんな気がしたから。
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