日常生活ってなんだっけ?
私たちが過ごす、当たり前のような毎日のこと?

じゃあ、私の日常って何?
私の空洞を埋めるものはどこ?

誰か。
私の日常を説明して。
私が私であることを証明して。

崩れる?
日常が?平和が?人格が?
それとも私自身なら、もうとっくの昔に崩れている。

支離滅裂な思考はまとまらない。
正常を外れた意思は暴走を始める。


ああ。
もう。
どうでもいいや。

全部。









手元のキーボードに手を添え、目の前の画面と睨み合いを続ける。
私が睨めっこをしているそのノートPCは、女性でも持ち運びが便利で喫茶店等でも気軽に使用できるタイプで、機能や通信状態も良くそこそこスペックが高いというその便利性からビジネスでよく用いられている。
わざわざ画面を目元をきつくして見ているのは、熱気がこもるアスファルトの街中で駆け回って苦労してまとめた資料を上司である部長に提出したところ、あれが悪いだの棒グラフでなく円グラフで表示してもっと今後改善できるような意見を載せろだのお前は要領が悪すぎるから俺の足を引っ張るだのと、いつものようにいろいろと難癖をつけて突き返してきた上に、まとめ直して明日までに俺のデスクに置いておけと言ってきて――つまるところ、今日も残業を余儀無くされたのである。

小さな、地元ではそこそこ有名な保険会社に就職したはいいものの、配属先の営業部第二課の部長は自分がいつまでも出世できないことを部下のせいにし、何かと人の嫌味と皮肉をでっち上げてはそれしか言わないことで社内では有名で、私はその被害を受けているかわいそうな社員の一人になってしまったのだ。
まとめた資料は他の課ではなかなかいい出来だと好評だったのだが、部長はやはり気にいらなかったようで…いや、そもそもあの部長はうちの課の人間がチェックを依頼した資料は、ろくに目も通さずにガミガミと文句を言っていただけのような…。
部下にサービス残業をさせておいて自分はしっかりと定時に帰るのだ。おかげで私たちのストレスと疲労は溜まって行く一方なのである。

資料を作り直すために表計算ソフトウェアを立ち上げた私に、同僚や他の課の人間は皆苦笑いでねぎらいの言葉をかけてくれた。上司が上司なだけあって、皆考えていることはほぼ一緒なのだ。だからこそ、私はまだこの会社を辞めないでいられるのだが。

部長への日頃の恨みと不満が原動力となったのが幸いしたからか、時計の針が八時を指す頃には作業も無事に終了し、椅子に座ったままではあるが私はあくびと共に伸びをすることができた。
以前は終電に間に合わず仕方なく歩いて帰ったのだが、家に着いたときには日付も変わって足も痛く大変疲れた。
今日は終電には間に合う時間だが、家で夕食を作ると深夜になってしまうだろう。寝る直前に食べると翌朝は胃がもたれるので、仕事に支障をきたすだろう。よく考えれば冷蔵庫にたいして食材は残っていないし、スーパーだってもうこの時間には空いていない。止むを得ないが、夕食はコンビニ等の24時間営業の店で済ますことにしよう。




家の部屋の電気を付けて、片付けてもいない敷布団に崩れ落ちるように座ると、今日一日の疲れがどっと溢れ出た。連日の残業は当たり前だが体によくない。あまりにも続くようなら労働基準監督署への通報も考えよう。

布団の上で寝返りを打とうとすると、卓袱台の上に一通の手紙が乗っているのが見えた。
あれはなんだっけ。…ああそうだ、昨日帰ってきたら郵便受けに入ってたんだ。でも疲れて、中身も誰からきたかも見ないまま眠ってしまったんだっけ。

体を起こして手紙に手を伸ばし、差出人を確認する。


≪ 初音 未來 ≫


初音 未來(みらい)。中学校からの私の親友の名前。何をするにも気が合って、勉強も部活も二人三脚で頑張ってきた。高校卒業後、シンガーソングライターになると言って東京に飛び出して行き、「初音ミク」として数年経った今ではなんとか上手くやっているようでテレビでも度々その姿を見かける。たまに連絡はとっていたが、こうして手紙で来るのは初めてだ。


「元気ですか。私はおかげさまでなんとかやらせてもらってます。梨々(りり)は大丈夫?私みたいにならないで、元気で過ごしてね」

要約すると手紙にはだいたいこんなことが書いてあった。
「私みたいにならないで」の箇所は詳しく書かれていないからよくわからないが、何か辛いことがあったのだろう。しかもこうして手紙を書いてくるということは…

「未來…」

よく見ると、未來の文字が震えて書かれたように見える。メールでは無機質な文字列でも、彼女の温かい手で直接刻まれた文字は、それ単体で意思を持つ。

なんだか無性に未來に会いたくなった。彼女が心配なのもそうだが、私自身今まで言えなかった会社の愚痴を洗いざらい聞いてほしいのもある。
でも未來は今東京にいる。お互い共通の休みがとれるとは思えないし、私から行くのは難しいかもしれない。そもそも大都会東京なんて絶対に三分で道に迷う自信がある。かといって未來に来てもらうなんてのも本当に申し訳ない。

聞いてもらいたいことは山ほどあるが、その凄まじいまでの話題の中からいくつかをピックアップし、眠気や疲労を頭の片隅に追いやって黒のボールペンで便箋に文字列を書き連ねた。






手紙の返事を送って一週間経った日、私は定時に職場を出ることができた。珍しく、本当に珍しく部長の気分がよかったからだ。その部長に飲み会に誘われたがやんわりと断った。たまには早く帰らせてくれ。
ちなみに気分がよかったからか、私が誘いを断ったことによる例のお怒りはなかった。むしろ部長は笑って許してくれた。…違和感しかない。

さて、せっかく早く帰れるのだし、久々に知り合いの店に寄って行くことにした。
その店は地元の小さな喫茶店で、夜はバーもやっている。メディアの取材が来ることはないしあまり有名ではないが、静かだからこそ我々常連客はゆっくり過ごすことができる。なんとも皮肉な話だ。


入り組んだ路地を抜け、考え事をしていれば気づかずに通り過ぎてしまいそうなその店の、フランス語で店名が書かれた小さな看板を横目に扉を引き中へと入る。

「いらっしゃい。…おや、橘さん。ずいぶん久しぶりだな」
「あれ?あの子は?」
「今買い出しに行ったよ。だから代わりに俺が立ってるんだが。…まあ、ゆっくりしていってくれ」

バーカウンターの向こうに立っていたのはバーテンダーの少女ではなく副店長の男性。彼はこの店の常連客は苗字で呼ぶから、名前を知られていることにはさして驚かない。

店内には曲が静かに聞こえてくることはなかった。今日はBGMをかけていないらしい。というのも、この店にはオルガンが置いてあって、そこで誰かが演奏しているからだ。成る程たまにはこういうのもいいかもしれない。

…どこか聞き覚えのある曲だ。
確かこれは、私の大好きな親友が作った……

「…なん、で」

不自然に曲が止まったのは、私の口からその言葉が零れ出たからだと理解するのに、たいして時間はかからなかった。

オルガンを弾いていた女性がこちらを見る。

「未來」

お互いに僅かに表情を変え、お互いを見つめたまま動かない。

「…梨々」

今、お互いに考えていることはたった一つしかないだろう。

---どうしてここに---





「…そう。梨々も大変なのね」

カウンターに座り、静寂が流れる店内で二つの声が響く。今店内には私と未來しかいない。
私はジントニックを片手に、彼女に近況報告をした。

「懐かしいね。昔の梨々はベース、私はピアノで、ずっと飽きずに二人で演奏して。なのに今は、梨々はパソコンと睨めっこしてて、上司がやだー、なんて。ふふ」
「この時代、仕事をさせてもらえるだけでもありがたいけどね。それでもあの部長の態度はないよ」
「ふふ、今日はよかったじゃない」
「まあ…ね。それで?問題なのはあんたのほうよ。未來、どうしてこっちに戻ってきたの?ご丁寧にスーツケースまであるし」

私のほうはこの間の手紙と同じようなことしか言っていない。
だが未來は全く手紙と状況が違う。地元に戻ってくるなんて思いもしなかったし。

「このこと、あまり人には話さないでくれる?…私ね、最近軌道に乗ってきたところだったの。とうとう皆に私の歌を聞いてもらえるんだって」

彼女はモヒートを飲みながら話してくれた。
ある収録の帰り道、誰かに後を付けられたこと。東京で借りていたアパートに大量の嫌がらせの手紙が送られてきたこと。自分を盗撮した写真が大量に送られてきた封筒の中に入っていたこと。まるでカメラで全てわかっているかのように、迷惑メールが毎日何通も来ること。それが全て一人のストーカーによるものだということ…。

「それまではギリギリ耐えてたの。辛かったけど、まだ一人でも大丈夫だったから。…でもね、ある日突然、週刊誌にスキャンダル風に書かれたの。載ってた写真ですぐわかった。その写真、うちに送られてきた隠し撮りされた写真だったから…」

ストーカーは、未來が恐怖で怯える姿を見て楽しんでいたのだろう。そして過激化し、写真を匿名でマスコミに持ち込んだ。
ネタがなかったマスコミは、人気になりだした若きシンガーソングライターのでたらめ記事をでっち上げた。話題作りのためだ。
未來のことなど、何一つ考えずに。

「辛かった…。全て監視されてるみたいで、私の歌を届けたいって気持ちはどうでもいいんだって言われてるみたいだった。皆、面白ければいいだけなの。…私ね、昨日のうちに事務所を出て、アパートも全部引き払って、誰も私をいじめないこっちに逃げ帰ってきたの」

カウンターに、ポタポタと雫が落ちていく。

「私…まだ音楽を続けたい。曲を作りたい。歌を歌いたい…お金なんていらない、皆に聞いてもらいたいだけなのに…、っ」

彼女は頭を抱えて、まるで全身の痛みを堪えるかのように苦しみ出す。

「どうして!どうして酷いことするの!人の心なんてどうでもいいと言うの!」
「――未來!落ち着いて!未來!」

――未來が急に叫び出した。
おかしい、未來の様子が…まるで何か、悪いものに憑かれてしまったみたいに。

未來は暴れる中、自身のスーツケースをひっ掴むと中から何かを取り出し、その中身を口に含む。
カウンターに最初出されたコップの水でそれを流し込むと、ふっと魂が抜けたかのように後ろへ倒れた。

ガラスが割れるけたたましい音が響く。コップが床に落ちて砕けたようだ。
同時にスーツケースも床で中身が散らばる。

「…未來?未來!」

彼女の体を抱える。どうやら気を失っただけのようだ。
スーツケースからは紙袋が出てきた。そこには一言、「精神安定剤」とだけ書かれていた。
彼女が飲んだのはこれのようだ。


彼女はいったい、どこまで追い詰められていたのだろうか。
彼女はもう精神が壊れ始めているのかもしれない。
彼女を支えてあげなければ。親友として、彼女の味方として。


「表に車を回しておいた。初音さんを運ぶぞ」
「副店長さん…もし未來が回復したら、二人でここに演奏しに来ても、いいかな」
「…いつでも待ってるさ」

戻ってきた副店長に手伝ってもらって、未來を後部座席に寝かせる。
彼女はしばらく私の家で匿うことにした。彼女の精神を休めて回復させなければならない。
まず手始めに…明日。明日は確か未來の誕生日だ。私はできる限り、未來に幸せを取り戻してほしい。

だから私は、未來と二人で生きていく。
彼女の人生を、絶対にいいものにさせてあげたいから。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

【ミク・リリィ誕】Pygmalion Complex

【ピグマリオン・コンプレックス】
人形偏愛症を意味する用語。心のない対象である「人形」を愛するディスコミュニケーションの一種とされるが、より広義では女性を人形のように扱う性癖も意味する(Wikipediaより引用)

橘 梨々(たちばな りり):Lily
初音 未來(はつね みらい):初音ミク

リリィちゃん初登場!
そして知ってる人は見覚えのある世界観だよね!
加えてやっぱり誕生日に向いてないね!
もっと言えば(ry

こんな人間ですけど祝う気は満々です。
むしろ最近シリアスしか書けない助けてください。

閲覧数:387

投稿日:2014/08/30 00:59:28

文字数:4,827文字

カテゴリ:小説

ブクマつながり

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