こんにちは!栗山和輝です。
創作という名の深い森を歩いていると、時折自分の影が自分よりも先に未来を歩いているような錯覚に陥ります。
私たちが画面に打ち込む文字や、誰かのために紡ぐ旋律は、果たして本当に自分の内側から湧き出たものなのでしょうか。
かつて私は、月の光を浴びると青く発光する、不思議な植物の種を拾いました。
その種を庭に埋めると、翌朝には空に向かって伸びる巨大なエスカレーターが一本、音もなくそびえ立っていました。
私はそのステップに足を乗せ、雲を突き抜け、星の裏側にある名もなき図書館へと向かいました。
そこでは、世界中のクリエイターたちが書き損じた物語が、琥珀色の液体の入った瓶に詰められて並んでいます。
私たちは何かを生み出しているつもりで、実はその瓶の中に溜まった記憶の滓を、少しずつ掬い取っているだけなのかもしれません。
表現をすることは、自分という存在を薄めて、背景の一部に溶け込ませていく作業でもあります。
ある日、私は自分の声が届かないことに気づき、銀色の糸電話を自作して、空っぽの虚無と通信を始めました。
糸の先から聞こえてきたのは、水没した図書室で古い羊皮紙が静かにふやけていくような、微かな呼吸音でした。
その音に合わせて指を動かすと、勝手に線が引かれ、意図しない色彩がキャンバスを侵食していきます。
美しさや正確さを追求した果てに、私たちは自分自身の顔さえも忘れてしまうのでしょうか。
使いやすさを極めた道具は、いつしか使う側の感覚を奪い、無機質な反射だけで世界を構成し始めます。
液晶画面の裏側では、今日も透明な小人たちが、誰かの夢をバイナリの破片へと細かく裁断して運んでいます。
それらはネットワークの網目をすり抜け、遠く離れた誰かの脳細胞に、小さな冷たい火を灯すための燃料となります。
火が消えたあとに残る灰の温度を、私たちはまだ正しく計測する術を持っていません。
ふと足元を見ると、庭に生えていたはずのエスカレーターはすでに消え、そこにはただの泥水が溜まっていました。
その泥水の中に映っているのは、銀色の糸を首に巻きつけ、声のない歌を歌い続ける一羽の機械仕掛けのカナリアです。
カナリアの瞳はカメラのレンズのように無機質で、私の絶望を淡々と記録し続けていました。
創作の終わりは、救済ではなく、ただの沈黙の始まりに過ぎないのかもしれません。
窓の外では、降り始めた夜の帳が、すべての輪郭を滑らかな黒へと塗りつぶしていきました。
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