6.ディテクティブ南條
月曜日の昼食も同じ三人で、同じイタリアン・レストランだった。
「昨日の転落事故どう思う?」
と深野が訳もなく快活に聞いてきた。
「日曜日?何か事件があったんですか?」
「ニュース見てない?」
と深野が話の腰を折られたというような目つきで、
「朝刊に載ってなかったから事件性はないのかも知れないけど中三の女の子が都営住宅の八階から転落して死亡した」
「それ見ました。新聞の地方版でも読みました。報道のニュアンスだと自殺か事故か、という感じでした」
と亜衣子が相槌を打った。深野は、
「女子中学生だし、事件に巻き込まれることはないだろうし、それにくだんの都営住宅は飛び降り自殺で有名なところだから。中三だから自殺はあるかな」
と微妙だと言いたげな顔つきをする。亜衣子が、
「でも事故だとしたら、手摺の高さが一メータもあるのにどうやって転落したのかしら」
と不意に立ち上がった。胸の少し下あたりに左腕を添えてその高さに右足を上げようとする。土岐は、断言する。
「ということは、事故死ではない」
「でも多感な年頃だし、進学の問題もあるし、私だって、そのくらいの年には死にたいと思ったことがあったわ。だから」
と亜衣子が言いかけたとき、店の奥にある大型液晶テレビにそのニュースが流れた。三人とも一斉にその画面に釘付けになった。画面では、校長の記者会見の模様が流されていた。不意に亜衣子が、
「所轄の担当者に会ってもいいでしょうか?」
深野は思わずうなった。亜衣子は、
「いいレポートを書きたいんです。この事件は参考になると思います。墨田署に話を通してもらえません?」
と畳み込んだ。深野は、
「必然性が感じられないけど」
と言いながら亜衣子の真剣なまなざしを見て、
「いいか。明日一日だけだよ」
と許可を出した。亜衣子がすぐさま、二の矢を放つ。
「直行、直帰でいいですか」
「報告に来てよ。できれば午前中に片付けて午後から出所してよ」
と深野は釘を刺した。そのやりとりに土岐は置いていかれた。
「それで、僕は?」
「君たちは二人でワンペア。部下のうら若い女性一人を所轄署なんかにゃやれないよ」
と深野は芝居じみた大見得を切った。
午後、深野は本庁の同期の警視正を通じて、墨田署に話を通した。担当は定年間際の南條刑事と若い新米刑事とのことだった。
報告書の方は解説の文章を残し図表のとりまとめはほぼ終了した。図表の細かい修正は文章を書きながらということで深野と土岐と亜衣子は合意し、その日の作業を終えた。土岐と亜衣子は翌朝、8時半に墨田署の前で待ち合わせることにして別れた。
翌朝、土岐は浅草経由で言問橋を渡ったところでバスを降りた。水戸街道を隅田川沿いに北上し、5分ぐらい歩いたところで、墨田署の正面玄関に出た。8時25分を少し回っていた。あたりを見回したが亜衣子の姿は見えなかった。外は寒風が吹いていたので建物の中に入ることにした。玄関から中に入ると正面奥に警備部、手前に交通部の部屋があり、受付の前にたたずんでいると、受付の女事務官が声を掛けてきた。
「ご用件は?」
「南條刑事と面会の約束をしてあるんですが」
「どちら様ですか?」
「統計研究所からきた土岐といいます。本庁の警視正から話が行っていると思うんですが」
と言うと、彼女は内線電話をかけた。
「お会いになるそうです。部屋は2階の奥の突き当りです」
「能美という者が来るはずなんですが先に行くと伝えて下さい」
「分かりました」
という声を背中で聞きながら1階右奥の階段に向かった。古い大理石の階段を上りかけたところで、亜衣子の甲高い声が追いかけてきた。階段の途中で土岐が立ち止まる。息を弾ませながら、
「8時半の待ち合わせでしょ。一人でさっさと行くなんて」
とすねるように頬を膨らませて土岐を非難した。階段のステップの角は人の足の通るところだけ湾曲して磨り減っていた。木の手摺はぐらぐらする。踊り場は薄暗い。何となく黴臭かった。二階にあがると左に水戸街道に面した窓、右に順に警務部、生活安全部、刑事部、総務課、一番奥に署長室の黒地に白い縦文字の小さな表札のかかった部屋が並んでいた。古い小学校の教室のようにそれぞれの部屋に廊下側に四つ切りの木枠の大きな窓がある。薄暗い内部を覗くことができた。突き当たりの角の刑事部の部屋にはいる。ヤンキースの野球帽をかぶった胡麻塩の無精ひげを蓄えた中肉中背の初老の男が窓を背にして煙草を吸っていた。
「おはようございます。南條さんで?」
と土岐と亜衣子が唱和して挨拶すると、
「土岐君と能美君?」
というしわがれた声がワンテンポ遅れて返ってきた。
「警視正から聞いたけど都営住宅の転落死に興味があるって?」
と大きな硝子の灰皿で煙草を揉み消した。
「何が知りたいの?」
と眩しそうな目付きで亜衣子の顔を見上げた。
「とりあえず、事故死か自殺か」
と亜衣子がおずおずと答えた。南條はつまらなそうに煙草の火が消えたかどうか灰皿を確認しながら、そっけなく言う。
「自殺をほのめかすブログがめっかった」
「中学生がブログ書いてたんですか」
と亜衣子が甲高い声を出した。
「今どきの中学生はクラスの半分ぐらいが自分のブログをもってる。しかし書き込んだのは本人かどうかは分からん。筆跡もないし」
「だって、他人が書きますか?」
「書ける。なりすますのは簡単」
と南條が抑揚のない言い方をする。
「なりすます動機があります?」
と畳み掛けるようにして亜衣子の脇から土岐が聞くと、
「殺人ならありうる。携帯から本人の指紋以外は検出されなかった」
と南條はあくびをしながらねむそうに言う。
「ログはないんで?」
と亜衣子も身を乗り出すように聞いてきた。
「まあ腰掛けてよ」
と南條は息せき切って質問してくる若い二人を制した。机の脇にあるパイプの折りたたみ椅子を指差した。
「現場に行ってみる?本庁経由の紹介だから午前中だけ付き合う」
亜衣子が即座に首肯した。南條は立ち上がると部屋の右側の壁に掛かっているホワイトボードの南條と書き込まれている欄の下に都営住宅と黒いマーカーで殴りつけるように書き込んだ。
「相棒への伝言だ。今行けば登校児童も出勤者も出払ったころだ」といいながら野球帽のつばを左右に動かしてかぶり直した。野球帽の縁に胡麻塩の細くバラけた髪が無造作にはみ出していた。よろめくようにして歩く南條の後に土岐と亜衣子が続いた。南條は一階の受付の前を通りながら右手で受付の事務官に会釈した。
先刻迄薄曇りだった朝空が、すっかり真冬の青空になっていた。隅田川の方角から高速道路を走る車列の走行音が微かに聞こえた。正面玄関の外の狭い駐車場で南條が冬季制服の三十歳前後の警察官とパトカーの前で何か交渉していた。南條が助手席にすべりこんだ。土岐と亜衣子は後部座席に乗り込んだ。パトカーは警邏の警察官の運転で、都営団地のテニスコート脇に停車した。都営団地と隅田川に挟まれた都営運動公園で降りた。人工芝のテニスコートでは暇そうな団地の主婦達が黄色い声を上げながら硬式テニスに興じていた。南條はそれを右目で見ながら鼻先でせせら笑うようにテニスコートの脇をすり抜けた。中央の棟のエレベータホールに歩いて行った。
「これがマンションだってさ。どう見たって団地だろうが」
と吐き捨てるように言いながら土岐と亜衣子を野球帽の庇で振り返った。南條は既に点灯している上りのボタンを何度も押し続けた。エレベータの籠が上層階から到着するとすぐに乗り込んだ。最上階の8階のボタンを押す。閉のボタンをせわしなく二度押した。亜衣子の背中を軽く押しながら最後に乗り込んだ土岐の背中をエレベータのドアがかすった。亜衣子はすぐに振り返り、軽くえびぞりになって土岐をすねたように三白眼で睨みつけた。軽い衝撃とともにエレベータはひどくゆっくりと上昇し始めた。歩いた方が早そうな速度だ。僅かだが左右に揺れているのとロープの軋みを感じた。エレベータの箱の中は町内会の案内やいたずら書きや引掻き傷で、にぎやかだ。換気扇が回っていない。お互いの服のかすかな臭いを我慢しなければならない。南條のダスターコートからかすかに樟脳の臭いがした。8階に着くと少しリバウンドしながらエレベータが停止した。エレベータの床とエレベータホールの床面が少しずれていた。南條が先に降りた。土岐は開を押しながら亜衣子が降りるのを見届けてから降りた。阿弥陀くじのようにひび割れた鼠色のコンクリートの通路に出た途端湿って薄ら寒い川風が三人を包んだ。南條が胡麻塩の鬢髪を川風になびかせる。空を眩しそうに仰ぐ。白っぽい青空には小さくちぎれた片雲が散見される。雨雲は見当たらない。雲がゆるやかに流れていた。非常階段は棟のはずれにあった。手摺の高さは一メートル程。鉄骨がむき出しの造りだ。暗緑色のペンキが所々はげかけていた。そこから赤茶けた鉄錆が広がりつつあった。8階から少し降りかけた非常階段の踊り場で南條は立ち止まった。
「ここから飛び降りた」
と手摺を軽く叩いた。甲高い空洞の響きが非常階段に伝わった。
「乗り越えようと思えば乗り越えられないこともない」
と土岐が少し腰を引いて恐る恐る階下を覗き込んで感想を述べた。
「身長はどのくらい?」
と亜衣子が神妙な面持ちで南條に尋ねた。
「中学生にしては大きい方で、160センチ以上あった」
「自殺をほのめかすブログって、いつごろ書き込まれたんですか?」
「当日深夜。ほぼ同時刻に投身だ。携帯は無傷で彼女のジャージのポケットにあった」
と南條は乾いた唇を土気色の舌でなめまわした。
「携帯電話を持って投身?それで、自殺って確定なんですか?」
と亜衣子が南條の横顔をのぞき込むようにして念を押した。
「署はそうしたい雰囲気だ」
と南條は豊齢線に深い皺を刻む。
「どういう意味?」
と土岐がわざと幼稚っぽく媚びるように聞いた。
「検視官の見立てじゃ、いたずらされた痕跡もないし、家族からも格別の不審の申し立てもないし。これが有力者の子弟なら話は別だろうけど。他にも未解決の事件をたんまり抱えているし。まあ、俺と新米の若造の担当になったということは」
「一件落着ということですか」
と亜衣子が尖った目つきで詰問した。
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