何を忘れているのかもわからないまま、不安に煽られつつ店内に慌てて駆け込むと、店主はいつものように本を読んでいるところでした。
私の姿を認めると、すぐにその本を閉じて棚の上に置きましたが。
客寄せ煙管の煙が、全速力で走ってきた体全体に回ります。
きっと……『だから』なのです。
店主を見てこんな複雑な気持ちになるなんて、この煙が私を狂わせたに違いないのです。
#9 曖昧な記憶
「ミクには……少女には会えたか」
私の気持ちなどお構いなしの様子で、無愛想な声が耳を通り抜けます。
それは容量を超えた私の頭に入ることはなく、ただ通り抜けて消えました。
わからないけれど、この焦燥感は何なのでしょう。
うるさい鼓動は、神経を侵して私を動けなくする言い知れない寂しさは……一体何だと言うのでしょう。
原因はわからずとも、私はこの感覚を知っています。
「おい、聞いているのか」
『お前はいい子だね』
ふと店主の声でなく、その副音声として聞こえた声が、私の記憶の引き出しから何かを取り出しました。
私を撫でる前店主の姿が脳裏に蘇ります。
優しかったあの店主がなくなって、寂しくて切なくて、私はそれからずっと泣いていたのです。
長い間、何もないこの店でずっとずっと。
その時の感覚に似ているのです。
そこでふと気付きました。
あるはずの自分の記憶が、ない期間があるのです。
そしてそれは、私が泣き疲れたところから始まり、しばらくこの店主と過ごした後だろうと思われるところまで続いていました。
その間の記憶がありません。
「おい、話を――」
今まで疑問を持つことなんてなかったことが不思議なぐらいです。
この店主が、いつどこからどのようにしてやってきてこの店の後を継いだのか――知っていたはずなのに、今では思い出せません。
それどころか、自分が何なのかすらわからなくなってきていました。
私は確かにここに存在しているのに、これほどまでに私という存在は頼りないものだったでしょうか。
私は、何なのでしょうね。
小さく呟くと、店主が眉間に皺を寄せました。
わからないのです。
店主のことも、私自身のことすらも……少女が、私たちは何かを忘れていると言った。
長い間在りすぎて忘れているのだと。
もし私が何か忘れているとするなら……私は、何を忘れているのでしょう。
体中が痛いのは、どうしてなんですか。
あの3人はどうして消えたんですか。
どうして剣が――。
「喚くな。お前の頭では覚えられんだろうが、3人については話してやる」
いつもなら文句を言うところでしたが、私にそんな余裕はありません。
どこから話そうかと迷っている様子の店主が口を開くのを、ただ待つしかありませんでした。
「何故消えた、と疑問を浮かべるぐらいだからもう答えは出ているのだろうが……あの3人は人間ではない」
人間ではない――では、幽霊とでも言うのでしょうか。
幽霊も、ここならいてもおかしくはありません。
この店主だって普通ではないのですから。
店主は煙管の存在を今思い出したかのように、それで一服しました。
「あの男女の相棒とやらは人間だがな、あれは人間の道具でしかない」
つまり、彼らは――。
私の半ば無意識で発した言葉に、店主は紫煙を吐き出しながら「そうだ」と頷きます。
「見える見えないはさておき、命がないモノなどこの世にはない。あれの正体は、剣――いや、剣にはめられた青い石と赤い石だ」
随分汚れていたがな、と店主は今一度煙管を咥えます。
血や土で汚れて色はわかりませんでしたが、束にはめ込まれたそれをこすってみれば、確かに綺麗な赤と青の宝石が輝いていました。
役目を終えた彼らは、きっと眠りについたです。
あの剣と、自分たちを使っていた誰かと共に。
今思えば、2人が握っていたあの布袋の中には、それぞれの主人に纏わる何かが入れられていたのかもしれません。
2人の正体は確かにわかりました。
では、あの少女は一体何だったのでしょう。
あの場には、もう剣のようなものはなかったと記憶しています。
もう十分に落ち着いた頭で考えますが、答えは出ません。
そんな様子を見ていた店主は、呆れたようにため息をつきました。
「まだわからないのか……ミクは、この地に根を張った大樹だ。樹齢は数百年と聞く」
俺が会ったのはこの地が初めてではないがな、と付け足して店主は煙を再び吐き出します。
店主の言い方は気に入りませんでしたが、妙に納得してしました。
少女の懐かしい匂いは、言われてみれば確かに、草木の匂いだったのですから。
3人についてようやく理解した私に、ふいに、店主が煙管を私に突きつけてきました。
思わず仰け反ります。
「そのミクから情報を預からなかったか。彼女の情報だ。どこにいるとか、いつ頃会えるとか、何も聞いていないのか」
あまりに混乱していたせいで忘れていましたが、そういえば店主の探し人のことも聞いていたのでした。
少女が言うには、彼女は店主の一番近くにいるのだそうです。
私の言葉に、店主は訝しげな表情。
とは言っても、私は聞いたままを伝えただけですから、どうすることもできません。
店内を見回した後で、彼はすっと目を細めて私を見つめます。
嘘はついていませんよと視線で訴えかけると、興味が失せたように店主は閉じた本を手に――。
ドクン。
その時、ざわめき立つ身体の神経。
近くなった機嫌を損ねたような表情の店主。
突然店主との距離が縮まったのも無理はありません。
無意識のうちに、私が本を握る店主の手をしっかり止めていたのですから。
「何をしている」
言い訳をしようと開いた口からは、何も言葉が出てきません。
自分でも何が何だかわからないのですから。
ただ、この本を開いてほしくなかいと思ったのです。
だって、そんなことをしたら、私は……私は……?
私は、何だというのでしょう。
何か不都合なことがあるでしょうか。
もしも不都合なことがあったなら、私は今までどうやってでも店主がこの本を開くことを阻止していたはずです。
自分の考えがわからなくなって、店主から離れると、気を取り直して店主が本に手をかけました。
胸が苦しいのは何でしょう。
寂しくて辛いと感じているのは、本当に私の感情でしょうか。
いいえ……心臓の音がうるさいのも、頭痛がするのも、全て……きっとここまで走ってきたからなのです。
けれど、彼の手がページを進めようとした時、私は思っていました。
どうか、ページをめくらないでください。
声にならない声で、私はそう……叫んでいたのです。
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