机の端に、小さな空き箱がひとつある。もともとはお菓子が入っていた箱だったが、捨てられずにそのまま残っている。何か入れるつもりもないのに、なぜか置いてある。時々それを指で軽く叩くと、空洞の響きが部屋に広がる。すると、なぜか音が呼吸しているような気がするのだ。
その音を聞くたびに、音楽をつくるという行為の原点は「空白」にあるのかもしれないと思う。音そのものよりも、音の間にある「間」や「余白」、そして「沈黙」がどんなふうに響くか。メロディは音の連なりではなく、音の“抜け”によって形を得ているのではないか。そう考えると、空き箱の存在がやけに尊く感じてくる。
何も入っていないのに、空き箱を捨てられないのは、きっと“余白の力”を知っているからだと思う。たとえば作曲をしていて、詰め込みすぎたアレンジを一度消した瞬間、急に全体が呼吸し始めることがある。あの瞬間こそ、音が自由になるタイミングだ。まるで空き箱の中で、小さな音たちが自分の居場所を見つけるように。
人は、つい何かを埋めたくなる。静かな時間に音楽を流し、空いた隙間に言葉を詰め、沈黙を怖がる。けれど、空間が満たされすぎると、音も言葉もどこか窮屈になる。だから私は最近、意識して「何も加えない」という選択をするようになった。メロディを止める。リズムを削る。音のない一瞬を、あえて残す。すると、そこに聴く人の想像が流れ込んでくる。空き箱に空気が触れて、音が生まれる瞬間のように。
空白を恐れない音づくりは、実はとても勇気がいる。音を削るという行為は、何かを諦めるようでもある。でも、勇気を持って音を引くと、その静けさの中から、より深い音が立ち上がる。まるで“聴こえないメロディ”が、沈黙の底から手を伸ばしてくるように。私はその手を掴みたくて、今日もまた制作ソフトの前に座る。
空き箱の中を覗くと、何もないようで、実は音が満ちている。呼吸のリズム、風の揺れ、机の軋み。そのすべてが、形のない音楽になっているのだと思う。だから私はときどき、その箱を軽く叩く。トン、と鳴るたびに、空間がひとつだけ音を許してくれる気がする。それがどんな音よりも生きていて、どんな沈黙よりも優しい。
音楽を作るというのは、きっと“空っぽ”と仲良くなる練習なのかもしれない。詰め込みすぎず、取り除きすぎず、ただそこにある「余白」と向き合う。空き箱は何も語らないけれど、その静けさの中に、無限の音が眠っている。だから私はこの箱を捨てられない。今日も部屋の端で、箱の中のメロディが静かに息をしている。
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