ほとんどの健全な国民が寝静まった時刻、ほとんどの商店や民家からも光の無い夜道、ディーは街に向かって歩いていた。
全くもって面倒臭い。しかし、それがどうしても必要ならするしかない。これから会い情報を提供し合う相手は、恐ろしい程用心深いのだ。まあ、立場を考えればそうなるのも分からなくはないが。
もし今正体を他に知られれば、相手の人生は一変してしまう。
「いらっしゃい、いつもの部屋を空けておきました」
この時間に開店している店は限られているが、歓楽街ならほぼすべての店が営業時間に当たる。そのひとつにディーは足を踏み入れ、店主から鍵を受け取って部屋に入った。
ここは安いモーテルで、大抵の客はここに娼婦を呼びつけて行為に及ぶ。しかしもちろんのこと、金髪の大臣の目的はそれではない。
待つこと数分、約束の時間ぴったりに取引相手は現れた。
「相変わらずの正確さですね。『黒猫』さん」
無音のまま扉をほんの少し開け、隙間から滑り込んできたのは黒髪と漆黒のドレスに身を包んだ、もちろん猫ではなく人間だった。
「もちろんです。信用が第一でしょう? この仕事は」
黒猫はそう言いながら至極面白そうに笑うが、ディーは鼻を鳴らしただけだった。信用、その言葉は冗談のつもりなのだろう。今ディー達がしていることは、それとは対極に位置するものだからだ。
「『彼』と『彼女』の関係ははっきりしてきましたよ」
ディーは王宮内の雑務を全て担って来た男だ。こと人間関係に関しては、利用できる人間以外の他人に対して一切興味を持たない、宰相よりも把握している自信はあった。
「動きは?」
そして冷血鬼と呼ばれる宰相と違い、そこそこの人望もある。そうして手駒にして使っている部下には、ディーの目的に沿った人物を見張らせていた。彼は協力者である黒猫に、その情報を渡す。
「何人かの兵士達は取り込んでいます。数日以内には動き出すでしょう。……王宮内の邪魔者を排除するために」
嫌味たっぷりに言ってやると、黒猫も見事に乗って来た。
「完全無欠、冷徹無比のレン=ハウスウォード宰相兼外務大臣が、たった一人の少女に骨抜きにされている。確かに、狙うとしたらこれ以上の弱味は無い」
くつくつと嗤う相手を見やりながら、ディーは背筋に冷たいものを覚えた。
冷血鬼とはよく言ったもので、普段から病的とも言える警戒心を持った彼を、王宮から排除するのは容易なことでは断じてない。しかし彼はその気質と性格から、国外のみならず身近にも多くの敵を作っていた。それらを利用すれば、少なくともあの完璧さを崩すことは可能であるはずだった。
が、状況は変わった。ヴィンセントの記憶を取り戻したレンは、一人の黄緑の少女によって変わり始めたのだ。特定の人物に以外決して懐かない狂犬だったはずが、日に日に理解者を得始めている。
しかしそれと同時に、その黄緑の少女こそ彼の新たな弱点となった。それも、克服することも対策を練るにしても数段難しいものだ。
しかしこれからも彼が変わることを傍観していれば、王宮内に手駒を作るのが難しくなってくる。
「そうです。味方の数も最小限、そして最大の弱点を抱えた時期として、今は相応しいですから」
冷静に分析した事実を述べると、黒猫には不敵な笑みが浮かぶ。
「貴方には少々、貧乏籤を引いてもらうことになるかもしれませんが?」
今更だ。そう胸中で吐き捨てた。綺麗に終わらせる気など、あの天災児の存在を知った時に吹き飛んだ。あの時誓った目的遂行のためなら、地面に這いつくばって泥水を啜る覚悟もできている。
「構いませんよ。しかし、それに見合ったものを頂きたいものです。イルが悲しむ姿を見たくは無いですから」
紅蓮の鉄槌に参謀役として入ってから、初代国王陛下であるイルはディーにとって可愛い弟であり、そしてそれ以上に尊敬するべき主でもあった。彼の優しい性格を知っている以上、これから起こる騒動が少なからずイルにとって不愉快なものであることは容易に予想できる。
「貴方は国王陛下のためと、本人に黙ってまでここに居るのでしょう? それに悲しむような人間ではないと思いますよ」
むしろ不思議そうにそう言われ、一瞬だけこの言葉は本心なのか、それともただディーを良いように使いたいだけなのかと考えた。
どうでもよかった。
黒猫の考えていることは分からなくとも、結果的に行き着く結論は知っている。最も優先するべきものも、その為に今まで動いて来たこともこの目で見てきたからだ。
「貴方は何を思いますか? これから起こること、予測していることを」
もう用は無いとばかりに、部屋を出ようとしていた黒猫に問いかける。途端、漆黒のドレスを纏う麗人からそれまでとは比べ物にならない感情の群れが滲み出たが、予想していたことなので怖気づきはしなかった。
「敵を排除する。それに何らかの感慨を抱くものでしょうか?」
口元には獲物を捕らえた毒蛇の笑み。それを見てディーは呆気なく失言を認め、肩をすくめた。
「その程度の事、ですか。確かに、そうなのかもしれませんね」
「全ては捧げるべき者のために。それ以外の事は所詮、必要に迫られれば切り捨てるしかありません」
容赦の無い言葉だったが、その声には珍しく寂しげな色が混じっているように見えた。今度こそ扉を開けて、それでも黒猫は最後振り返ってこう言った。
「まあ、貴方のそういった迷う優しさ、理解には苦しみますが好きは好きです」
ディーと同じ金色の瞳を黒髪からちらつかせ、ふっと笑って黒猫は去って行った。
「捧げる者のため、ですか。やれやれ、黄緑の少女も不憫なものです」
十分な時間を置いてから、ディーも王宮に戻るために部屋を出た。主人に鍵を返し、一応の口止め料も払っておく。
丸い月に照らされながら、ディーは誰にも言えない密かな恐怖を内心で吐露していく。
レン=ハウスウォードを恐れているのは、紅蓮の鉄槌時代から全く変わっていない。本音を言えば、黄の国が今後危機に陥るとすればその原因として最も可能性が高いのは、他の誰よりもこの国に利益をもたらしているあの天才宰相だろう。
彼は心底憎んでいる。
最愛の妹であるリンネア王女の命と引き換えに生き永らえた、この国を。
彼の人智を超えた知能によってあり得ない速度で復興し、そして同じ速度で繁栄してきている。高過ぎる栄華が長続きしないという古来からの常識など、あの冷血鬼に通用するはずは無い。
レン=ハウスウォードに最も近く、そして誰よりも客観的に見ているディーは、叔父の復讐ではなく人としての本能から何度も彼に殺意を覚えた。
猜疑心の人一倍強い男だが、何故か彼はディーには心を許している。それが返って思い留まらせるきっかけになっていた。
「はあ、頼みますから、狂犬より長生きしてくださいよ? 鎖……もとい国王陛下」
根本的な問題から言って、レンを殺せばイルに殺されることになるだろう。宰相兼外務大臣であるレンが狂犬なら、初代国王であるイルは獅子か虎だ。それこそ、狂犬を服従させる力とカリスマを持った、唯一にして絶対無二の君主である。
紅蓮の鉄槌時代、彼の魅力も実力も十分理解したつもりではあったが、そこにレンという頭脳が入るとイルはまた指導者として、別人と言っていいくらいの成長を遂げた。旧知の親友を得て、彼の精神が安定したのが一番大きな原因だろう。
無理も無い。十四歳という幼さで、国の未来をその小さな身体に背負っていたのだ。不安も恐れも無いはずが無い。逆にそれを感じないようなら、新しい王として相応しい人物とは言えない。
ディーはその寿命尽きるまでイルの傍を離れないし、彼に背くこともしないだろう。ただ己が定めた主のために必要なことを、実行に移すまで。
夜道を戻る中、こんな呟きが総務大臣の口から洩れた。
「しかしあの狂犬は、主のためには芸もするんですね。いささか驚かされました」
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