プロローグ
朝の風が冷たい。外の冷気が鼻から入って鼻の感覚神経を揺さぶる。
そしてゆっくり口から冷気を排出すると一気に水蒸気となって外に飛び出した。
もはやこれは冬の風物詩だ。
人間はこうやって呼吸をしているのだなぁ。とつくづく思う。
朝の冷え込みがひどく今日は一日中ベッドの布団に包まっていたい気分だ。でもそういうわけにもいかない。
今日は冬休みが終わった日。
もう一日中コタツとか布団に包まっている時期は終わったのである。
でも今はそんなことを忘れて朝の日課、犬の散歩(犬の名前はチロル。犬種はチワワ)をしている。
この前までは夜が散歩当番であったが、弟が病気で東京の病院に入院しているので母が東京の弟につきっきりだ。
朝の散歩は母が担当だったが、いないので朝と晩は自分が散歩をしている。
いつもの散歩コースを歩いて、大嶺橋という大きな橋に辿り着いた。
そこでやっと朝日が顔を出した。
橋の上には見覚えのある人がたたずんでいる。その人は少女で今の季節に似合わない長袖のジャージを着ている。見るからに寒そう。
「寒くねぇのかよ」
俺は大嶺橋の人に声をかける。どこからどう見ても上から目線と思うが、俺が声をかけたのは幼なじみの大杉円香だ。
円香は髪を後ろで束ねている最中だった。声をかけると口に咥えている黒いゴムを右手で取った。
「寒くないわよ。今から走るから。権弘も走る? お正月練習無くて体がなまってるでしょ」
「俺はお前みたいに正月太りしてねぇよ」
俺―榎本権弘は嘲笑して言う。
「走るの走らないの?」
「走るよ。走ってほしいんだろ?」
「いーや。でも、あんたとカップルと思われたくないから離れて走ってね」
「こんな野蛮女を彼女にしたかねぇよ」
「なにが野蛮よ!」
円香は俺に右ストレートを突き出してくる。
その右ストレート、見えてはいたが反射的に体が動かずに俺はまともに円香の右ストレートを顔面に食らってしまった。その衝撃で体が後ろにのけぞりかえる。
「っっっいってぇんだよ!」
俺は倒れそうになる体を強制的に前へと倒す。
「朝から最悪だよ」
殴られたところを摩りながら円香を睨みつける。
けれど円香は情もないような言葉を吐く。
「あんたが避けないからでしょ」
「うっせぇな。避けられねぇんだよ。お前のパンチが早すぎるから」
念のため、鼻を触って鼻血が出てないか確認する。
うん。
鼻血は出てない。
「走るんでしょ? チロルちゃん家に帰してきたら」
「おお、そうだな。それまで待っててくれ」
「待ち時間は三分でーす」
俺は円香の言葉を背中に受けて家に走り出す。
急いでチロルの足を拭き、家の中にチロルを誘導する。チロルは
「どこいくんすか? 連れて行ってください!」と言いたげな顔で尻尾を振りこっちを見る。
最高に可愛い。
そう思いながらジャージに着替えて家を出た。
「お、ギリギリじゃん」
円香は俺が去年誕生日プレゼントにあげた水色の腕時計を見てそう言う。
「当たり前だろ」
走ってきたので息が切れている。
口から出る白い水蒸気が目に見えた。
「じゃあ、行くよ」
円香は腕時計をピッと鳴らし、タイムをスタートさせた。
「準備運動くらいさせてくれよ」
俺はそう言いながら円香の後ろを追う。
冬の冷たい冷気が体全体にぶつかる。
手が悴んでよく動かせない。
動かすたびに少しだけ痛みを感じる。
頬も少し火照ってきた。
血流がよくなっているのだろう。
時折吹く風が向かい風で、追い風の方が都合いいね。
などと円香が呟くのを軽くあしらった。
しばらくして、大嶺中の後ろ側、丁度隣の市に当たるのだが、そこは大嶺海という海がある。そこに辿り着いた。
そこはいい漁場で朝方や夕方は漁船が多く通る。
夏は海水浴ができる海岸がある。
冬の夜。
つまり今の季節。海岸の近くに外灯などが無いので月や星が気持ちのいいくらい見えるのだ。
円香と何回か来たことがある。
円香は西大嶺市と大嶺市を結ぶ橋でペースを落とした。そして橋の下―大嶺湾の入り口を見る。
「あたし、ここ好きなんだー」
円香は目をつぶって微笑み、ランニングで乱れた髪を右手で正す。
その仕草は少し大人っぽく見えた。
「変な顔してんな」
「権弘は不器用だね」
円香はそう言うとまた笑う。
「どこがだよ」
「あたしをほめるところが。さ、次は戻るよ」
円香はまた時計をいじくって帰り道を走り出した。
*
「ちょ……疲れたんだけど」
「やっぱりお正月のブランクは大きいねぇ」
円香はニヤニヤしながら歩き出す。
さすがにばてたな。隣町まで行く円香の気が知れない。
今はまだ大嶺町に入ってすぐのところだ。
「あ、円香!」
「ナギサ!」
円香は声のしたほうに駆け出した。
まだそんな体力が残っていたのかよ。
「あけましておめでとう」
「こちらこそー」
二人は手を合わせてそう言った。
ナギサと呼ばれた少女。
今年度から一緒のクラスの加治屋渚。文武両道。容姿端麗。完璧(?)な中学二年生だ。
円香と仲がよく、いつも一緒にいるような人だ。
「朝からランニング? 偉いね」
「特待生で高校いきたいんだもん。渚は何してるの?」
「ちょっと散歩。冬休みに怠けすぎちゃったからね。あれ? エノヒロ君もいるじゃん」
エノヒロとは、俺のあだ名だ。
榎本の『エノ』と権弘の『ヒロ』をとってエノヒロ。
まぁ妥当なあだ名だろう。
と少し上から目線になってしまうのが俺の悪い癖だ。
いま紹介することはないが。
「あ、うん。暇だからね」
「お正月休みで体なまってるから走ってるんだよ」
横から円香が口を挟む。
余計なこと言うなよなぁ。
ほら、加治屋はどうしていいかわからない顔じゃないか。
「そうなの。じゃあがんばってね。私はもう少し歩いてくるよ」
「うん。また学校でねー」
円香はそう言うと加治屋に手を振った。
加治屋の姿が見えなくなると円香が口を開いた。
「なーにじろじろ眺めてんのよ」
「何をだよ」
「渚をよ。もしかしてエロい目で見ちゃったりしてるんですかぁ?」
円香がいやらしい目で俺を見た。
「うるせーな! なんで急にそんなこと言うんだ! 俺の心がわかるのか?」
「わかるわけないでしょー。長年あんたといるとそう感じるのよ。あれ? もしかして渚のこと好きだったりするんですかー?」
「は? ち、ちげーよ」
俺は円香と目を合わせられなくなり目線をそらす。
そこをすかさず円香が攻撃してきた。
「先輩恥ずかしいですねぇ。まぁあたしは渚のことかわいいと思うよ」
「……俺もそう思うよ」
一瞬、間が空く。
その一瞬の間で俺の口からでた水蒸気が目の前で消えた。
「じゃあ、渚のことを好きっていうことだねぇ」
円香がニタァと笑ってハッと気付いた。
こいつに重要な秘密を握られてしまった。
「ま、またそれはちが……」
「違わないよぉんだ」
円香はスキップしながら大嶺橋を渡る。
まただ。
またこいつに弱みを握られた。
こいつに弱みを握られると後々厄介なのだ。
「まぁ。加治屋にも好きな人いるしな」
「ん? なんか言った?」
「いいや。なんにも」
加治屋渚には思いを寄せている人がいた。
それは幼稚園のころ一緒だった「カノ」という男らしい。
俺は見たことないが、加治屋が興奮して話すのだからさぞかしかっこいいのだろう。
なんで俺がこんなことを知っているかというと。
前に告白しようとしたので、加治屋に想っている人がいるか確認したかったので「好きな人とかいるの?」と聴いた。
すると「いるよ」と答えられたので俺は表面だけでは諦めた。
でもこれでも少しは引きずっている。
俺はそこで思った。
「加治屋が幸せならいいや!」と。
そう思ったので今は加治屋の恋愛相談に乗っている。
なんてことを思っていると家に着いた。
「じゃ、またな」
「権弘、今日も一緒に学校行こうよ」
円香が急に甘えた声で言う。
「当たり前だろ。当たり前。すぐ準備して来いよ」
俺は家の鍵を開けてドアを開く。
「あれ? そんなこと大きな口叩いていいのかな? 朝ごはんあげないよ」
「どうせショウコさんが作ってくれてるんだろ? お前の飯食ったら俺も東京の病院に行ってしまうわ」
俺はそう言いながら家の中に入った。
外ではまだ円香がゴチャゴチャ言っているがスルーする。
二階に上がり制服に着替えた。
そして、ベッドに乗り膝立ちになり、ベッドの横にある小窓をそっと空けて屋根伝いに大杉家の窓をコンコンと叩く。
俺の部屋から屋根伝いに叩ける窓がある部屋は円香の部屋なのだ。 しばらくして円香が顔だけ出した。
「もうすぐ行くからな」
「まだ着替えてるんですけど」
円香はカーテンで体を隠していた。
「そんなまな板見てもうれしくないわ」とっさに出た言葉がこれだった。
「な、なんて! あたしビーカップよ! ビーカップ! 中学生にしては大きいほうって言われたわ!」
「なっ、そんな破廉恥なことを大きな声で言うな! 近所に聴こえるだろうが!」
「関係ないわよ! いまあんたとケンカしてんだからさ!」
円香は自分の体のことになると極端に強くなる。
背は同い年の女子より高いほうだがそのことを言うと自慢げに話をするが胸のことを言うと怒る。
なんともわかりやすいやつだ。
「早く着替えろよ。もうすぐそっちに行くからな」
「ねぇ」円香が俺の手を引いて引き止めた。
「…………りたい?」
円香は頬を赤らめてなにかを言う。
「ん? なんだって? 聞こえないぞ」
俺は円香のほうに耳を傾ける。
「だーかーらー」
円香は俺の耳を手で覆い、そして口を近づける。
「あたしの胸さわりたい?」
確かに円香は俺の耳元でそう囁いた。
「な、なに言ってんだバカ!」
少し動揺して自分の家の屋根に移る。
「私じゃいや?」
円香はカーテンで上半身を隠していた。
肩を見る限り服を着ていないらしい。
「ふ、服ぐらい着ろよ。風邪引くぞ」
「引かないもん。中学入ってから皆勤賞続きだもん」
円香は少し恥ずかしがるようにカーテンを肩まで上げた。
「さ、さわりたくないの?」
円香は誘うような声で俺の様子をうかがった。
「興味がないこともないよ」
俺はそう言って屋根の上であぐらを組んだ。
そしてなるべく円香から目線を外す。
目が合うと赤くなりそうだったからだ。
屋根は朝の空気を真に受け冷たい。
「ふーん。そうなんだ」
円香はいたずらな目でこっちを見た。
「じゃあ、こっちに来て」
円香はそう言って手招きをする。その姿はどこからどう見てもいやらしい。
「行くだけだぞ」
俺は少し強がって大杉家の屋根に乗り移る。
すると円香は俺の手をとった。
「うわっ! ちょ! なにすんだよ!」
そして俺の手を握った円香の手はどんどん円香の胸に近づいていく。
力ずくでとろうとするが下手に動けば屋根の下に転落するので抵抗できない。
そして、円香の胸まで残り二センチ!
そこで目をつぶった。すると円香はクスクス笑っている。
何がおかしいのかわからないので円香を見ると、円香の手からはカーテンが手放されていた。
カーテンの裏―円香の上半身は制服のシャツをちゃんと着ていた。
両肩を出した状態で。
「ぷっくっくっく」
円香は声を殺して笑っている。
「だ、騙したな!」
一気に顔が赤くなるのが判る。顔が熱い。とにかく熱い。
「あっはっは。そんなに権弘がシャイだとは思わなかったよ。あー面白い。あの赤くなった顔。傑作だわ」
朝っぱらから変な惨事が起きた。
最悪だ……。
「でも、ドキッとしたの? あんな言葉に騙されるかなぁ普通」
円香は何回か思い出したように笑った。
「食いついてこなかったらどうしようかと思ったよ。でも、あんなに恥ずかしがるなんてね」
円香はそう言うとまた笑う。
「そ、そんなに笑うなよ。今からそっち行くからな。玄関前で待ってろよ」
「はいはい。わかりましたよ」
円香はそう言うと窓を閉めた。
俺はそれを見て自分の部屋に入った。
ったく。焦った。焦った。ものすごく焦った。
円香がこんなに大胆だとは!
と思ったけど案の定そんなわけなく。
俺のことをただの「遊び道具」としか思ってないと思う。
そんなことを考えながら家の戸締まりを確認して玄関に行く。
使い古した青のラインが入った運動靴を履いてつま先を三回トントンとした。
「いってきます」
だれもいない家に一声かけて家を出た。
家を出て鍵を閉めて後ろを振り向くと円香の姿があった。
「早かったな」
「だってシャツ着てたんだもん」
円香は笑いをこらえてそう言った。「もうその話はよそう」頬が赤くなるのがわかる。
今日一日円香と上手く話せなさそうだ。
「ご飯できてるから入って。ここじゃ寒いでしょ」
「ああ。そうだな。入ろう」
俺は円香に誘導され大杉家に足を踏み入れた。
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