えー、頭の中はアインシュタイン、見た目と口調は与太郎という、世にも奇妙な男が誕生いたしまして、それからというもの、神田の長屋ではおかしな事ばかりが起こるようになりました。
ある日のこと、叔父さんが与太郎のところへやってまいりまして、
「おい与太郎、お前もいつまでも遊んでいちゃいけねえ。少しは商売の真似事でもしねえ。道具屋の市兵衛さんのところで、ガラクタをいくつか分けてもらったから、これを表で売ってきな」
と、古びた鉄くずや、壊れた道具をいくつか持たされました。
その中に、オランダ製の、歯車がすっかり狂って動かなくなった古い「御用時計(懐中時計)」が混ざっておりました。
叔父さんは「そんなもん動かねえから、ただの飾りとして十文で売っちまえ」と言いましたが、与太郎はそれを見るなり、頭の中で「古典力学」の計算を始めちまった。
「(……ふむ。脱進機の爪の角度がコンマ数ミリ摩耗し、振り子の等時性が損なわれているだけだな。この時代の職人は勘に頼るから直せないのだろうが、微積分を使って正確な摩擦係数を割り出せば、元の真鍮を少し削るだけで完璧に同期する)」
与太郎は、そばにあった錆びた小刀を手に取ると、よだれを垂らしながら「へへへ、ここをね、ちょんちょん、ってするんだよぅ」と、時計の心臓部を信じられないような精密さで削り始めました。そばで見ていた八五郎は、
「おいおい、与太郎の奴、ただでさえ壊れてる時計をさらに壊してやがるぜ」
と笑って見ておりましたが、次の瞬間、
チク、タク、チク、タク……。
と、小気味よい音が響いて、時計の針が正確に動き出したからさぁ驚いた。
「う、嘘だろ!? 直っちまったぞ!」
「へへっ、おじさん、これね、神様の針がね、ダンスをしてるんだよぅ」
この噂が瞬く間に広がりまして、近所の職人たちも与太郎を頼るようになりました。刀鍛冶の親方が「どうも最近、鉄の焼き入れが上手くいかねえんだ」と愚痴をこぼせば、与太郎は鍛冶場へフラフラと行き、炎の色をじっと見つめて、
「おじさん、このお火の色がね、もうちょっとオレンジ色になるとね、鉄の神様がカチカチになって喜ぶんだよぅ」
なんてぇことを言う。これは現代の「熱力学」における、炭素鋼の最適な結晶変態温度(約七百八十度)を、炎の放射スペクトルから割り出して教えているんですが、職人にしてみれば「神懸かり的な勘」にしか見えません。言われた通りにすると、それまでにない名刀が焼き上がるもんだから、与太郎は長屋で「神仏の申し子か、あるいは大天才か」と囁かれるようになりました。
しかし、本人は相変わらず「へへっ、お腹すいたなぁ」と笑っているだけ。生前、正論を吐いては人を傷つけ、嫌われていた白銀修一にとって、この「与太郎のフィルター」を通して人を幸せにする感覚は、生まれて初めて知る、得も言われぬ心地よさでございました。
そんなある夏の日、与太郎は町内一の美人と評判の、大店の商家の娘「お花ちゃん」に出会いました。
お花ちゃんは、聡明で、家柄も良く、言い寄る男は五万といる。しかし、誰も彼もが金や地位、あるいは自分の美貌を目当てに下心丸出しでやってくるもんだから、すっかり男嫌いになっていた。
そのお花ちゃんが、ある日、道端でシクシクと泣いておりました。聞けば、父親がオランダの商人から大金を叩いて手に入れたという、貴重な「ガラスの眼鏡(レンズ)」を落として、真っ二つに割ってしまったというのです。
「どうしよう……お父様が大切にしていた、異国の宝物なのに。職人さんに見せても、ガラスは直せないって……」
そこへ、与太郎が「あふぅ」と鼻提灯を膨らませながらやってまいりました。
「お花ちゃん、どうしたの? 綺麗なガラスが、お星様みたいに割れちゃったねぇ」
「あ、与太さん……。そうなの、もう使えないのよ」
与太郎は、その割れたレンズの破片を拾い上げ、太陽の光に透かしました。彼の脳内(物理学者)が瞬時に作動します。
「(……なるほど、球面収差の大きい、お粗末な凸レンズだ。だが、この破片の厚みと屈折率なら、周囲を特定の放物線に沿って磨き直せば、二つの小さな『凹凸組み合わせレンズ』に再構成できる。そうすれば、色収差を相殺した、現代の『顕微鏡』あるいは『望遠鏡』の接眼レンズが作れるな)」
「お花ちゃん、これ、僕にちょーだい。明日、もってきてあげるねぇ」
「え? ええ、もう壊れているからいいけれど……」
与太郎はそれを持って帰ると、一晩中、長屋の軒先で、細かな砂と油を使って、与太郎のセリフとしては「ごしごし、ピカピカ」と言いながら、完璧な光学計算に基づいたレンズの研磨を行いました。
翌日、与太郎はお花ちゃんに、竹の筒にはめ込んだ小さな道具を渡しました。
「お花ちゃん、これ、覗いてごらん。お空の、お月様を見るんだよぅ」
お花ちゃんが半信半疑でその竹筒を覗き、夜空の月を見上げた瞬間、
「――っ!?」
彼女は息を呑みました。
いつもはただの黄色い丸にしか見えなかった月が、目の前に迫るように大きく見え、そこには、誰も見たことのない、神秘的な「山の陰(クレーター)」がハッキリと映し出されていたのです。ガリレオ・ガリレイが初めて望遠鏡で月を見た時と同じ衝撃が、江戸の娘、お花を襲いました。
「……すごい。綺麗……。与太さん、これ、あなたが作ったの?」
「へへっ、お月様にはね、ウサギさんじゃなくて、おっきなお山があるんだよぅ。お花ちゃん、綺麗だねぇ」
お花ちゃんは、竹筒から目を離し、目の前にいる、少しトボけた顔をした与太郎をじっと見つめました。
他の男たちは、自分を飾り立てるために言葉を尽くす。しかし、この与太郎という男は、ただ純粋に「綺麗なものを、お花ちゃんに見せてあげたい」という、それだけの無欲な心で、誰も成し得ない奇跡を起こしてみせた。
お花ちゃんの胸の中で、それまで頑なに閉ざされていた恋の扉が、トントンと静かに叩かれた音がいたしました。
しかし、世の中、綺麗な話ばかりではございません。
このお花ちゃんに、以前からひどく執着していた悪党がおりました。町内でも評判の悪い、強欲で名高い悪徳商人の「黒金屋」でございます。
「おい、お花。俺の側室になれ。断るなら、お前さんの実家の店に貸し付けている金を一時に返してもらう。それが嫌なら……力ずくだ」
黒金屋は、お花ちゃんが与太郎と親しくしているのを見て激怒し、ついに荒くれ者の手下たちを使って、ある夜、お花ちゃんを無理やり拉致しちまった。
連れ去られた先は、黒金屋の屋敷の裏手にある、四方を分厚い漆喰で固められた、頑丈な「石造りの土蔵の二階」でございます。
さぁ、お花ちゃんの家は大騒ぎ、長屋の連中も集まってまいりましたが、相手はヤクザ者を大勢雇って、土蔵の周りを厳重に見張らせている。
「どうする、どうする! 正面から突入しちゃあ、こっちの命がいくつあっても足りねえぞ!」
若い衆が頭を抱えているところへ、与太郎がフラフラと、しかしその目だけはかつての白銀修一のような鋭い光を宿して、歩いてまいりました。
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