――えこおず、えこおず、聞こえるか。
ぼくはここだよ。ここにいるよ。
えこおず、えこおず、もういいよ。
だあれもいない。森の奥。

父様の目は百鬼羅刹のごとくして
母様の声は怒声罵声の嵐なり
両目をふさぎ、大声あげて
十まで数えてもういいかい

えこおず、えこおず、聞こえるか。
聞こえていても、しらんぷり。
えこおず、えこおず、聞こえるか。
だあれも答えず。森の奥――


「お母さんに恥をかかせたわね!」

――ぼくのともだち やまぶききょうすけ
ぼくのともだちはえこおずと言います。えこおずはぼくがひとりでいるときに、いつもでてきます。ぼくはみんなにえこおずをしょうかいしたいけど、えこおずはみんながいると、はずかしがるので、みんなえこおずのことをしりません。

 一年生の時、授業参観の日に作文の授業で、題は友達についてだった。
僕は作文を書いて、先生が指名したので書いた文章を読んだ。
家に帰って母にバッグの角で殴られて抜けかかっていた前歯が抜けた痛みだけ、やけに鮮明に覚えている。
あのとき母は泣いていたんだったか、それとも怒っていたんだろうか。
そういうところは反対にぼんやりとしていて、僕はこの後何度も見ることになる怒りながら泣く母の映像で記憶は定着している。
本当はどういう顔をしていたのか覚えていない。

 母と僕は、血のつながらない親子だった。
本当の母は死んだ。正確にはこの時点では母ではなかったらしい。
母は父の三番目の結婚を視野に入れた交際相手で、父はこの時二回母を失っていた。
一度目は離婚、二度目は死別だった。
僕の本当の母は二番目の母で、三番目の母は父が結婚をためらうことへの当てつけか、父の知らないところでよく僕を殴った。

 それから二日間、押し入れの中に閉じ込められた。
僕は全然いやじゃなかった。一人でいるとえこおずが来るからだ。
えこおずは僕にいろんな話をしてくれた。
えこおずはよく歌を歌ってくれた。
歌詞はほとんど忘れてしまった。
でも、えこおずのかすれた声と、歌のさびしげな節回しの雰囲気だけは今でもなんとなく覚えている。

 二日経って母が僕を解放してくれたのは、僕がすっかり反省したからではなかったし、また、僕の身の安全が心配になったからでもなかった。
母は恐ろしくなったのだ。
きっと母は、押し入れの中から聞こえてくる、僕の笑い声を聞いていたに違いない。
えこおずの話は面白い。
一緒にいると、小学校の友達のだれより楽しいことは間違いなかった。


――友という字は綿よりも軽薄にして
愛という字は呪詛怨嗟の坩堝なり
知らぬ存ぜぬ大声あげて
百まで数えてもういいかい

えこおず、えこおず、聞こえるか。
聞こえてくるのはぼくの声。
えこおず、えこおず、聞こえるか。
いつまでたっても森の奥――


「響介、えこおずってそいつか?」

 すでに僕は母からも父からもまともに話しかけてはもらえなくなっていた。
それどころか、学校でも僕はおかしいというレッテルを張られ、避けられるようになっていた。
僕はそれで全然さびしくはなかったし、みんなが僕を避けてくれる分、僕は保育園にいるときよりもえこおずと一緒にいられる時間が長くなってうれしかった。
えこおずは学校の池のほとりが好きだった。
僕は休み時間も放課後も、自分が使える時間はすべてえこおずと二人きりで池のほとりでおしゃべりをしたり、えこおずと一緒に歌ったりした。

 そんな僕にとって、えこおずの次に特別な存在だったのが兄だった。
兄はえこおずが見える僕以外の最初で、そして最後の人物だった。
小学六年生だった兄はある日、池のほとりの僕とえこおずを見つけて、そう言った。

 兄は父と一番目の母の間にできた子供で、僕との血のつながりは半分だけだった。
顔も似ていなかった。性格も似ていないと思う。
でも、兄は何かと僕をかばってくれることが多くて、いつも優しかったので、僕は兄のことは好きだった。

 兄はえこおずを見ることができるけど、声は聞こえないみたいだった。
だから、えこおずが何を言ってるか、僕が仲介して伝えてあげなければならなかったし、えこおずの方も兄が何を言っているかわからないようだったから、僕が兄の言っていることをえこおずに聞かせてあげなければならなかった。
でも、僕は兄にえこおずが見えたことがとてもうれしかった。
兄はその日から、週に二回くらい、池のほとりで、僕とえこおずと遊んでくれるようになった。


――友達探し、遊び場へ。
だあれもいない森の奥。
恋人探し、人の中。
何処も同じ森の奥。
父様探し、母様探し
疲れて帰る家の中。
えこおず、えこおず、後ろの正面。
えこおず、えこおず、だあれもいない――


「なあ響介、もうそのえこおずごっこはやめにしないか?」

 冬が近づいていたと思う。
池のほとりに生える白樺もその奇妙な形の葉を落として、手袋とマフラーは外に行くには欠かせなくなっていた。
兄がふとそんなことを言ったので、僕はどういう意味かと兄に聞き返した。えこおずごっこというのは何のことだろう。
そんな遊びは今までした試がなかったのだけれど。

 兄は、もうそうやって自分が特別なふりをする必要はないのだと言った。父と母の正式な結婚が決まったのだと兄は言った。
だからお前はもうお母さんからいじめられないんだと、あの人はもうお前のお母さんなんだから、お前もあの人を怖がらせるようなことをするなと、兄は言った。

「えこおずなんて、初めからいないんだろ」

 そのとき、僕の中の何かがはじけて、僕の後ろに立っていたはずのえこおずがぱちんと消えた。


――千まで数えてもういいかい
(きみのこえがやみのなかでみみのなかでぼくをよんで)
万まで数えてもういいかい
(ぼくのこえはむねのおくできみをよんでやみのなかへ)
億まで数えて兆まで数えて
(やみのなかにきみはいるのきみのなかにやみはあるの)
いつまでたってももういいかい
(きみをよんだこえのさきへぼくはきみのこえ)――


「えこおず、えこおず!」

 その日から一週間かけて、僕はずっとえこおずを探していた。
誰よりも一人きりになれる山の奥で、誰よりも一人きりになれる真夜中に、僕は一人きりでえこおずを探し続けた。
一日でリュックサックに入れたお菓子はそこを付き、二日目に足を滑らせて崖から落ちた。
命は助かったけど足をひねって歩けなくなった。
それからはよくわからない。寒くて、冷たい雨が降っていたのを覚えている。
ふと、死ぬのだろうと思った。

 時折心臓が止まっているみたいな変な動きをしたり、目の前の景色がぐにゃりとゆがんだりして気絶するのを何度か繰り返して、とても怖くなったのを覚えている。
僕は兄の名前を叫んだ。そしてまた、意識を失った。

 もう何度目かわからない気絶と覚醒の後、僕は僕の名前を呼ぶ声を聞いた。
兄の声と、えこおずの声だった。
目を開けると目の前にえこおずが立っていた。
僕はえこおずを呼ぼうとした。えこおずは僕を見ていた。
僕はもうえこおずの顔を見返すために目を上げるのもつらかった。
そして、えこおずはいきなり振り返って、森の奥へと消えて行った。
僕は呼び止めようとえこおずの名前を呼ぼうとしたけれど、声がかすれて出なかった。

 ふと、えこおずの歌が聞こえた気がした。
僕はそれを聞いて、えこおずがお別れを言いに来たんだと知った。
僕は兄を呼んだ。
兄を呼ぶ声は、えこおずを呼ぶのに比べてはるかに簡単に出た。
僕が叫ぶとえこおずは一度振り返って、笑った。
そして走って森の奥へと消えて行った。
あとから兄が来て、僕は助けられた。

 一週間ぶりに家族に会って、父も、母も、兄も、みんな泣いていた。
僕も泣いた。
そして初めて僕は、ここが僕の居場所で、ここにえこおずはいないのだと知った。

 あれから二度とえこおずには会っていない。
そのうちに友達もできたし、僕には兄弟ができて、それなりに楽しい日々を送っている。
会いたいとは思わない。でも、大切な記憶だった。

 三歳になる弟が居間で遊んでいる。

「えこおず、あそぼ、えこおず」

 驚いて居間を見る。
単なるテレビのキャラクターのことらしかった。
ほっとする反面、なんだか少し残念だった。


――えこおず、えこおず、聞こえるか。
だあれもいない森の奥。
えこおず、えこおず、さようなら。
何処も同じ、森の奥。
えこおず、えこおず、ひとりきり。
あなたもきっと、森の奥。
えこおず、えこおず、お元気で。
何時かもこんな、森の奥――

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えこおず(SS)

自作楽曲「えこおず」の本編SSです。

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投稿日:2021/03/27 16:17:53

文字数:3,562文字

カテゴリ:小説

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