空は広いのに、僕が、僕たちがいる地上というのはとても狭い。空を貫こうとするビルがいくつも建ち並び、その足下に従うように人々が歩いている。コンクリートは朝日を浴びて人のようなぬくもりを、夜は誰もを見放すような冷たさで僕らを包む。
仕事がなくなってしまってから、僕と一九番はあてもなく仕事を探して、この街を歩いては労働力を募集する店を尋ねる日々だった。出て行けと水をかけられ、罵られ、少しずつためていたお金もどんどん減っていき、飲み物だけで飢えを凌いで。
これが人の生活なんだろうかと疑問を抱くことにも疲れて。海に漂うゴミのように歩いていた。
喉が渇いたなら自分の唾液を、疲れたのならビルの影で。持ち主を失った小銭を拾う。そうして得たお金も無くなった。このまま順調にすすめば、最後は生ゴミを漁って食べられるものを探す日々になるのだろうか。そして今日も、仕事は見つからず、ひっそりと路地裏へと身を隠す。
「お帰り。一八番。」
「・・・ただいまって言えるような場所じゃないだろ。」
口にしてからすぐに失言に気づく。
自分の無神経さに腹が立つ。
「ごめん。」
「ううん、疲れてるんだからしょうがないよ。はい、今日の晩ご飯。」
手渡される温かいコーンポタージュを一気に飲み干す。無理矢理熱いまま喉に流し込んだから、舌は炙られたような痛みが走って、喉は嫌な痺れが残った。そして熱を帯びたままポタージュは胃まで辿り着く。
「お金、残ってる?」
「もう底をついたよ。一九番も同じでしょ。」
「うん、このポタージュで使い切っちゃった・・・。」
もっと味わって飲めば良かった。胃の中でころころと存在感を放つコーンが憎たらしく思えた。
夜風は建物の隙間から容赦なく体温を奪う。僕らはいつものように、役に立たない段ボールを敷いて、その上に寝転がった。たかが段ボール程度では遮ることもできないコンクリートの冷たさが、世界に取り残されたように思えて仕方ない。
いつも通りのネオンの毒々しい明かり。人の話し声や、車のクラクションに垂れ流される排気ガスの音。騒がしくて、そんな日常が変わらず景色として続いているのに、僕たちの日常は、常に、常に悪くなっていく。底なし沼とよく似ている状況で、藻掻いて藻掻いて、そして沈む。藻掻かなくても少しずつ、蝕むような遅さで確実に。
嫌気が感じなくなった代わりに、悔しさみたいなものが最近は込み上げるようになった。
そんな中で眠れるはずもなく、不意に一九番が口を開いた。
「ね、私・・・。」
「・・・・・ん?」
「体売ればいいのかな・・・?」
「なッ。」
真っ先に手が動く。正確無比に平手打ちが一九番の頬に叩き込まれ、その後自分の中から沸き上がる衝動を、ぐうっと右手に集めて、息を止めて握りしめた。
「馬鹿なこと言うなよ!なんでそんなことしなくちゃいけないんだよ!」
言葉の、感情の塊が苛立ちと一緒に吐き出される。頭がミキサーにでもかけられたようにぐちゃぐちゃになったのが自分でもわかる。考えが沸騰して、ぐつぐつ煮えたってまとまらない。落ち着こうとすればするほど、反比例する。
「でも・・・・・、このままじゃ私達。死んじゃうよ?奴隷は人じゃないんだよ?薬を飲めば妊娠しないって言うし。きっと・・・今までの仕事よりは稼げて、楽になるだろうし。」
「ふざけるなよ!!!!!!僕たちは!!・・・・・・。」
僕たちは、なんだろう。きっと人なんだ。でもみんな人としてなんて見てないんだ。働くために生きて、生きるために働いて。そんな矛盾した境界線で、内蔵が飛び出た猫みたいに生きて。
「ほら・・・。一八番も本当はもうわかってる。いいんだよ。ずっと辛い仕事を受け持ってくれたんだから、次は、私の番。」
何か口に出せ。何か口に出せ。励ましでも、説得でもなんでもいい。なんでもいいから吐き出せよ。いつも世界に、物思いに耽ってる頭だろ・・・。こんな時に頭が回らなくてどうするんだよ。考えろ。苦し紛れでいいから。
「良くない。僕たちはまだ生きてるんだから。」
「こんなの、死んでるのと同じだよ。何も楽しむ権利もなくて、死んだらそこで終わりで、誰も助けなんてくれなくて。」
「・・・・・・・楽しむ。」
「そうだよ。楽しむ事なんて何もないよ。働くだけ働いて死ぬの。あ、でも少しだけ私は違うよ?一八番がいたから。だからね、今度はきっと私の番だから。」
「楽しみがあればいいんだよな。」
「え?」
何も考えずに反射的に、言葉が零れ出た。
「楽しみが、あればいいんだろ。僕も一九番も楽しめるような、楽しみが。」
詭弁だと一番自分自身がわかってた。でも、そんな詭弁に一九番が反応してくれたことに、僕はただ救われた。
「でも、そんな楽しみなんて、ないよ・・・。」
「あ、あるだろ!例えばほら、一九番が持ってたマイクとか!」
あれはもうゴミの山の中に再び埋もれていた。興味を持っていた一九番でも、もう今の状況に耐えきれなくなって捨てていた。ゴミの中から掬い上げられたマイクは、再びゴミの山の中に戻されて、いずれ朽ちるのを待つだけになっていた。
どこにあるのかなんて僕もわからない。
そのどこかにあるマイクを探して、僕はゴミを掻き分けた。
生ゴミの腐臭に鼻が曲がりそうになる。手で掻き分けているから、みるみるうちに手は薄汚れた色に染まっていく。
誰かがゴミの分別でもわきまえなかったんだろう。刃物で指先が切れた。ヒリヒリとした感覚が指先に広がる。段ボールを引きずり出して、有機溶剤の容器を放り投げて、その先にマイクはあった。
「ほら!」
汚れで黒く汚れたマイク。
「・・・そんなの、もういらない。」
「これで、これで僕が歌ってやるよ!」
「・・・・・え?・・・歌?」
あっけらかんとする一九番の顔。
「好きだろ、歌。」
「好きだよ・・・好きだけど・・・・。」
明らかに戸惑いの色しか浮かんでない一九番と、顔の距離を詰めた。一瞬、ビクッと体が震えた。
「好きなら遠慮なんてしなくていいんだ!悲しいことでも、辛いことでも、楽しいことでも嬉しいことでも、全部歌に変えればいいんだよ!一九番が歌わないって言うんだったら、代わりに僕が歌う!一九番の気持ちも、全部歌にして聞かせてあげるから・・・だから・・・・簡単に・・・・・言わないでくれよ。言わないでよ・・・体売るとかさ、そんなこと。
言わないでくれよ・・・・・・・・・・・。」
自分で必死になって、自分で空回りして、自分で涙を流してた。
それは、一九番もきっと同じだ。今の僕と同じ顔をしているからきっと同じなんだ。
「ごめん・・・・・・。ごめんね。変なこと言ってごめんね・・・・・・。私もう生きるのに精一杯で・・・・、でも一八番がふらふらしながら帰ってくるの見てると、痛くて。
どこだかわかんないけど、痛くなって・・・・・・・。」
なんで涙が出てきたかなんてわからなかったけど、その夜。僕たちは抱き合って涙をひたすら流していた。
夜風は容赦なく体温を奪う。そうだよ、奪ってしまえよ。僕らの涙も、奪えよ。いつも奪ってる体温と一緒にさぁ。おまけみたいなもんじゃないか、・・・・・・奪えよ。
生ゴミの腐臭が鼻孔を侵して、口の中では涙の塩からい味がした。
楽しみのことなんてどうでもよかった。ただ、一九番がどこか遠くに行きそうな気がして、それが寂しかった。繋ぎ止めたかっただけなんだなと、しばらくしてから気がついた。
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