第10章 プラセボクリニック
五時を回っていた。男と別れて、喫茶店を出てから駅に向かった。三分ほど歩いた。南千住駅前で千寿南クリニックを探した。駅前の電信柱に看板があった。看板の案内に従って、千住大橋方向に少し歩くと、すすけた工場の高いコンクリート塀の間に、その医院はあった。クリーム色のモルタル三階建てで、玄関が民家のドアのようになっていた。内部が見えない。診療時間の看板がなければ医院と気づかない。診療科目は内科、循環器科、呼吸器科、リウマチ科で、診療時間は木曜日を除く平日の午前十時から午後一時と午後三時から午後六時までと土曜日の午前十時から午後一時までとなっている。院長は梨本和正とある。
土岐はドアを押して中をのぞいた。玄関ドアの奥にもう一つドア。右手にかろうじてすれ違えそうな階段があった。ちょうど、頑健そうな中年の男が二階から降りてきた。土岐を怪訝そうな目で一瞥すると、奥のドアを引いて中に入っていった。その後ろを眉間に深いしわのある老看護婦が続く。老女にしては大柄だ。一坪ほどの狭い空間ですれ違った。
奥のドアの中は受付と待合室。病人らしくない風体のよくない男が五人、二本の長椅子に腰かけて壁に掛けられた液晶テレビを見上げていた。音声がない。受付カウンターの向こう側には女が二人。お互いに相手の体形を際立たせていた。一人は若い医療事務員で、白衣を着て、パソコンから領収証を打ち出していた。顔の大きな女だ。小太りに見える。もう一人は書類のようなものを整理している。大柄で顔の小さな女だ。痩身に見える。じっくり見ると童顔だ。その女事務員が老看護婦の後ろから待合室を覗き込んでいる土岐に気付いた。
「・・・すいません。診療の受付は五時までなんですが、・・・」
「そうですか。そとの看板では診療時間は午後6時までとなってたんで」と言いながら土岐は外に出た。それから駅前の鄙びた喫茶店小塚原にはいり、観音開きの木枠の窓から、千寿南クリニックの前の通りが見渡せる席に座った。とりあえず、ホットコーヒーを注文し、ちびちび飲むことにした。すぐに出てきた伝票の金額に、釣りのないように小銭を用意した。
窓の外の人通りはまばらだった。駅前の通りとは思えない。やがて、先刻待合室の長椅子に座っていた労務者風の男たちが、一人二人と三々五々通りに出てきた。駅の方向ではなく泪橋のほうに向かって歩いて行った。最後の五人目の男が出てから、しばらくして六時になった。二階の窓から明かりが消え、三階に明かりがぼんやりともった。さらに十分ほどして若い大柄な女事務員が淡いブルーのデニムジャケットで出てきた。医療関係者には見えない。どこにでもいるような普通のOL風だ。土岐は喫茶店小塚原のレジに代金を置き、そのまま駅前に向かった。女は定期券を自動改札にかざしているところだった。土岐はスイカを手にして女を追った。女は常磐線のプラットフォームに上って行った。ちょうど三河島方向から電車が入ってきた。電車の重い騒音が階段に響く。女は小走りに階段を駆け上がる。土岐は一段おきに駆け上る。到着とともにドアが開き、女が乗り込む。降車する乗客はほとんどいない。車内はすでに満員だ。土岐は女の真後ろから体を密着させて電車に飛び乗った。女の背中の曲線が土岐の胸に吸い付く。女の髪が土岐の鼻先をかすめる。百六十五センチぐらいありそうだ。土岐は体をそらせて隙間を作った。
「千寿南クリニックの方ですよね」
と言う土岐の言葉に、女の頭が鋭く反応した。振り向こうとする。肩越しに土岐を見ようとするが、首も体も十分に回らない。
「・・・どなたですか?」
と聞くのがやっとだ。
「先ほど、受付を断られた者です」
「・・・ああ」
と言ったなり、女は沈黙する。
「どちらまでですか」
と土岐は丁重な声音で聞く。
「・・・柏です」
「申し訳ないですが、次の北千住で、5分ばかり、お話を聞けないしょうか?」
女は答えない。周囲の通勤客が土岐との会話に耳をそばだてていることを意識している。北千住についた。東武線と千代田線乗り換えの乗客の圧力で二人ともホームに押し出された。
「よろしいしょうか?」
と土岐は上目遣いに頭を下げる。
数人の通勤客が迷惑そうに二人を一瞥して乗換ホームに小走りに歩いてゆく。
「・・・どういうことですか?」
と女が言い終えないうちにドアが閉まった。
「こんなとこじゃなんですから、駅ナカの店で座ってお話しできませんか?」
と言う土岐の顔と遠ざかってゆく電車を女は幾度も見比べる。そのたびに土岐は頭を下げ、女のパンプスの足元に目を落とす。女は応諾をはっきりさせない。
「とりあえず、駅ナカへ」
と土岐は女の瞳を凝視する。女は右肩をすくめる。それを合図に右目の隅で女を確認しながら土岐は駅ナカの喫茶店へ向かった。
「突然すいません。僕、土岐明といいます。法律事務所の手伝いをしてます」
女は細い指で挟んだ名刺をじっと見つめている。
「千寿南クリニックに今田というひとが出はいりしてたと思うんですが・・・」
「一月に亡くなった方?」
と顔を上げながら聞く女の瞳が不安げに小刻みに揺れている。
「その犯人として真田という男が裁判にかけられてるんですが彼は無実です。2人の接点がよくわからないんですが今田さんは千寿南クリニックで、どういうことをしてたんですか?」
「・・・治験に、参加していた、・・・と思います」
「それだけ、・・・ですか?」
「・・・近くに住む人にいろいろな治験の紹介をしてくれていたと思います」
「どういう経緯で、今田さんが治験に参加するようになったんですか?」
「あのあたりは工場が多くて地元住民があまり多くないんです。老人や生活保護の人は多いんですが健康保険証を持っていない人も多くて、それであのクリニックはクランケが少なくって、院長先生が治験の指定病院に参加することになったんです。ネットで治験ボランティアを募るんですが、都心から少し距離があって集まりがあまりよくなくって。そんな時、今田さんがたくさんボランティアを紹介してくれて、去年一年間は、とても忙しかったんです」
「治験参加者をなんでボランティアと言うんですか?お金を払ってるんですよね」
「売血と同じで治験を生活の糧にされると困るんで。治験に参加すると負担軽減費で現金をお渡しするんですが、お小遣い程度の金額なんでそれで生活することはできないと思います」
「でも、・・・今田さんは相当収入があったようですが、・・・」
「・・・たぶん、ボランティアの紹介料じゃないでしょうか」
「1人いくらぐらいですか?」
「・・・数千円だと思います」
「今田さんは何人位紹介したんですか?」
「・・・一年で、累計五十人程度だと思います」
「すると合計で、年間10万か20万程度ということですか?」
「・・・その程度だと思います」
「今田さん自身はボランティアとして年間どれくらい軽減費を受け取っていたんですか?」
「・・・多くてせいぜい、五万円から十万円程度だと思います」
「でも今田さんは、去年は日雇をしてなかったみたいで。それでも普通のアパートに入居できるだけの金額を貯めたらしいですよ」
と土岐が言い終えないうちに女は立ち上がった。
「・・・すいません。家族が心配するので、・・・」と言ったなり店を出ていった。口をつけていないコーヒーが二つ残った。土岐は無理してコーヒーを二杯飲みほし、帰宅した。
日暮里経由で蒲田に帰宅してすぐ、千寿南クリニックの梨本和正を検索してみた。最初に出てきたのは千寿南クリニックのホームページだ。そのつぎに宝徳大学付属病院の内科診療担当が出てきた。梨本は木曜日の午前中の担当になっていた。ついでに梨本の履歴を見ると、宝徳大学医学部卒とある。宝徳大学付属病院の電話番号をスマートフォンに登録した。
翌朝、宝徳大学附属病院に電話した。一月十七日に梨本医師が出勤したかどうかを確認するのが目的だった。さんざん、たらいまわしにされたが、最終的に梨本の出勤を確認できた。それから自宅近所のクリニックに向かった。九時ちょうどに駅前商店街裏のクリニックの自動扉を抜けると、待合室に老婆がひとり、ぽつんと座っていた。五分も待つと、診察室に名前を呼ばれた。三畳もないような狭い診察室に入ると、旧知の開業医が待っていた。
「つかぬこと伺いますが、こちらのクリニックでも治験やってます?」
「・・・たまに、頼まれてやっていますが、それが何か?」
「知人に治験ボランティアで生活しているような人がいるんですが、それって可能ですか?」
医者はどんぐり眼をさらに丸くする。なぜそういう質問をするのか理解しかねている。
「短期的にはできないこともないかもしれないけれど、ずっと、というのは無理でしょう」
「短期というと・・・どのくらい?」
「入院治験というのがあって、半月入院で十五万円ぐらいでるから生活できるでしょう」
「じゃ、それ繰り返せば、ずっと、それだけで生活してゆけるんじゃないんですか?」
「いや。治験の規約では治験が終わった後、一定期間、ほかの治験には参加できない」
「一定期間というのは、どれくらい?」
「・・・まあ、ものにもよるけど、・・・三、四か月、・・・」
「でも、色んな病院で色んな治験をやってるようだから渡り歩けばいいんでしょ」
「それは投薬の効果が特定できないから禁止されている。複数治験をやっちゃうと薬の飲み合わせが悪い場合、著しい健康被害の生ずることがある。最悪、死に至ることだってある」
「じゃあ、治験で生活するのは不可能ってことですか?」
「ルールを犯せば、できないことはないけど、ルールを守らないことは想定されていない。掛け持ちでやっているボランティアもいるようだけど。でも、時々名寄せをしているから、ばれたらその治験ボランティアはブラックリストに載って、それまでだ。治験に参加できなくなる。それに治験ボランティアは保険証持参が条件だから重複治験や連続治験をやるとなると、ばれないためには治験者の名義をすりかえなければならない。そのとき初診・再診料、医学管理等、投薬の名目で保険請求するから、不正請求をしていることになる。言っておくけれど、あんたは肝臓の数値が悪いから、治験ボランティアにはなれないよ。・・・今日は受診じゃないの?」
という医者の声が土岐の背中に投げかけられた。
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