まともな鶏小屋と、そうでない鶏小屋


まともな鶏小屋

 やっぱり夏だ。じっとりと肌にまとわりつくあの湿気と、九割がた性欲で構成された視線。何もかもがうざったかった。とにかくどちらかからでもいい、離れたくて、足を踏み入れた雑貨店は、しかし冷房がききすぎていた。体中のありとあらゆる汗腺から吹き出していた汗は瞬くまにべったりとした不快感だけを残して退散していった。かわりに呼びもしないのにやってきたのは寒けだけだった。結局街には気の休まるような場所などないのだ。私はあきらめて、ただひたすら目的の場所へ向かうことだけに従事することにした。
 店を出ようと踵を返したときだった。ガラスの自動ドアのこちら側に見知った顔が立っていた。向うはこちらにはまったく気づかない様子で、500ミリのペットボトルに入ったスポーツドリンクをがぶがぶと飲んでいる。その動きにあわせて波打つ喉元は汗でてらてらと光っていて、なんとなくなまめかしかった。
 彼はあっというまにそれを飲みほしてしまった。キャップを閉めているところで、私は慌てて彼の後方にあるドアの向うへと向かって歩き出した。かつかつというヒールの音がうるさかった。そして彼の真横を通りすぎるとき、私は妙な息苦しさを感じた。それはなんだか何かを誤飲して気管を詰まらせたような感覚に似ていなくもなかった。意味もなく咳きこみながら、開いたドアの向うのむっとした熱気を感じた。ふと振り返って店のなかを見てみても、そこには雌鳥が一羽、ガラスの扉に写って見えるだけで、彼の姿はもうどこにも見あたらなかった。

 眠たい頭は何時になっても眠たいままだった。気がつけばもうすでに3時間目が始まっていた。これが終わればあっというまに昼だ。私は長いため息をついた。
 普段の一?五倍はありそうな重たい頭をもたげると、源信は往生要集を著して念仏を唱える往生の教えを説いた云々、という白い文字列が見えた。ああ今は倫理の時間か。私は目をこすった。すると黒板の輪郭がはっきりとわかってきた。そのあたりでようやく私はノートをまったく取っていなかったことに気がついた。慌てて教科書とノートを開き、夏の熱気にも関わらずじんわりと冷たくなっていたシャープペンシルを握った。
 再び黒板を見上げたとき、ふと、視線が右斜め前に座る背中にぶつかった。その背中の持ち主は東雲、だ。私は、ずいぶん前から彼に恋をしていた。
 東雲のここから見た後ろ姿は、はっきり言って美しかった。しなやかな体の線が、学ランの黒くシャープな色によく映えている。そして、ここからでも時折伺えるばさばさと伸びた長い睫毛、くしゃくしゃとした短い焦茶色の髪、陶器のように滑らかで、完璧なうなじ。そして私は前の日に見かけた彼の姿を思い出す。汗の伝っていた首筋。波打つ喉―。
 東雲と、セックスがしたい。
 ふと浮かんだこの台詞はあまりに自然すぎて、私は自分自身に驚くことすらできなかった。
 ああ不純だな。
 言い訳のように心のなかで呟いてはみたが、実際に自分の抱いた気持ちがどれほどの重みを持つのかなど、私自身が知る由もなかった。
 結局その日の倫理のノートは、昼休みの始めの一〇分を返上して完成させなければならなかった。

 おいこらしゃもじ、というだるそうな低い声で、私は顔を大義に上げた。開いた窓から時折入ってくる風がカーテンをゆっくりと揺らしていた。そのせいで入りこんでくる真夏の日差しはやけに眩しかった。
「…なに」しゃもじ、とは私のあだ名だ。もっとも、そう呼んでくるのは中村翔吾ただひとりだけれど。
「昼だぜ、もう。飯、食わねえの」
「…食うよ」
 私はやはり大義に机から半身をもたげ、脇に掛けていた弁当袋から弁当箱を取り出した。どぎついオレンジ色の小さな直方体のその日の中身は、見栄えのしない卵焼きと、昨晩の残りものの野菜炒めに、ごま塩のかかった白飯だった。
「相変わらず卵焼き下手クソだなお前」そう言う翔吾の取り出したタッパーに入ったおかずたちは、ホウレンソウとベーコンの炒めものにせよきんぴらごぼうにせよ、相変わらずどれも小綺麗で、見るからに旨そうだった。しかも彼は弁当を毎日自分で作っている。うっせえオカマ、と私は何も言い返せない代わりに稚拙な文句をほざくのだった。そして私たちは普段どおりの昼、をはじめた。
 私には女友達がいない。それは私が女という性別を極めて疎んじているからかもしれない。しかしこの状況を私が自ら望むわけではなかった。でもだからといって脱却をはかる気もまったくない。私には女の根本にある「なにかに属していたい」気質がはじめから皆無だった。そのせいでか私は彼女たちのしたいことがいまいち理解できず、それゆえ彼女たちと関わりあいたいという気も起きなかった。無関心、というのに近かった。しかしそれは一般的にイコール拒絶、というものとして理解される感情だ。だから私には同性の友人がひとりもいない。むしろそれは仕方のないことだった。
 翔吾とは中学校以来かれこれ5年めのつきあいになる。彼は特に同性にも異性にも問題を抱えているわけではなかったが、なぜか私は彼とだけは妙に気が合った。ただ最近なんとなく感じているのは、彼は非常に中性的で、私はそこに惹かれているのかもしれないということだ。彼は料理が巧いし、裁縫だってできる。それだけでも充分その年頃の男子というものからかけ離れたところにいる感はあるが、それに加え彼は顔立ちも男らしさよりむしろ女性独特の美しさを醸しているし、体の線もほっそりとして、たくましさのみじんも感じさせない。もちろん運動は得意なほうではない。
 私は女というものに疎遠だ。私が女であるにも関わらず。でもこの体はまぎれもなく女だ。筋肉よりも脂肪のほうがつきやすいし、生理はくるし、セックスのときはいつだって受け入れる側だ。だから友人として親しくしたいという無意識な願望は、やはり無意識のうちに同性に近いものを求めているのだろうか。なんだか「願望」、が何かを「求める」という行為にいささかの違和はあるけれど。
 とにかく、私と翔吾とはその「中性」である点でつながっていた。私は女ではなかったが、決して男でもない。同時に、彼は男ではないけれど、女でもなかった。そこが、私と彼との紐帯を担っているらしかった。
「てかお前さ、さっきの倫理の時間も寝てなかった?」
 思考、の末端で彼の声が聞こえた。ああ、と私は口をごはんでもぐもぐさせながら言った。
「寝てた」
「なに、寝不足?」
 翔吾は、心配、というよりもむしろ訝しげに眉間にしわを寄せていた。彼のそういうところが私は好きだった。
「別にい」変に嬉しくなっている私はじらすように言葉を濁した。なんだよそれ、と翔吾は細い眉と眉のあいだにできていたしわをいっそう深くしたが、やがてそれはふっと消え、かわりに彼の端正な顔面には苦笑、がくっついていた。私はますます嬉しくなって、それから昼のあいだは終始ニコニコしたままだった。

 夕方五時、夕日はまだ日中のぎらぎらとした厭らしさを隠すことを惜しんでいるように、西の方向でうじうじとこちらを照らしていた。家に帰る、でももちろん中にはだれもいない。当たり前だ。私の両親は共働きで、しかも自営業だから帰る時間も、出勤する時間もまちまちだった。ことに最近は家に帰らないということが茶飯事と化していた。不況、のせい、らしい。
 私は制服から部屋着に着替え、それから一通りの家事を終えると、自分の部屋に引っこみ、書類やらなにやらの気配がまったくない無機質な机の上に開きっぱなしのノートパソコンを立ちあげた。SNSを開くためだ。
 最近私はSNSを始めた。CYCT(シクト)という、中高生向きに開発されたインターネット上の交流サイトだ。あなたと(You)繋がって(Connect)一緒におしゃべりする(Chat Together)、というその名のとおりこれは面識のない人同士でも繋がりを持って気軽におしゃべりができるもという趣旨のサイトだが、その実態はほとんど現実(Real)の世界でも繋がりのある人々が、彼らの住む世界で起ったことに対する愚痴や文句を互いにこぼしあったりするだけのチャットルームにすぎない。
 今日も空元気にポップな壁紙のそれに飛ぶと、学校の知り合いたちがぬちゃぬちゃと厭らしい会話を展開していた。私は基本的にそれを傍観しているだけである。なにも書き込むことはしない。そうやって人々がプライバシーのへったくれもない丸裸の、しかも陰部を中心に誇示してくるような汚らしい光景を繰り広げているのを見るのが、私の最近の趣味だった。翔吾はこれを「悪」趣味だと言って、例の苦々しそうな笑顔を見せてくれる。
 
 ちか:たくやくんて、好きなひといるんでしょ(´?ω?`)
たくや:なんで??w
 ちか:ななのことが好きなんだってだれかが言ってたからwww
たくや:しらねーwwwただの噂だよwwwwwww
    というか誰?変な噂立てられるとか鼻持ちならない
 ちか:えーつまんなーーーい(´○`)
    だれとか…風の便りってやつ?だから発生源は知らなーい。。。
たくや:(´?ω?`)
    じゃあ俺塾だからそろそろ落ちるわーーー
 ちか:あっ逃げたwww
たくや:ちげーーよwwww
  じゃーな!
→たくや さんが退出しました。
→ひなた さんが入室しました。
ひなた;…おっと痴話ってたの?
 ちか;そお~ガチつまんねーあいつ
    つーかなにあのチキン野郎www
ひなた;チキン野郎wwwwwあからさまに態度出てんのにね~www
 ちか;だよね~~wwww
    ななの前だとなんかクール装ってるけど、あいつ授業中ななの後ろ座って
    るじゃん?今日見ちゃったんだけど、あいつ、ずぅっっとななの後ろ姿眺
    めながら鼻の下伸ばしてんのwwwwww
ひなた;まじでwwwwwwwキッモwwwwwwww
→はやと さんが入室しました。
はやと;キッモwwwwwwwwwwww
 ちか;うわ乱入やwwww
ひなた;ちゃっかりしてんな~~~www
はやと;ちゃっかりさんですっ(≧3≦)☆
 ちか;キッモwwwwwwwwwwwwwwww
はやと;ワロス\(^○^)/
ひなた;てかぶっちゃけ男子のほうではあいつどぉなのさ??
はやと;えーーーこれ答えるべき?
ひなた;当たり前じゃんwww
はやと;あとでとばっちり受けたくねえよwwwwww
 ちか;とばっちりとかwwwwwもうキッモとか言っちゃった時点で同犯じゃん
    wwwwwwww
はやと:たしかにw
    え、聡とか貴久とかはフツーじゃね?他はあんま面白くは思ってなさげだ
    が
ひなた;まぁ頭よくて生徒会入ってて表面クールで、一方でななにゾッコンだけ
    ど、そのくせしてあれだからねー
 ちか:最強のツンデレwwwww
ひなた:いやその域もはや超えてっからwwwww
    ツンデレとかそんな可愛いかんじじゃないwwwwww
はやと:いやー女子は怖いですなぁ(´∀`;
ひなた:いやあたしとしてはこうやってちゃっかり陰口叩きながら翌日にはすんな
    りとたくやのとこで和気あいあいとしてるあんたのほうが怖いです
 ちか:それ私たちもだって!
ひなた:…そっか!
はやと:(爆)
    ワロスwwwwww

 ワロス。私は、はやと、の2度繰り返した言葉をなんとなく口ずさんでみた。そして神妙に頷いた。ワロス。確かにそうかもしれない。でもそう思えるだけきっと、はやと、はましなんだと思う。そう思ってみてから、自分のことについて思い返してみると、私は今まで自分のしてきたことにワロスと思ってきたことがないかもしれないということに気づいた。いや正確には思ってきたことを打消してきたことに気づいたのだ。ワロスなのはわかっているのだ。わかっているけれど、わかっているから、打消していた。だから今の私がいるのだ。たぶん。
 ワロスについての考察は果てがないように思われた。そうだから胸の中がもやもやとしてたまらなくなった。私は画面を眠らせて、椅子から立ち上がると、そのまま背後のベッドへとうつ伏せにダイブした。そのとき一瞬目を閉じたら、まぶたの裏側に、さきほどのパソコンの画面に打ち寄せるwの波たちがちらついた。毛布に顔を押しつけたまま、私は口角をちょっとだけ歪めて笑ったのだが、実際には笑える要素などどこにもなかった。しかしそんなのはとうに知ったことだった。寝返りを打つ。薄暗くて、ほとんどなにも見えやしない。そんな天井に向かって手を伸ばした。てのひらを思いっきり引き延ばして、それからぎゅっとなにかを掴んでみた。四本の指の先が食い込んで、手の中央はえぐられるようだった。そしてそれはなにもない証拠だった。
 私はもう片方の手でジャージのパンツのポケットをまさぐった。取り出した携帯電話を開き、画面をろくに見もせず、本能的に動く指に任せてメールを打った:

 わたしのへやにきて。いますぐ。

 一分後、私の家のインターホンが鳴った。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

烏骨鶏と宿便みたいな恋。(原案2/6)

閲覧数:85

投稿日:2014/01/26 16:06:49

文字数:5,421文字

カテゴリ:小説

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