光も、人も、何もなかった。仄かな暗闇が覆う、ただ無人の研究室。
 ただ金属製の台の上に、ミクは、静かに目を閉じたまま、石像のように静止していた。こうして体中をケーブルに縛られ、台座の上に固定されている様を目の当たりにすると、どうしてもミクを同じ人間の意志を持っていることを忘れてしまう。 
 雨を吸い込み重くなったコートをその場に脱ぎ捨てた瞬間、意識が強烈な目眩に飲み込まれた。
 その波に耐え、かろうじて意識を保ったものの、体力と体温は確実に削ぎ落とされているのが分かる。 
 無謀なことを無謀だと判断できるほどの意識はもはや残っていなかった。鈴木君から届いたメールを見、我を失った僕はミクを救いたいがために、降りしきる豪雨の中を歩いた。
 何も知らずに。痛みも目眩も、何も知らずに。微かな視界と記憶にすがりながら、いつの間にか僕は、ミクの目の前までたどり着いていた。
 何故そんな行動に出たのか、自分で問いたところで分かるはずも無い。ただ、どう表したらいいのか分からない不安定な意志が、脆弱な肉体をここまで突き動かしたのは確かだった。
 ベッドを離れ部屋を出る時、僕は両手に何かを握り締めていた。黒く、柔らかく、大きいもの。
 右手は依然と固く握り締められたままで、部屋から持ち出したそれも手から落ちていなかった。
 それはスポーツバックだった。何故こんなものを。
 だがそんな疑問はすぐに消えた。部屋から出る時、既に、何のためにミクの元へ行くのか、そしてどうするのか。無意識の僕は、既にそんなことを考えていたに違いない。だが、それが如何に無謀な事かを判断できる意識はやはり残っていなかった。
 しかし、意識が回復した今でも、無謀な事だと判断できた今でも、事を実行することに、何の躊躇もない。
 ミクの体に絡みつくコードに手を伸ばし、一本ずつ、抜き取っていく。
 ミクを起こさないように、痛みを与えないように、優しく。
 電源用コードを抜き取った時、ミクの瞼が開かれ、深紅に輝く瞳が見つめていた。
 「ひろき・・・・・・?」 
 ミクは、突然目の前に現れた僕にうろたえていた。
 「大丈夫・・・・・・心配しないで。ちょっと、静かにしてて。」
 呼吸することさえ苦しい肺で、彼女に不安を与えぬよう、僕は偽りの元気を見せた。
 「うん・・・・・・。」
 それ以上、ミクは何も問おうとはしなかった。僕がコードを抜き取る際に微かな反応を見せるだけで。
 全てのコードを取り払うと、ミクの体が現れた。
 肢体の無い、胴体と頭部だけの姿。それでも、人が視覚的に美しいと感じる用に設計された肉体は、例え四肢が無くとも、芸術的な美しさを持っていた。
 その体を縛り付ける黒いワイヤーの留め具を外し、僕はミクの体を台座から持ち上げた。
 さあこれでどうしようか。ミクをこの手に抱いて、僕はどうするつもりなのか。
 不安定な思考で考えている間に体は意志を無視して勝手に行動していた。ミクの体をバスタオルで包み、更にビニールで包み、スポーツバックの中へ。
 「ミク。ちょっとだけ、この中にいてね。ごめんね。すぐに開けるから。」
 そんなことを呟きながら、ミクを入れたスポーツバックのチャックを締め、僕は立ち上がり、濡れたコートを羽織った。
 そして何事もなかったかのように、研究室を出て、鍵を締め、来た道を同じように歩き始めた。好都合ことにこの時間帯に社内にいる者は警備のおじさんが三人ぐらいだ。それに、例え見つかろうとも、研究員である僕を疑う理由はない。
 誰にも鉢合わせすること無く、裏口の扉を解錠し外に出ようとした。 
 その瞬間、外の凍てついた空気と豪雨の爆音が扉の向こう側から押し寄せ、意識が再び目眩に飲み込まれそうになった。
 ここで倒れてはならない。歩かなければならない。ミクを、ミクを。
 そんな脆くて無意味な気力のみが、僕の意識を保った。
 一歩外に踏み出すと、頭上から降り注ぐ雫が、全身に激しく叩きつけられ、染み込んでいく。体の中まで。
 雫は重く、感触は弾丸のよう。風は冷たく、音は悲鳴のよう。曇天を染める蒼い陽光は、まるで、あの世。 
 そんな世界の中、意識は、ただ目の前の風景にだけに向けられて、前に進んでいく。
 進んでいると言うことは、歩いていると言う事なのか。しかし体のどこにも足を動かして歩いている感触などどこにもなかった。体に打ち付ける重い弾丸も、冷たい悲鳴も、もはや感じなくって、目の前に広がるあの世だけを歩き続けた。
 揺らめくネオンと人の海を漂い、徐々に一通りの少ない住宅地の中に足を踏み入れていた。  
 ここまでくれば、もう安心してもいい、あとは、車に気を付けながら、真っ直ぐ家を目指せばいい。もう家は目の前にあるじゃないか。
 家に付けば、家に付けば、そのあとは。その後は・・・・・・。
 「ああ・・・・・・。」
 目眩の波でもなく、打ち付ける弾丸でも無く、冷たい悲鳴でも無く。
 何も僕の意識に触れるものはない。自ら、崩れ去った。
 目の前には、ミクの体を入れたスポーツスバックが水たまりの上に浮かんで、ただ僕は立ち尽くしていた。
 体が天を仰ぎ、意識と共に水の中に沈む。
 ミク、ミクは?
 ミク――
 

 ◆◇◆◇◆◇
 
 
 「あー、ゴール直前でダウンかー。」
 呟くと、待ってましたとばかりにランスが運転席から飛び出した。
 この雨の中、傘もささずによく外に出られると呆れつつも、私も濡れることを承知で車から降り、彼の元に寄った。
 その足元には、一人の青年が黒いバックを抱きかかえうずくまっている姿が車のヘッドライトに照らされていた。まるで胎児のように縮こまり、意識を無くしている。
 「しかしまぁ、よくやるね。体調不良で寝込んでたって聞いたけど。」 
 いかにも他人事のようにランスは呟いた。
 その態度を前に、何故か私の眉間には皺が寄りランスの横顔を睨みつけていた。
 彼の性格は常に変わらない。ランスは、表裏の無い人間。
 半年ほど、共に仕事を続けている中、私はそんなことを気にするつもりは微塵もなかった。今までは。
 仕事の一段落を祝いランスの車で外食に出かけていた所だった。
 この豪雨の中、見覚えのある人物を見た。
 その人物は昨日、私がランスと共に訪れた研究室にいた、網走博貴という名の研究員だと、ランスはすぐに言い当てた。
 スポーツバックを抱える彼の姿を見て、それがどういう行為なのかを勝手に決め付け、大いに興味を持ち、外食に行く筈が一転、一人の青年の備考となった。
 彼が体調不良で倒れたと言う事実、そしてミクと呼ばれていた試作品に我が子のような愛着を持っていたことを知りながら、ランスは遠目に彼をつけ回した。
 私は下らないとも感じることはなく、呆れてもいなかった。
 ただ横目にランスを見つめていた。胸中に黒々とした感情を積もらせて。
 今までランスと馬の合う事など一度もなかった。だが同時に嫌悪もせず、抵抗もしなかった。
 だが、この時ばかりは、私の意志はランスの行動を否定したのだ。そして今尚。
 「どーするよ。このままほっといたら死ぬかも。」
 ふざけ半分の問い掛けに、私は答えない。私にそんな義務はなく、今のランスに答えをもらう資格がない。
 無言に対し、ランスは私の顔を伺い小生意気に鼻を鳴らした。
 「ま、せっかくだし、こいつはお持ち帰りっと・・・・・・。」
 ランスの手がバックに伸び、外からの感触で中身を検めた。
 「アタリだな。」
 「待ちなさい。」
 無造作に、私の言葉がランスの行動を御した。
 「あ?」
 「急ぐことはありません。今ここで博士を見捨て、彼女を持ち去れば、問題になるでしょう。」
 そう告げると、流石にランスも眉を潜めた。
 「もっと面白い考えがあるのかね。」
 その問いにも答えず、私は雨に濡れ冷たくなった網走博士の体を肩に担ぎ、空いた手にバックを持った。
 「ここでの事は・・・・・・。」
 呟きながら視線を巡らすと、目の前の家に博士の性が書かれた表札が見えていた。
 「見なかったことにします。ご協力を。」
 「・・・・・・物好きだな。大佐。」 
 ヘッドライトに照らされたランスの顔が、また鼻を鳴らした。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

Eye with you第六話「雨」

第一作に出てきた人と同じ

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閲覧数:169

投稿日:2010/03/16 23:05:39

文字数:3,412文字

カテゴリ:小説

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