桜が咲いた。

まだ七部咲き程度ではあったが、それは見事なものであった。
その見事さを伝える言葉など無いだろう。
そして、桜は満開を迎えた。
その素晴らしさは、言葉などという陳腐な枠に嵌るようなものでは無かった。
そう、宮廷中の人間が押し寄せて、我先にと言わんばかりに美しかったのだ。



それはそれは巨大な老樹であった。
これまでの人生の全てをこの時に費やしたのではなかろうかと思えるほど、
年老いた樹であったのだ。
きっと、町中の年寄りを集めたところで敵いはしないであろう。
ほんに見事な樹であった。


しかしそれもまた一時のもの。
見事なだけに、散り逝くときが惜しく思われたのだ。
とは言え、定めは変わらぬ。
やはり儚く散り逝くその時を待つしかなかったのだ。


皆、何も言わなかった。
天へと枝を伸ばすその樹を見つめては、その老樹が見たであろう夢に思いを馳せるしかなかったのだ。
ああ、しっかりと覚えているとも。
皆、あの老樹の下で眠ったのだ。
儚く散り逝く花々と共に、眠ろうとしていたのだ。


そうだ。覚えているとも。
その姿は淡い薄紅に染まり、霞んで見えなくなっていくようであった。
老樹は皆の夢の為にその身を投げ打ったのだ。
ああ、美しかったとも。


老樹は二度と色付くことは無かった。
そして皆もまた、目覚めることは無かったのだ。
ああ、あの樹は彼らに永久に目覚めぬ夢を見せたのだ。
その全てを投げ出して。


彼らは夢から戻っては来ない。
いや、それが夢か現かは分からぬままであるが。
故に、私はここで待っているのだよ。
彼らがまた、この現へと
否、
夢の中へと還って来るのを待っているのだ。



少年、君に分かるかね?



そういって翁は微笑んだ。
その身体もまた薄く向こうが透けて見えていた。
僕は小さく『分かりません』とだけ答えて、目の前の巨樹を見つめた。
また、


満開の桜しか見えなくなった。

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夢桜の話

『悪ノ娘 緑のヴィーゲンリート』読み終えました。
とてもおもしろかったです。
記念とまでもいかないんですが作中に出てくる、エルドの樹をイメージして書きました。
緑のヴィーゲンリートとは内容全く異なりますがねw;

閲覧数:111

投稿日:2011/09/19 20:20:23

文字数:817文字

カテゴリ:小説

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