アンブレラン
傘は、嫌いだ。どうして拒まなければならないのだろう。この空虚な頭に降り注ぐもの―塩分濃度の高すぎるだれかの涙、または日差し、またはずしりと重たい結晶の数々。きっとすべてに意味があるはずだ。たとえそれに気づくまでに大きすぎる歳月、時間が必要だとしても。だというのに、ただ急くだけ急いて、考えることは打算的なことばかりだなんて、あまりに勝手すぎるだろう。なぜってそれは時間軸、もしかすると自転軸までをも自分自身だと思い込んでいるんじゃないか、そんな気がしてしまうから。こんなちっぽけな脳みそでできることなど、やっぱりちっぽけなものなのだ。だから、私は傘が嫌いだ。自分の頭の上で、その大きさよりもはるかに面積のあるひだを、無数の無機質な腕でめいっぱい広げる、この遮蔽道具という存在が。
しかし皮肉にもその人は名前を傘、といった。
その日の夜も真っ暗な部屋は乱れた呼吸と鼻を突くような精液の匂いに満たされていた。思えばずっとそうだった。そのせいであえぎ声と、痛みによる涙はもうすっかり出尽くして、私の喉と目尻のあたりは完全にひからびていた。けれど口と膣だけは飽きもせずひたすら潤いつづけていた。
傘、は私の耳元で時折年老いた猫のように、いびつな、ヒュー、ヒュー、という呼吸をしていた。しかし、それが彼の歓呼の声だった。彼は聾唖だった。
「気持ちいい?」
息と息の合間でやっと絞り出した言葉は、当然彼の耳に入ることはなかった。しかし彼は、まるで私の問いかけに応えるように、不規則な腰の振りをよりいっそう激しくした。そして2人で寝るには小さすぎたベッドはあらん限りの音を立てて軋んだ。それはまるで悲鳴だった。私の意識は、ベッドの上げるキイギイという悲鳴をバックサウンドに天国と地獄を行ったり来たりしていた。
何分間そんなふうに上下運動をしていたのだろう。だいぶ遠のいていた意識のなかで、私はじうと身の焼かれるような熱を感じ、再び天国と地獄のあいだへと帰ってきた。中で傘、が射精したのだった。彼の体は潤いすぎていたらしい。
膣から溢れ出た彼のきらきらと乳白色の光を放つ星屑たちは、しばらくのあいだシーツの上を跳ね回っていた。私は傘、の尖り出た肩甲骨にぎうとしがみついた。っはあ、っはあ、という犬のような息づかいは、もはや双方に混じりあってどちらのものなのかまったく区別がつかなくなっていた。
絶頂、を迎えると私たちはお互いの唇を夢中になってまさぐりあった。傘、の舌は普段は寡黙だったが、この時ばかりは意志を持ち、はっきりとした躍動を見せた。それに絡みつくように私の舌も走っていった。まるでそれは私の体に付属した一種の魔物のようだった。
「あいしてる」
それは本能であり、台本にあるようなお決まりの台詞だったけれど、同時に私の口の中にいがっぽい何かを含ませた。
私の口にくっついていた魔物が私の舌として戻っていったことに気づいた傘、は、ゆっくりとその唇を私のそれから外した。そして彼もまたいつもの寡黙な傘、へと帰っていった。
しかし私たちはしばらくそのままの状態で抱きあっていた。時折下腹部がじんじんとした快楽を訴えたが、そんなことは無視しつづけた。傘、は私の左肩に顎を軽くのせて、荒かった息を整えているらしかった。そこから伝わってくる温もりは、何が、というのは伏せたままに、ただここに何か、が存在しているということを私に染みこませるように教えていた。それだけはどうしても無視しきれなかった。枯渇していた泉から汚濁した水が湧き出るように、私の両の目からは涙が溢れ、それは目尻を伝って耳の方へと下っていった。その生温さに気づいて、傘、はシーツの上にあった自分の左手で、私の右頬にそっと触れた。そしてそれは私の涙なんかよりもよっぽど温かくて、かさかさとしていた。
「あのね、さっきの、」かすれた声で呟いた。
「あれ、嘘だからね」
傘、の表情は、部屋の漆黒の闇に溶けこんで、伺うことはできなかった。そもそも灯りをひとつもつけないことを望んだのは彼だった。彼にとって耳が聞こえない上に視界までもが奪われるというこの状況は、限りなく死の世界に近いものだった。そこでセックスすることで彼は生きているという今の状態を彼自身に克明に刻みつけていたらしい。私と彼とでは生きている世界があまりに違った。しかしそれがたとえどうであれ、彼の望んだ暗闇はそのときの私にとってちょうど良い隠れ家となっていた。
きっと困ったような表情をしているであろう傘、の首に私は両の腕を回し、しっかりと彼を抱きしめた。彼もまた私の鼻筋のあたりに軽く口づけすると、頬と頬とをくっつけるようにして、私にされるがままそれに応えた。やっぱり彼の耳には私の嘘もほんとうも届いてはいなかった。そんなことはわかりきっていたことだった。
私は悪いひとなんだろうか。流れ落ちていく偽善、はまるで止まることを知らないようにみえた。そうして私は何かがうごめく、しかし静かな暗闇のなかで、静かに涙を流していた。それでも自然と謝罪の言葉は浮かばなかった。ああ私は最低なんだ。そう思った。
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