いつか、この日、この場所で、二千Mをもう一度
『夏と二千M』
「五十Mアップが終わった者から二千M。終わったらダウンの五十Mで終了だ」
僕らは熱い夏のプールサイドに直立しながら「はーい」と返事をした。
夏休みの水泳部というのは、実は暇だったりする。特に僕らのような弱小水泳部だとなおさらだ。
総合体育大会、つまり総体は一学期後半の七月にあり、県総体で敗戦すれば水泳部にとって夏休みというのは自由自適な時期に過ぎなかった。
練習内容も六月に比べれば、緩くなるのは必然だ。
確かに二千Mというと、二十五Mプールで八十回も泳がなければならない。
だけど、陸上部なんて毎日二十KMも走るのだ。それに比べて二千Mはたかが二KM。しかも休んでもいいわけだから、かなり緩い。
だらだらと泳ぐ奴もいれば、フォーム研究する僕のようなのもいるし、先生が居ないからという理由で千Mほど泳いで帰ってしまうやつもいる。
だけど、中学二年の夏だけは違った。
飛び込み台に視線が集まる。一人の少女に、その場にいた水泳部員全員が注目した。
美しい飛び込みのフォーム。軽く反動をつけると、その体はばねのように飛び出した。
理想とも言える入射角で水中へと入り、二、三回ドルフィンキックをして、潜水のまま25Mを泳ぎきり、体を回転させて、一番力がこめれる距離で壁を蹴る。
ようやく、彼女の体が浮いた。白い競泳帽、青のゴーグル、黒に水色のスリットの入った競泳水着が水面を流れるように移動する。一回目の、息継ぎをしないバタフライ。二回のドルフィンキックに一回のバタフライのペースを守りながら、たまに息継ぎをする。脅威の肺活量だ。
トン、と壁に彼女の手が付いた。これが、アップだと誰も気付かなかった。
「まるで、本物のイルカのようだね」
僕は思わず呟いた。それほど、彼女の動きには無駄が無く、美しかった。
だけど、隣に居た僕の友達である勇次はこう直した。
「んー、ありゃ背も胸も無いから、イルカっつうよりもカワウソだな」
確かに。
こうして、彼女の存在を感じながら夏休み一日目の部活は終わろうとしていた。
僕は道具長という役なので、皆を送ってからが仕事の時間だった。
だけど、カワウソ――師田さんは、既に二千Mを泳いでいるにも関わらず、まだ残っていた。
「師田さん。もうそろそろ終わりにしない?」
僕は少し大きな声で呼びかける。師田さんはその場で泳ぐのをやめ、僕がいる近くのプールサイドに上がった。
「速いね」
「……」
相変わらず無言のカワウソさん。
「でも、なんかつらそう」
「――何が?」
彼女が初めて喋った。しかも語気がかなり怖い。
「いや、なんとなく、だけど」
僕はその感想を『なんとなく』に押しとどめた。そして、僕は彼女が帰るのを見送った。
今年の県総体は波乱の連続だった。
まず、僕が自由形百Mで準決勝にまでいけたこと。
僕は決して体が強い方ではない。冬の基礎練習で最後に残るのはいつも僕だった。
だから、僕は研究した。一番楽で速い、つまり水の抵抗を受けないフォームは何か。その研究の結果が出たのだ。
だけど、そんな自信を吹き飛ばすほどの驚きが水泳部に広がった。
水泳部には、クラブ組という派閥があった。
この町には大きなスポーツジムで水泳を専門的に教えるクラブがあり、実力は折り紙付きで毎年全国区の選手を輩出しているくらい有名なクラブだ。
そのクラブが県総体などに参加するために、水泳部に入部することがよくある。これがクラブ組。
カワウソ――師田葉子さんもその一人で、今年、全国出場確実と言われた選手だった。
そのカワウソさんが、決勝を棄権した。理由は体調不良――夏バテによる栄養失調だった。
数日後、彼女はクラブを辞めた。
なのに、彼女は二日連続でプールに来ていた。
しかも僕の隣のレーンで泳いでいる。さらに僕のスピードに合わせているらしい。
泳ぎを平泳ぎに変え、僕はカワウソさんに話しかけた。
「あのー、師田さん?」
「何?」
師田さんも平泳ぎで頭を出し、僕の方を見る。
「なんで僕の横にというかなんで合わせているのですか?」
「何か問題?」
その言葉に何も言えず、結局、その状態はずっと続いた。わけわからん。
皆が千Mを泳いだ頃を見計らい、比較的涼しい場所(ポンプ室)に置いていたドリンクを入れたボトルを取り出す。
「休憩だよ」
僕が言うと皆わらわらとプールから出てボトルを取りその場でゴクゴクと飲む。
たまに僕が作るドリンクはなかなか好評のようで、これを飲んでから帰るサボリ組もいるくらいだ。
何事かと見回す師田さん。僕は二つボトルを持っていき、一つを師田さんに渡す。
「どうぞ」
「何これ?」
「特製ドリンク。まあ既存の粉状スポーツドリンクに蜂蜜、レモンとすりおろした生姜を混ぜたものだけど、おいしいと思うよ」
「ふうん」
興味なさそうな顔で、ボトルに口をつけゴクリ、と一口飲んだ。
「……おいしい」
びっくりを通り越して、何これという目でボトルをまじまじ見るカワウソさん。そして、その中身をゴクゴクと飲み干した。
道具がちゃんと所定の場所に戻されているか、数はあっているかチェックをして、倉庫のドアに鍵をかける。
プールサイドに戻ってくる時に足を水に浸けていた師田さんを見かけた。学校指定の体操服姿だった。
「君は、いつもこんなことをしてるの?」
「こんなこと?」
「マネージャーのようなこと」
「ああ、ドリンクはたまにだけど、そうだね」
「何で?」
「何でといわれてもなぁ。ただ好きだから」
「私も水泳は好きだけど、好きでもここまでしない、と思う」
「やっぱり変?」
「変じゃないけど、なんと言うか」
「昔ね」
その話の流れを僕は一言で変えた。
「僕、重度の喘息だったんだ。肺の空気がなくなるまで咳をするくらいに。それで水泳をやれば治るかもしれないと言われて、水泳を始めたんだ」
治療目的のために始めた水泳は、僕に初めての運動の自由を与えてくれた。
「結果は見事で、一年もせずに喘息は治って、僕は水泳を好きになった」
好きになるのは、必然だった。
「その好きな水泳を皆で楽しめるなら、僕はずっとこんな役でもいいなと思ってる」
水泳を好きになってほしいから。
「だから、師田さんがおいしいって言ってくれたの、すごくうれしかったよ」
ばしゃばしゃとすごい脚力により、水面が波打つ。少し小さな声で、師田さんが僕に向かって言った。
「ねえ、私も、その、楽しめるかな?」
僕は笑いながら答えた。
「それは、師田さん次第」
そっか、と少し笑うカワウソさん。
「そういえば、君の名前は?」
確かに、クラブ組だった彼女が僕の名前を知っているはずが無い。
「伊形旋風。皆はつむじーとかつむくんとか呼んでる」
「じゃあ私はつむじって呼ぶね」
僕は、師田さんの笑顔を初めて見た気がした。
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