林檎──。それは赤い実のことで、私は幼いころからそれが好きだった。私はそれ一つ一つに表情があるような気がして、いつも食べる前に表情を確認していたのを今でも覚えている。
ああ、この子…泣いてる。
私は今でも林檎の表情が見えるような気がして。その林檎を慈しむように優しく撫でた。
君が笑ったのが見えた。もちろんそれは私の頭の中で。
君はあの透き通る波が好きだった。私も好きだった。
君の笑顔は透き通る波に、まるで浸透するかのように静かに飲み込まれてゆく。
抗うことなくそれをまぶたの裏に見て、私は目を開いた。
とたん、母さんが私を呼ぶ声が聞こえた。
「なにー?」
私が返事をすれば、母さんは「ああ、ここにいたのね」と優しく笑った。
「どうしたの?」
思い出に浸っている私を、母さんが用もなしに呼ぶことはない。
「あのね、ちょっとお買い物、頼まれてくれない?」
そう言う彼女は私と同じくらいに見えるほど、かわいく笑った。すでに母さんの手にはメモが握られている。──おそらく、買い物メモ。
「いーよ、そのメモちょうだい」
「ふふ、ありがとう」
私はメモを見て、少し嬉しくなった。この食材を揃えるには『あの道』の向こう側のスーパーが最適だと悟ったから。
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい、気をつけてねー」
「はーい」
初夏の青空は、澄んでいた。『あの道』がここから、はっきりと見えるほど。
あの道を渡れば、君の泣き顔を思い出す。でも不思議と嫌な思い出ではない。今はお昼なのに、記憶の中の君の泣き顔は見えない夜に静かに飲み込まれてゆく。
買い物を終え、私は少し傾いた日に目を向ける。道行く人の影が揺れて、あの日君が影を怖がっていたのを思い出す。君を抱きしめて、君のぬくもり感じて。静かに飲み込まれてゆく──あの日の夜中と朝の狭間の空間に、私はひどく安心した。
君に見えない痕があると気がついたのは、影に怯え震える君を抱きしめた次の日。隠し通してきたんだね、と私は君の頭を優しく撫でた。
前日と同じように君を抱きしめた。そして前日に戻ったように、あの狭間で静かに飲み込まれてゆく──あの感覚に身をまかせた。
零れ落ちた、君が好きだった波に弧を描く見えない哀しみは、君の涙で。
拳を握りしめ、己が悪いのだと自らを責める君を見て、私は首を振った。何度も何度も。違うのよ、と。
私が君を見つけたとき、君は独りだった。そして、私も君と同じように独りだった。そっと「私が君に寄り添えばふたりだね」と笑ったのに対して、君は「うん」って頷いてくれた。すごく嬉しかった。
だけどあのときの私はまだ子供で、何度も君を傷つけてしまった。
君を愛して溺れた愚かな私。
君に言いたいよ──「ごめんね」って。
焼けつく炎は、突然に君のすべてを奪った。「次は君が叫べばすぐに駆けつけて、私が静かに消してあげるよ」って言った。
眠れない夜が苦手な君。「焼けつく炎に襲われるの夢を見そうで、怖いんだ」って、君が初めて弱いところを見せてくれたよね。「そんな夜は傍らで、私が静かに寝かしてあげるね」って心からの言葉だった。
明るくなる朝は、君の嫌いな叔母さんが起こしに来るんだったよね。だから「見つからないように、静かに消えてあげる」って約束した。
痕を隠して必死に生き抜く君が愛しくて、私は君に優しい言葉をかけた。
「君が呼べばすぐさま静かに現れてあげる」──そんな私の一言で、安心したような笑みを見せてくれた。
零れ落ちることなく、必死にこらえた見えない哀しみは──心の悲鳴。
君が固く握った拳を開いて「君は悪くないよ」と私は君を撫でた。
私が君を見つけたとき、君はいつも笑ってた。そして私も君につられて笑ってた。でも僕が寄り添ってから君の泣く回数は、増加してしまった。
君を傷つけることでしか愛を表現できなかった愚かな私は、それに溺れてしまっていた。
零れ落ちる──君の涙をぬぐうことはもう出来ない。
己を大事に労る心、身につけた君には私はいらない。
君はもう強くなった。私が君を見つけたときより、ずっと。私がいなくても…、君は強い。
君を傷つけて君を愛して、それに溺れた愚かな私は、君に傷つけられて君に愛された。
私と同じように溺れた愛しい君に伝えたいよ──「さよなら」って。
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