俺が薫さんの家に滞在するようになって二週間がたった。足の方は順調に回復しているようで、渡会医師いわく「そろそろ歩いてみてもいい」とのことらしい。
 その渡会医師についてだが、相変わらず俺に対しては常に不機嫌そうな感じでことあるごとに突っかかってくる。まぁ、俺がそれだけ人間として未熟だということらしい。その評価に関しては甘んじて受けるしかないだろう。なにせ俺はヤマトダマシイの一つも学んでいないのだから。
 薫さんはそんな俺と渡会医師のやり取りを時には微笑んで見ていたり、時にはとりなすように計らってみたりしている。
 そんな二週間ではあったが結局あれから一度も薫さんの病については聞かなかった。と言うよりも、聞くことができなかったと言う方が正しいのかもしれない。そもそも、薫さん自身が自分のことを話すことはなかった。たぶん、自分のことを話すのが苦手なのだうろ。それに、薫さんと過ごす日々はとても楽しく、そのことを話してしまえば、楽しそうに笑う薫さんが見られなくなる気がした。
 なんとなく俺はふすまの方を向いた。ふすまの向こうには診断中の薫さんと渡会医師がいる。薫さんの病はどんなものなのか、それを俺が知る日は来ない方がいい気さえした。
 ふと、耳に心地よい笛の音が聞こえてきた。あまり聞きなれない音色だったが、体の内まで響く不思議な音だった。その笛の音に続くように太鼓の音も聞こえてきた。ここにきて初めて聞く。何か特別な催しものでもしているのだろうか。
「どうです? 御神楽の演奏はきれいでしょう?」
 突然耳に入った薫さんの言葉に俺は一気に現実世界へ引き戻された。あまりに聞き入りすぎて薫さんの治療が終わったことに気がつかなかったようだ。
 ふすまを開けて、薫さんが俺の部屋に入ってきた。先ほどの考え事のせいか、そのつもりはなくとも薫さんの顔色を確認してしまった。やはり、二週間前と比べても少しやつれた様にも見えるし、血色も良くないように見える。
 俺は自身の行動が悟られないよう、さっと薫さんから目線をそらして部屋にあるろうそくの灯を見た。何となくその火影が嫌な雰囲気をもっていた。
 浮かんだ考えを振り払ってから、俺は話を続けることにした。
「えぇ、なんだか体の奥底まで響いてくるきれいな音ですね。今日は何か催しものでもあるのですか?」
 薫さんは俺の質問に少しだけぽかんと間を開けた。そしてすぐに、何かに納得したかのように「あぁ、そうでしたね」と苦笑いしてから俺の質問に答えてくれた。
「村の神社でお祭りをやっているのです。それの中に神楽がありまして、たぶんその演奏をしているのだと思います。すみません、伊波さんがなんだかずっと前からいる人のような気がしてしまっていたものですから」
 そう言って軽く頭を下げたのち薫さんは縁側の方へ足を進め、その演奏に聴き惚れていた。俺は薫さんにそう言ってもらえることを単純に喜んでいたが、それを言葉にすることはしなかった。せっかくの演奏を邪魔しては悪い気がしたからである。
「この笛の音は父の笛の音なんです」
 俺に言ったのかどうかもわからないような感じで薫さんは言った。その目線は、月明かりに照らされた少しずつ色づき始めている庭の桜の向こうへ伸びている。
 布団の上で足を伸ばして座っている俺には、彼女が何のためにそこを見ているのかも、本当にその言葉が俺に向けられているのかもわからなかった。だから、どうしても黙ってしまう。
 薫さんは俺の反応に何か期待していたのではなかったらしく、そのまま言葉を続けた。
「うちの家はですね、代々この土地の神職でして、私も本来はこの祭りで演舞をするはずだったんです」
「そう……ですか。それは……なんと言うか残念でしたね」
 薫さんの実家が神職であったことは、二週間目にして初めて知ったことではあったが、別段驚きもしなかった。まずもって、ある程度何らかの特別な地位の家柄だという予想はしていたし、何よりも、本気で薫さんが神楽を踊れないということを残念に思い、そちらに意識がいったからである。
 俺のその同情の言葉を薫さんは首を振って拒絶した。
「いえ、私は仕方ないのです。自分の責任ですから。それよりも、兄の方が……」
「えっ? お兄さんですか!?」
 どういう心境の変化だろうか、今日の薫さんは多くを語ってくれる。それが、そこはかとなくうれしかった。
「言っていませんでしたね。私には二人、兄がいるのです。私と歳の大きく離れた方の兄はあそこで父と一緒に演奏に参加しています。でも、もう一人の兄は戦争に……兄は何もしていないのに、いきなり召集されて…………戦争なんてなくなればいいんです」
 深く刺さる言葉だった。軍人である俺にとって、どんな言葉をかければいいかわからなかった。
 薫さんの表情は周囲まで凍らせるような冷たい印象を持っている。
 しかし、俺はなぜかこんな不躾な質問をした。言い訳をしてもよいだろうか。彼女の冷たい表情は一方でさみしそうな表情でもあった。きっと大切な人なのだろう。だから、俺自身、その人がなぜだかうらやましく、会ってみたいとも思った。
「その、お兄さんは生きていらっしゃるのですか?」
 この質問をしたことを俺は後悔しなかった。なぜなら、薫さんの顔は少し温かみを取り戻したのだから。
「えぇ、きっと。だって、神社の人間ですもの。死んでは困ります」
 戦場では人は等しく死ぬ。たとえその人がどこの生まれで、どんな人生を送ってきたのかも関係なく。そう、俺がこの前撃墜したニックの搭乗者二人も、生前多くの善行を積んできたのかもしれない。それでも、何も特別なことをしてきたわけでもない俺なんかに殺された。
 その、無慈悲な現実を薫さんは知っているのだろうか。
 そう思うとつらくなって俺は目を薫さんからそらし、うつむいた。
「……伊波さんも軍人でしたね。気を悪くしたのならすみません。こんな自分勝手な人間だから神々に愛されず、病に侵されてしまったのでしょうね。あはは」
 力なく薫さんは自嘲した。俺はうつむいた顔を上げることはしなかった。きっと薫さんは今の表情を見られたくはないだろう。勝手にそう思って、顔は上げなかった。
 薫さんは続けた。
「伊波さんは優しいですね。ついでに聞いてくれますか? 聞いた話ですと私の病、米国に行けば治るそうなんです。……おかしいでしょう? こんなに嫌いな戦争を日本としている相手の国に行けば治るだなんて。私、前世で何か悪いことをしたみたいです」
 俺はおもむろに立ち上がった。そして、薫さんの横に立ち、そのまま、薫さんの小さな肩を抱き寄せた。そうしなければならない気がした。
 もしかしたら、俺はこの人を、薫さんを救うことができるかもしれない。むしろ俺にしかできない。そう感じた。
「ならきっと、大丈夫です。こんな戦争すぐ終わります。ですから、アメリカで治療して下さい。お兄さんも大丈夫です。ほら……空、見てください」
 俺が指差したのは秋の済んだ気持ちのいい空。俺はこの空に何度も救われてきた。
 空を見上げて薫さんはそっと呟いた。何か空の向こうに語りかけるような口調だった。
「悲しみは空に消えるだけ……」
「そうかもしれませんね……」
 そのまま、俺と薫さんは寄り添ったまま御神楽の演奏が終わるまで耳をすませ、二人で空を見続けた。
 アメリカ人と日本人。戦争をしている国同士だが、わかりあえるのはそう難しいことではないのかもしれない。

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紅一葉―4―

9月分の「紅一葉」
その4

閲覧数:77

投稿日:2010/10/01 01:44:39

文字数:3,094文字

カテゴリ:小説

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