アンブレラン


 その日も暗い天井は湿り気を帯びた騒音で満たされていた。舌のつけ根の辺りから漏れ出るようなあえぎ声と、いろんな体液が混ざりあって共鳴する音、それに、ベッドの痛ましげな悲鳴。音だけじゃない。部屋中、整髪料や、テーブルの上のアロマポッド、それに精液と汗の匂いでいっぱいだった。わたしの五感はすべて全開、なんだか脳みそがぐちゃぐちゃになりそうだった。大丈夫、と彼は荒い息の合間に言った。それはわたしに対する問いかけと、自分に対する言いきかせの二通りの意味を持ちあわせているようだった。大丈夫、とわたしは復唱した。でもそれは掠れすぎて、自分でもよく聞きとることができなかった。咳払い、そしてわたしは彼の顔を見上げて笑いかけた。
「アメイジング」
 なんとかして大丈夫、の代替物を喉の奥から取りだしてみた。案外悪くはないかもしれない。アメイジング、と彼もわたしの言葉を復唱して、笑った。
 そのあともまた騒がしい沈黙のなかでベッドは揺れつづけた。快楽と鈍痛とは、彼の不規則な腰の振りにあわせてやってきた。潮の満ち引きみたいだ、と暗闇の中に引きこまれていきそうになる意識のうわずみに言葉を浮かべた。それらは水面をただよう落ち葉たちのように意志のない上下運動を繰りかえし、やがてすうっと消えていった。なんの余韻も残さずに。

 「ひとつ、いい?」
 彼が言った。どうぞ、とわたしは言う。彼はベッドサイドの小さなテーブルから個包装になったあめ玉をひとつぶ取った。スタンドライトの淡い黄色の光は、どうやらそれがコーヒー味であるらしいことを教えていた。ちゃかちゃかという音を立てて彼は袋をやぶって、中身を口に放りこんだ。コーヒーの、しかし甘ったるい匂いがぷうんと鼻の先をくすぐった。そこでわたしは彼が甘いものが苦手だったことを思いだした。そういえば、と言いかけたとき、ちょうど振りかえってこちらを見た彼の視線と視線がぶつかった。あ、と思ったか思わないうちに口が塞がった。それから上顎の歯と下顎の歯の間から、まだ大きなあめ玉が、彼の唾液とともに転がりこんできた。それはやっぱり甘かった。
「甘い」彼は言った。
「あたりまえでしょう」わたしは返した。あめ玉が奥歯に当たってからん、という音をたてた。「アメなんて砂糖の塊なんだから」
 コーヒーならまだ苦いからいけると思ったんだけど、と彼は後頭部をがしがしとやりながら言った。でもやっぱりそうだよなあ。
 わたしはため息をついて、小さくなりかけていたあめ玉に歯をたてた。がりり、という音が聞こえた。
 ベッドから立ち上がる。すると足が菜の花に吸い寄せられるモンシロチョウのようにふらふらと窓際へ動いていった。閉め切っていたカーテンをめくってみると、白く鋭い日差しがわたしの裸の胸や瞳を射た。痛い、と思う。なんとなく苦笑いしながら、わたしはベッドの方へと戻っていった。モンシロチョウ、というよりかはなんだか裸電球に吸い寄せられていってばちんとやられた蛾のようなかんじだ。彼も一瞬だけ差しこんだ光に辟易したようだった。顔を少ししかめつつも、口元や目許にはやっぱり苦笑いを浮かべていた。
「リアルの世界はわたしにはちょっと刺激的すぎるみたい」
 彼の横にぴったりと寄り添うようにして、わたしは言った。彼は面白そうに笑った。それから言った。
「たしかに、擬似的な夜のほうがきみは随分と元気な気がする」
 擬似的な夜。わたしは思わず復唱した。虚無という名のちょっとしたスパイスが利いた、夢やロマンという名の甘美で切ないメロディー。そんな雰囲気をまとっている言葉だった。なんて素敵。わたしは彼を強引に押したおし、その首もとに絡みついた。彼はふざけてきゃあと悲鳴をあげた。楽しくなってそのまましばらくベッドの上をごろごろと転げまわった。問題はベッドがあまりにも小さすぎて、2回もごろごろとすれば完全に床に落ちてしまうということだった。そうなるとわたしたちはそのまま床の上でバカみたいに笑いころげた。彼もわたしも毛玉のようにいっしょくたに絡みあって、まるで小さな子供同然だった。

 彼について話そうと思う。
 彼は名前を傘、という。実のところ傘、とはわたしが勝手につけた名前で、実際の彼の名前はものすごく長い。というのも彼は異国の人なのだ。とあるカトリック圏の国出身の彼は、まるで真夏の夜のミルキー・ウェイのように長くてきれいな名前を持っていた。なのにわたしはあえてそれに抗うような漢字1文字の名前をつけた。なぜってその理由はごく簡単だ。彼の名前がどうもしっくりこなかったからだ。人の名前をとやかく言うのは倫理的にどうかとは思うけれど、彼の家族や友人が使うあだ名はわたしにはちょっと発音しづらかったし、かといってわたしが彼の名前の一部から抜粋して別なあだ名を作るというのもまた至難の業だった。加えて、これはちょっと自嘲せずにはいられないのだが、彼の正式名称はわたしにはあまりにも清らかすぎた。表記してあるそれを見るのも、人が発音しているのを聞くのも、なんだか眩しすぎて、思わず辟易してしまうのだ。でもそれは、その彼の正式名称がもつ輝きは、今考えてみれば彼自身だった。わたしが傘、という名前をつけたことで、彼はわたしのいる擬似的な夜の淵に引きずりこまれてしまったんだと思う。もしくは、わたしがほんとうに彼を傘にしてしまったのかもしれない。わたしの擬似的な夜を作る担い手に、わたしが勝手に彼を任命してしまって、それで彼はいつもわたしの天井を、窓を、覆ってくれているのかもしれない。リアルの世界という滝のような雨を遮るために。
 彼は名前のほかに仕種や容貌、身の丈まで、全身のあらゆるものすべてに異国情緒を醸していた。彼の額はわたしたち日本人が持つそれより数十度の勾配で瞼に差しかかり、その奥に潜む杏仁形の両眼は、奥行きがあるにも関わらずまるきり陰がなかった。そしてそこを数ミリ下るか下らないかというところで当たるのが高すぎる鼻である。眉間の途中からはじまる、つるりとして、猛禽類のくちばしのように先端が少し折れ曲がった彼の鼻は、彼の顔の中ではおそらく最も重々しい存在感を放っていた。そこは同時に彼の顔のパーツの中でわたしが最も好きな部位のひとつでもあった。でもなんと言ったっていちばんのお気に入りは、あの杏仁形の両眼のすぐ脇にできる3本の笑い皺だ。彼の顔は全体的に起伏が激しく、それゆえに難しそうな印象を与えがちだが、この3本のおかげでそれが一気にふっと吹き飛んでしまうのだ。彼が笑うと、今まで鷲や鷹のようなウサギやネズミを捕らえて食らう側に立っていたのが、とたんに捕らえられる側の可憐な愛らしさをたたえはじめ、その急変化に拍子抜けして、みんながみんな笑顔になる。このスマイル伝線現象をひとりでにつくってしまう彼がわたしはとっても好きだった。
 また、彼にはやっぱりその風貌からは想像もつかないような憎めない癖がいくつかあった。たとえば、わたしと話すときの彼はいつもわたしの右のてのひらを弄んでいる。そう、決まって右なのだ。彼はわたしと話すとき、あまり目を合わせない。でもたまにふと気がつくと彼はわたしの瞳をじっと覗きこんでいたりする。そんなときはちょっとどきっとする。それから思いがけず彼の瞳の色があまりに澄みすぎていることに気づいてしまったりする。そうなると目をそらすのはいつもわたしのほうだった。すると彼は決まっておかしそうに笑った。わたしもきまり悪くなって笑う。けどそのうちいつの間にかいつもの調子で笑っている。そうやってわたしはいつも彼のスマイル伝線現象に巻き込まれているのだ。
 幸せだった。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

烏骨鶏と宿便みたいな恋。第一章 アンブレラン

パソコンからデータが消えるのが怖くて(最近パソコンが急に落ちたりするのが多くなってきたことによる懸念)ネット上に移して保管しようとしているところです。
この話はざっくり言えばイタすぎる女の子のはなしです。きっとわたしの読者さんはあまり多くないと思うのでネタバレしてしまいますが、この章に描かれたことは全てこの女の子の妄想によるものです。この女の子は、妄想することで、辛い現実を生き抜こうとしているのですが、作品ではこんな生き方が果たして正しいことなのか?という根本的な疑問を投げかけていきたいと思っていました。

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閲覧数:77

投稿日:2015/01/15 21:02:22

文字数:3,164文字

カテゴリ:小説

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