三月三日
彼と有楽町で映画を見る。腐れ縁とはこのこと。わたしはもう彼と一緒にいることに、何の感興も覚えない。だけどわたしは、他人が羨むようなブルジョアの娘で、何もすることがないし、他に誘ってくれる人もいないし、アルバイトの口もなければ、彼と会う以外に仕方がない。つまり暇つぶし。
スイスという西洋レストランは、なんて汚いのだろう。ビルとビルの間に挟まれて、改築のできなくなった陋屋だ。銀座にこんなお店があるなんて。床も板の間だし、二階なんか、窓枠もテーブルも傾斜している。でも、レストラン・オリンピックより安くて(と言っても銀座ではと言うこと)美味しい点だけ上等。その安いということも、いつも払うのは彼だから、わたしには関係ない。彼は、度外れた浪費家。そこを出てから、又、喫茶店マロン。彼は、コーヒー茶碗を傾けながら、こんなことを言っていた。
「僕は映画を見るといつもイライラする。何故って、映画の制作者は、ダブルベッドの中の男と女の心理を同時に分析する近世のフランスの三人称の心理小説(『失われた時を求めて』のプルーストは除く)と同じように、最後まで、その映像や画面がどのような角度から、どのような理由で、どのような統一性を持って撮られたものなのかが、一切説明されないから。ギリシャ劇場の舞台上の芝居を見ているという前提が二千年も続いている。僕が好きなのは、江戸川乱歩原作の『屋根裏の散歩者』という映画。あの映画では、主人公の目が、そのまま画面を構成していた。『椅子人間』もそうだ。カメラで映像を撮るのだから舞台上という制約を惰性で継承する必要はない」
彼の精神は少し、アブノオマルな気がする。皆がそうしているから、それでいいのではないのかという同調圧力を一切感じない神経のようだ。
喫茶店マロンを十時に追い出された。銀座といえども、この頃になると流石に殆どの大通りの店は、ネオンのみ残して、夜の帳のナイトガウンを纏う。それでも街路には、数時間前まで往来していた人々の吐息の残滓のせいか、人々の魂の空蝉のようなものを感じる。この雰囲気も、翌朝、遺失物横領の住所不定の人々が来るまでには、すっかり冷え切ってしまうだろう。そして、全ては一夜の濾過によって、過去の烙印を押される。そんな何の滋養もない所、昼は過密で夜は過疎の、都会という平和そうで少しも平和ではない虚構の上に構築されたマッチ棒の城。現代の寂莫たるカラコルム砂漠。心の潤いを求めて、北山修の『コブのない駱駝』のような人々は、阿部公房の作品群のように、様々な事物の意味性が次第に薄れて行くという、背筋が戦慄に打ち震えるような人間の過失に気付かない。例えば、際限のない欲望を満たそうとし、自動車がある限り隠滅するはずの無い自動車事故を皆無にしようとし、癌や動脈硬化が無くなったら、益々無為徒食の老人人口が増加すのに、寛解を求めて、それらの病気を治療し、完治し、征服する方法を探そうとしている。そんな中に、わたしと彼の一輪の覇王樹の花が咲く。何もかも人工の物の中で育まれたわたしと彼の惨憺たる泥沼の様な心にもちっぽけな、くすんだ色の花が一夜限りの月下美人の様に開く。恢廓たる現代とういう荒寥たる砂丘の庭に咲く一輪の花。一人の男と女とが花になると、それと同時に砂漠に生きていたことを忘れ、そこに差し込まれた香港の造花であること知らないだけに、客観的に見れば、憐憫の情に値する。砒素入りの粉ミルクを飲み、ゼンマイ仕掛けの玩具と戯れ、ユニクロの既成服を着て育ち、恋人ができると、金儲けのために建てられた映画館で、宣伝と内容の微妙に異なる映画を見て、金を搾り取るために作られた煌びやかなだけの店の前を闊歩し、自動車に道を譲らされ、恋人との語らいの場をコーヒー一杯で提供する喫茶店に入り、原価三十円のコーヒーを五百円で飲み、誰かさんの税金で舗装された道路を散策する。みんな他人が自分のために造ったもの。その中で男と女は愛を育てようとする。わたしの彼の愛はちっとも生育しない。担任の思う壺に嵌って、わたしたちはありもしない物を創ろうとし、他人の造った物に依存してまで育つ可能性のないものを育てようとして、時間を恰も無尽蔵の再生可能エネルギーか何かのように無駄に浪費している。この映画を見れば、あの街角を散策すれば、あの喫茶店で語りあえば・・・、そういう常に一縷の望みを托して、わたしと彼は空しい出会いを繰り返す。そうやって、もう一年近くになろうとしている。
わたしと彼のだらだらとした、ズルズルべったりの長い付き合い。二人の明日のない憤懣も憎毀も、憂患も、この乾き切った巨大な砂地に吸収され、わたしの焦点の合わない惆悵は、鬱積するばかり。わたしたちの気まずさは、わたしたちにとって非常に重たいものであるのに、わたしたちの生きている世界は、それよりもはるかに重く巨大でありすぎる。例えば、ほんのちょっとしたことで闡幽されるはずの心の渾和。彼は好男子の優等生。男として別に文句のつけようがない。やはりわたしは彼が嫌いなのでは無いのだ。たとえば、わたしと彼との間に何かが起こればいい。そうすれば、二人はこれまでの堂々巡りの感情のやり取りをやめられるかもしれない。いまのわたしたちは何年間も氷室に閉じ込められていたアラビア人か黒田官兵衛のように、動作が不自然で固くぎこちない。何かが起こればいい。彼はその高慢な鼻を天狗に返して、慚愧もなくペイブメントの上で拝跪し、フョードル・ドストエフスキーの『罪と罰』のラスコーリニコフが大地に向かってしたように、わたしの足の甲に唇を押しあてるかもしれない。そうすれば、わたしは狂おしい情念に攪乱され、顫動し、深い感動の中を彷徨うかもしれない。・・・でも、何事も起こらなかった。レフ・トルストイの『戦争と平和』も革命も大地震も大噴火も隕石の落下も、アルベール・カミュの『ペスト』の流行も、小松左京の『日本沈没』も、『旧約聖書』のノアの箱舟の大洪水も、何事も起こらなかった。『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラにとっての南北戦争、『武器よさらば』のキャサリン・バークレイにとっての第一次世界大戦、『誰がために鐘は鳴る』のマリアにとってのスペイン内乱、『ドクトル・ジバゴ』のラーラにとってのロシア革命。わたしには一体何があるのだろうか?
そう言えば星が見えた。ビルのスカイスクレパーの稜線に縁どられた谷間に微かに閃燿する星を仰ぎ見ていたら、仄々とした軽い眩暈に襲われた。でも彼はそれに気付かないでか、態とそんな振りをしてか、変な顔をして、
「どうしたの?」
だって。寒風が緩慢に、気だるげにビルとビルとの間を縫って吹き渡り、寒々とした、時折背後から来る不躾なヘッドライトの灯りに二人の影がぼんやりと泛び、遥か彼方でJR電車の警笛が鳴り響き、空虚な余韻を残して遠ざかり、次第に途絶えた。
有楽町の駅に向かって、晴海通りには出ずに、みゆき通りを歩いて行った。阪急デパートの角を、高速道の方に向かって折れ、その下を潜り、ニュートーキョーの前の信号を渡り、旧日劇の裏手から、有楽町駅に着いた。わたしの頭の中をこの歌が駆け巡った。
何事もなく 満ち足りていた
女の夕暮れ 貴方に出逢った
永い時のヴェールが 夕陽にとけて
鮮やかに蘇る TWILIGHT LOVE
ひとつ ふたつと 灯る想い出
貴方を見上げる 幼い子供は
貴方に知って欲しかった 愛の忘れ形見
幸せ過ぎて 時の経つのも
別れも気付かず 愛したあの春
若い愛は小さな 過ちさえも
許さずに暮れて逝く TWILIGHT LOVE
なぜに どうして 言葉ひとつも
貴方は残さず 消えたの あの秋
一年待っていたけれど 二年待てなかった
今はもういい 胸を切り裂き
奈落で身を焼く 激しい逢瀬は
セピア色の想い出 遠ざかる影
切なくも振り返る TWILIGHT LOVE
遠い黄昏 淡い青春
けれども あたかも きのうの出来事
あすから命果てるまで 忘れられぬ別れ
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