ある春の日の出来事だった。
太陽は既に落ち、紫色の帳が西の空低く垂れ下がっている。
このくらいの時間の電車は、とても快適だ。
帰宅ラッシュで見知らぬ他人と肩が触れることも無ければ、酒の入ったやたら陽気な人間もいない。
乗り合う者すべてがある程度の距離を置いて静かに座席に座する光景は、修行僧のそれのようにも見えるが。
仕事の都合上あまりこの時間に乗ることはないが、今日は運が良かったらしい。
そっと両耳にイヤホンを仕込み、あまり話題にのぼらないような曲を聴く。
10人に聞けば10人がマイナーな曲だと答えるだろうが、好きなものは仕方が無い。
目を閉じ、耳に流れ入る音に集中する。
音楽と電車の揺れのみとなった俺の感覚世界には、良い揺り篭と子守唄だったようで、そう間を置かずに自然と眠りの世界へ誘われていった。
それから何分たっただろうか。
何処かの途中駅に停まったとき、俺のすぐそばの扉から、人が数人乗って来る気配がした。
すっと目を細く開き見る。
どうやら、大学生くらいの男三人組のようだ。
視線を上げれば、停車駅のたしか、この駅から何処かの大学のスクールバスが出ていたっけか。
三人組は俺の目の前の席に向かい合って座ると、談笑を始める。
イヤホン越しに聞くかぎり、どうやら怪談話のようだ。
誰々が幽霊を見ただとか、噂の廃病院に行ってきただとか、話を聞く限りでは眉唾なものばかり。
「オレが高校生の頃に、ダチと4人で山奥の廃墟に行ってさぁ」
俺から見て、左側の青年が語りはじめた。
その時の様子を身振り手振りで表現する青年の顔には、確かに畏怖の念が込められていた。作り話の類いではないのだろう。
だが、この手の話は大概が作り話か、当人の誤解や勘違いからくるものが殆どだ。
よくある心霊映像も現代の技術をもってすれば作ることは造作もないことであるだろうし、何より俺自身が信じていない。
…すれているのだろうか。
そんなことをぽつぽつと考えているうちに、青年の話が終わったらしい。
真ん中と右側の青年達は、思った通りの、不気味そうな表情で、左側の青年の話を聞いていた。
「そういうヤツなら、僕も聞いたことがあるよ」
今度は右側の青年が話しはじめる。
左側の青年が話し終えると右側の青年が話しはじめ、終わるとまた左側の青年が話しはじめる。
彼等が乗り込んで来てから、ずっとこの繰り返しだ。
真ん中の青年は何を話すわけでもなく、ただただ2人の話を相槌を打ちながら黙って聞いている。
正直、興味のカケラもない俺にとっては、これらの会話は唯の雑音でしかない。
曲の音量を上げよう…
これ以上盗み聞きしていてもつまらないだろう。
内ポケットのプレイヤーに手を伸ばし、右手で操作をする。
いざ音量を上げようとしたその時、出し抜けに、誰かしらの視線を感じた。
プレイヤーを操作していた手を止め、目線をゆっくり上に持ち上げる。
こちらを見ていたのは、真ん中の青年だった。いや、よく見れば青年というより、少年に近いかもしれない。
両脇の青年2人よりも一回り座高の小さな、地味な服装の少年がこちらを見ていた。
右側の青年は未だ熱心に心霊話を語っている。
何故彼がこちらを見ているのか、分からない。
疑問の眼差しを少年に向ける。
すると、
(…ごめんなさい)
少年の口が、僅かにそう動いて見えた。
ほんの少しだけ八の字に垂れた眉が、謝罪の意を表して見える。
見間違い…だろうか。
何故謝られているのか分からず、思わず訝しげな顔になってしまう。
が、はたと、唐突に少年の言わんとすることに思い当たる。
(…大変だね)
声に出さず口パクで話しかける。
少年は少し驚いたように目を見開くと、
(……いえ…)
と、呟いた。
こちらの言葉の意味が伝わったのだろう。少年は眉を下げたまま口元だけで苦笑いを浮かべる。
両脇の青年達は白熱する心霊話に更に花を咲かせようと身を乗り出していて、こちらの様子には気が付いていないようだ。
軽く微笑んでいた少年はそっと佇まいを直すと、青年達の心霊話に加わった。
その数分後、電車は少し大きな乗換駅で停車する。
少年は、友人達と共に降りていった。
こちらに一瞥もくれることはなかったが、その姿を、俺は知っていた。
…全く同じだった。
明くる日の、誰にもなろうとしなかった、ちっぽけな学生に。
目を伏せ、歯を食い縛ったあの時の学生に。
自宅の最寄り駅に着き、鞄を片手に電車を降りる。
あの感情は、そう多くの人間が感じるような代物ではないだろう。
あの目は、そういう目だった。
きっと、分からない。
もしまた会えたら、少しだけでも話を聞いてやるかな。それか、その学生の話を聞かせてやるだけでも、彼にとっては良い体験だろう。
切れかかった電灯の下を、ひたひたと歩いてゆく。
明かりの付いていないアパートの自宅は、いつも通りの静寂さを湛えている。
閉められた自宅の鍵を開く。
草食獣はそっとドアノブを捻り開けると、埃っぽい室内へと体を滑り込ませた。
おわり
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