侍女の想い人
緑の王宮回廊を金髪の少女が進む。時折窓から外を眺めつつ、リンは人気のない廊下を歩いていた。
王宮よりも千年樹の方が見る価値がある。リリィから教えられた時は緑の国に敬意が無さ過ぎると少々呆れたが、実際に王宮内を見学すると何故そう言ったのかがよく分かった。
黄の王宮と構造はもちろん違うが、雰囲気は似たりよったりであまり新鮮味が無い。飾られた絵画や調度品は価値がある物なのは何となく分かるものの、さして詳しくない上に大して興味も無いのですぐに飽きた。初めて王宮の中に入った人なら感激するだろうが、生まれてから八歳までを黄の王宮で過ごし、現在はメイドとして働いている身としては日常の一部なので珍しくもない。ここ数カ月の内に千年樹や青の国の時計塔を見たのも関係しているかもしれない。
厩舎に行って馬の様子でも見て来ようか。ついでにまだ行ってない中庭を見学して来よう。王宮内よりそっちの方が面白そうだ。他国の、と言うより長年争ってきた緑の国の王宮にいるのは何となく居心地が悪い感じがする。
「……考え過ぎかなぁ」
リンは足を止めて溜息を吐く。王子の侍女として初めて西側に来たから過剰に緊張しているのか。野盗に襲われたのが尾を引いて、慣れない長旅に余計な疲れを与えている可能性もありそうだ。
それにしても、とリンは歩き出して考える。野盗に情報を流した貴族がいるかもしれないのに、どうしてレンは緑の王宮で何事も無かったように振る舞えるのか。森での戦いぶりと機転、護衛に激怒していたが冷静な判断を下したと言い、荒事やもめ事に落ち着いて対処している。
それに比べて自分の弱さは何だ。八歳からの三年間を貧民街で生きて来たから、ちょっとやそっとの危機には動じないと思っていた。危ない橋を何度か渡っているから、もし戦いに巻き込まれても自分の身を守るくらいは出来ると、心のどこかでは自負していた。
だけと実際はそんな生易しいものじゃなかった。実際に戦いの場に放り込まれて刃を向けられたら、体の底から恐怖が湧いて震えが止まらなかった。逃げろと頭が叫んでいたのに怖くて動けなかった。捕まった時は喉に蓋をされたように声が出せなかった。
自分は強かったんじゃない。上辺だけの強さを思い込んでいただけ。ただ虚勢を張っていただけだ。レンには遠く及ばない。
……駄目だ。また考え過ぎてる。
早く中庭に出て新鮮な空気を吸いたい。リンは走らない程度の速さで足を進める。階段を下りて通路も兼ねた広間へ出ると、緑髪で着飾った人達が片隅に集まっているのが目に入った。晩餐会に招待された貴族が談笑しているのだろうと思い、気を留めずに通り過ぎようとした。
「えっ?」
ここにいるのはおかしいはずの人物が視界に映り、リンは思わず足を止めそうになった。
ミク王女が何でここに? レンとクオ王子と一緒にいるはずじゃ。時間的に見ても早すぎる気がする。
賓客を放置して何をしているのか。王女の行動に困惑したものの、ここは気が付かないふりをするのが良いだろうとリンは判断する。考えるのは後でも出来る。さっさとこの場から離れるのが一番だ。
貴族達を尻目に早足で歩く。広間を抜ける寸前、わざとらしい囁き声が背中側から聞こえた。
「ほら……あれが黄の王子が連れて来た……」
「名字も無い東の平民が緑の王宮に……」
「しかもこの前と違う侍女とは……。どうやって王子を誑かしたのやら」
「気味が悪いわ……緑髪ではないなんて」
平民だから、黄の国の人間だからと言う理由で嘲笑して陰口を叩く人々。そうする事でしか自分の立ち位置を確かめられない哀れな人達。
緑の国は他民族や外国人に厳しい。船で出会った銀髪の女性とリリィがそう評価していたのが蘇る。西側の事を何も知らない人に配慮して、両者とも言葉を選んでいたのだろう。これは厳しいんじゃない。自分達と違う者を蔑む差別だ。
言われの無い謗りを受けるのは今に始まった事じゃない。それでもリンは唇を噛みしめて怒りを抑え込む。
これが西側の、緑の国の現実。髪の色で露骨に区別しているのを見ると、もしかしたら黄の国より酷いかもしれない。故郷を去る人がいるのも納得だ。
背中に蔑みの視線をひしひしと感じながらも、リンは毅然と前を向いて去って行った。
中庭に出て真っ先に目に付いたのは、黄の国王宮庭園には設置されていない噴水だった。リンは円形の巨大な噴水へ近づいて縁に腰掛ける。
組み上げた水がこぼれ落ち、軽やかに流れる音が耳を撫でる。途切れない音は押しては引く波にも似ていて何とも心地良い。心に広がっていた不快感や怒りが静まっていく。
何か、海岸にいるみたい……。
やけに落ち着く理由はきっとそれだ。周りは石畳の道と芝生で海岸とは全く違うが、海岸に立って波音を聞いていた時と感覚が似ている。
港町で過ごしていた頃、キヨテル一家と言う居場所があったのに、無性に泣きたくなる程の寂しさに襲われる事があった。レンが傍にいないのが理由だと気が付くのに時間はかからなかった。手の届かない場所にいるのも、住む世界が違うのが分かっていても、片割れに会いたくて堪らなくなる時には浜辺に出て海を眺めていた。
隠し通路を使って王宮を抜け出しちゃおう。最初にそう言ったのはどちらだったか。始めの内は自分が先導していた気がするけど、次第にレンの方から外へ遊びに行こうと誘われて、いつしか弟に付いていく形になっていた。
そうやって何度も王宮を抜け出して遊んでいた頃、レンが酷く落ち込んでいた事があった。正確な時期は覚えていないけど、確か剣を習い始めてしばらく経ってからだったと思う。いつの間にか立ち直っていたので現在まで気にしていなかったけれど、一体何が原因だったのだろう。
レンが一層稽古に打ち込むようになったのはそれからだ。暇を見つけては訓練場に行って鍛錬を見学したり、中庭で素振りをしたり、一度自室で木剣を振り回して調度品を壊してこっぴどく叱られた事もあったけど、とにかく剣が上手くなりたいと一生懸命だった。
「リンベルじゃないか?」
唐突に親しげな声がかけられ、思考に集中していたリンは驚いて顔を上げる。人が近付いていたのに全く気が付かなかった。
目の前に立っていたのは、青い髪を丁寧に整えた若い男性。おそらく招待された青の国の貴族だろう。緑の国は北の島国からも客人を招いたらしい。
リンの顔を見た男性は笑みを浮かべて穏やかに話しかける。
「やっぱりそうだ。久しぶり」
……どちら様?
リンは危うく出かけた誰何を寸前で飲み込む。彼の口ぶりからして前に会った事があるようだが、誰なのかがさっぱり分からない。
訊ねる訳にもいかないまま立ち上がって青年を見上げる。海と同じ紺碧の髪と目。レンが普段着ている王族衣装に似た青い礼服。雰囲気と服装から察すると、護衛をする側ではなくされる側の人のようだ。
「奇遇だね。緑の王宮で会えるなんて」
ええ、はい。とリンは平静を装って受け答えをしていたが、内心は動揺に包まれていた。
ホントに誰ですか。誰かと間違えてるんじゃ……。いやでも名前を呼んだって事は人違いではないだろうし、でもこの人と会った事あるっけ……?
失礼なのは分かっていても思い出せない。気まずさが募る一方だ。緊張で首筋に冷や汗が滲む。
焦りが伝わってしまったのか、青年の表情が怪訝なものに変わる。最悪、とリンは肝を冷やし、しかし青年は一瞬の間を置いて声を上げた。
「……あっ! そうか! ちょっと待ってて」
いきなりリンに背中を向け、間もなくして振り返る。
「これで分かるかな」
青年は服を適度に着崩し、整えていた前髪を下ろしている。その姿を見たリンは「あっ」と目を見開く。
「カイトさん!?」
驚いてそのまま呼びかける。間違いない。目の前にいるのは青の国第三王子カイト・マークリムだ。
「うん。やっぱ分かんなかったか。この恰好じゃ無理ないか」
私服姿しか見た事無かったしね、とカイトは微笑む。彼だと判明してから改めて顔を見ると、どうして気が付かなかったのか不思議になる。だが、カイトが言い出してくれるまで本気で気が付かなかった。
「ごめんなさい、誰だが分かりませんでした。……お久しぶりです」
「いいよ気にしなくて。じゃあ改めて。久しぶり、リンベル」
リンは軽く礼をして謝り、カイトは再び挨拶をする。
「でも、どうしてリンベルが緑の王宮に? 黄の王宮で働くって言ってなかったか?」
疑問を口にしてカイトは噴水の縁に腰掛ける。確かに彼からしたらおかしいはずだと思いつつ、リンは隣に座って質問に答えた。
「黄の王宮で王子直属のメイドとして働いています。今回は王子の付き人として緑の王宮に来ました」
「凄いじゃないか! 入ってすぐ王子直属の上に付き人を任されるなんて」
夢が叶って良かった。大役を任されているのだからもっと誇っていい。まるで自分の事のようにカイトは喜んでくれていた。褒められた気がしたリンは恥ずかしそうに礼を言う。
「あ、ありがとうございます……」
西側に入ってから嫌な事が続いていたが、カイトとの再会はそれらを帳消しに出来そうなほど嬉しい。外国の王族に慣れておけと言っていたレンの気遣いと、カイトを招待した緑の国に感謝する。
「正装の時はいつもあの髪形にしているんですか?」
私服と正装で雰囲気がかなり違うとは言っていたが、カイトだと分からなかったのは髪形が以前会った時と変わっていたからだ。
「そうだね。青の王子としての俺に会った人は、多分さっきの髪型の印象が強いと思う」
前髪を下ろす前のカイトを思い浮かべ、リンは率直に感想を伝える。
「どちらも似合いますけど、私は今の方が好きです」
「そうか? ……じゃあこのままにしておこうかな」
たまには良いだろうとカイトは呟く。そう言えば、と今度はリンが質問をぶつける。
「カイトさ……、カイト王子も祝いの席に招待されて緑の国に?」
別行動中でもレン王子の付き人として仕事中の身。自分は黄の国のメイドで、カイトは青の国の王子だ。公の場でなくても呼び方には注意しないといけない。
「俺としては『カイトさん』でも構わないんだけどね」
お互い立場があるから仕方ない。カイトは肩をすくめた後に質問の答えを返す。
「青の王族にぜひ出席してほしいって手紙が来てね。父上も兄上達も忙しいから、俺に白羽の矢が立ったと言う訳さ」
青の国から海路を使って昨日到着したと話す。リンは笑顔で相槌を打っていたが、カイトの言葉に微かな違和感を覚えていた。
黄の国へは『招待する』と書き、青の国へは『ぜひ出席してほしい』と書いた手紙。意味は同じでも何かおかしい気がする。まるで黄の王族よりも青の王族の方を優先しているような……?
「リンベル?」
名前を呼ばれて我に返る。また思考の海に捕われていたようだ。心配そうな表情のカイトが視界に映る。
「ぼーっとしていたけど大丈夫か?」
「平気です」
何でも無いとリンは短く返す。
気にしすぎだ。緑に警戒心を持ち過ぎている。思わぬ所でカイトに会えたので舞い上がっているのかもしれない。しっかりしなくては。
「そろそろ戻らせて頂きます。仕事に支障が出ますので」
太陽の色が変わりつつある。カイトともっと話をしていたいが、晩餐会が始まる前に部屋へ帰らなければならない。
リンが立ち上がって一礼する。
「ん。もうそんな時間か」
カイトは西の空へ目をやってから立ち上がり、リンは正面に立つ青の王子へ再度一礼して挨拶を述べる。
「また会えて嬉しかったです。……失礼します」
噴水から離れて別れようとした時、不意にカイトから声をかけられた。
「リンベル」
引き留めてくれたのに少々喜びを感じて振り返る。じっとこちらを見つめるカイトと視線が交わり、リンは僅かに頬を赤く染める。
「リボン、付けてくれてありがとう。……似合ってる」
真っ直ぐに告げられた台詞に顔が熱くなる。礼を言おうにも上手く言葉が出ず、リンは会釈をしてその場を後にした。
王宮の上階。緑の国王の私室から噴水を見下ろす者がいた。浅葱色の髪を持つ男性はリンとカイトが親密に会話をしている様子を観察し、別れる二人を眺めて顎に手を当てる。
男性は誰もいなくなった中庭に目を落としたまま、思案顔を続けていた。
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