まただ。またあの夢だ。もう何度この夢を見た、いや、感じたことだろう。
 眠りについたはずなのに、誰かが私を呼んで、引き寄せている。声でも音でもないもっと曖昧な感触が、暗闇の中から私に向けて発せられてる。これは何の夢なんだろうか。ただ私を呼ぶ、それだけの夢。意識は朦朧としていて、その感触が何なのかとか、ここがどこなのか、自分が何者であるかすら理解出来ない。ただあの感触を感じるためだけの存在にでもなったように、暗闇の中、外の光が差し込むまで、私はそれを感じつつける。恐怖や不安は不思議なほどに感じない。それどころか、この夢すらもあまり不思議には思えなかった。まるで私を呼ぶ何かの正体を、自分がよく理解しているかのように、魂だけの私は、ただ感じ続ける。
 もう一ヶ月も前からこんな夢を見ている。私は、何かおかしいんだろうか。いや、考えてみれば、私は十分異常なのかも知れない。
 <<……ミク、ミク! 聞こえるかい?!>>
 その時、しっかりと私の名を呼ぶ声が耳に飛び込んで、私を夢の世界から引きずり下ろした。それでもまだ、私の周りには闇しか無い。

 ◆◇◆◇◆◇
 
 それは、一時間前の出来事だった。
 「今日はこれで終了だよ。ミク、お疲れ様。」
 博貴の声が耳に入ると、体から緊張に張り詰めたような感触が抜けて、私は思わずガクンと肩を落とした。簡単に言えば私を上からぶら下げている操り糸がぷっつりと切れたような感じだ。博貴はキーボードの上に指を走らせている。
 「ふぅ……。」
 「大丈夫? 今日はずいぶん遅くまで付きあわせて、悪かったね。どうしても今日の内に仕上げたかったから。」
 「ううん、大丈夫。」
 私はそう答えながら、腕に巻き付けられた電極を繋ぎとめるシールを外していった。髪の毛ぐらいの針だから跡は全く残らないけど、皮膚に食い込んだ電極の針を引き抜くたびに、ビリッと電気が走るような痛みが走る。博貴と一緒に仕事をするのは嬉しいし、この仕事にも慣れたけど、プラグやコネクタの付け心地にはどうしても慣れない。
 「お手伝いしますよ。」
 そう言って、助手の女の人がアルコールを染み込ませたガーゼを押し当てながら、針を抜くのを慣れた手つきで手伝ってくれた。
 「ありがとう。」
 「いーえ。」
 お礼を言うと、助手の人はにっこりと笑顔を返してくれた。
 片付けが終わって助手の人に一言挨拶すると、私は博貴と一緒に青白い蛍光灯が照らす長い廊下を歩いていた。
 ベストのポケットから携帯電話を取り出すと、もう八時を回っていることが分かった。博貴が言うには、この時間では家に帰る人は殆どいないらしく、帰らない人といえば宿直室に泊まる人らしい。だから仕事で遅くなった日は、こうして二人で肩を並べながら、晩ご飯のこととか、休日は何をしようとか、それが私のささやかな楽しみになったいた。
 「今日はごめんね、ミク。電極の針痛かった? 気分はどう?」
 「大したことないさ。もう初めてじゃないから。」
 「そっかミク、もうこの研究にも慣れたみたいだね。」
 「ああ、助手の人も人がいいし、昔みたいに博貴とずっと会えないなんてことがないから、私はこっちのほうがいいよ。」
 「……そうだね。」
 博貴が静かに答えると、私は何も言わずその腕を抱き寄せた。なんだか、甘え過ぎかなとは思うけど、それでもあと二十メートルだけ、向こう側見えるエレベーターまで、あと少しだけこうしていたいと、私は自分にまで甘えていた。
 その時だった。足元から、足音が消えたのは。静かなこの場所でも、足音だけはよく聞こえていたはずなのに、突然、音が消えた。それだけじゃない、博貴や蛍光灯の光がぼやけて、目に見える何もかもがぐにゃりと歪んで、意識が、目の前が、自分が、何もわからなくなって、段々、目の前が暗くなっていく。
 誰かが私の肩を揺さぶった。よく知っている手のひらの感触だった。博貴、が、私を……。
 <<……コイ……>>
 え?
 <<……コイ……>>
 誰かの声が聞こえる。博貴の声が聞こえるわけがない。これは、直接頭の中に響くような、電気のような声が神経を伝い、脳で溶けて広がっていくような、声だけど声ではないような不思議な「感覚」に、誰だ? と私は尋ねようとした。
 「ミク!」
 私の名前を強く呼ぶ声がしたと思うと、目の前に博貴の顔が現れて、その声もはっきりと廊下に響きわたっていくのが分かった。いつの間にか目の耳も戻っていて、私は床に座り込んで、上半身を博貴の腕に抱きかかえられていた。
 「博貴……私今、なんか……!」
 説明しようとしたけど、どうやって言葉に表せばいいのか、意識が元に戻った瞬間に気が動転してしまって、とてもそれどころではなかった。そうでなくても、あれが一体誰の声で、私が感じたものは一体何だったのか、言葉では説明できそうにない。
 「ミク、本当に大丈夫? ああ、まだ体の調子が完全じゃないのかなぁ……。」
 「あ……いや、そんなこと無いよ。大丈夫。立ちくらみだよ。早く家に帰ってゆっくり休もう。」
 「そうだね。さぁ、手を貸すよ。」
 私は差し出された博貴の握りしめ、ゆっくりとエレベーターの中に入った。
 エレベーターの扉が閉まり、完全な密室が出来上がったとき、ふと、私の頭の中に小さな記憶が蘇った。
 「博貴。」
 「ん?」
 「こんなことが前にもあった……前にも見た……。」
 「ミク……?」
 その時、耳が痛いほど静かな密室の中に凄まじい爆音が鳴り響き、私と博貴は凄まじい振動と衝撃に足をすくわれて、何が起こったかも分からずその場に転げ回った。壁に体が叩きつけた痛みは、じわじわと広がっていくようだ。
 「いたた……ミク、大丈夫?」
 「う、うん……。」
 「なんだろう、今の……!」
 博貴と手を取り合って起き上がるとエレベーターが止まっていることに気がついた。電気は付いているけど、適当にボタンを押して見ても、うんともすんとも動かない。もしかしたら……。
 「故障?」
 「そうだろうね。ああ、ついてないなぁ…。」
 そう呟くように言いながら、博貴は携帯電話を取り出して、電話をかけ始めた。当然上にいる知り合いか、宿直の人にかけているんだろう。でも、博貴が携帯電話を耳に押し当てて一分ぐらい経っても、誰かが出てきたような様子はなかった。しかも博貴の携帯電話からは変な音が聞こえてくる。
 「繋がらない……携帯電話まで故障? 施設から大分昇ったし、稼動している機器はもう無いはずだから、電磁波もありえないし……。」
 まさか、と思って私も携帯電話を取り出して誰かに電話を掛けようとした。でもスピーカーに耳を押し当てても呼び出し音すら聞こえず、小さくプツプツと変な音がなっているだけだった。
 「ミクの方もダメかい?」
 「メールを送ってみる。」
 メールを送信しようとキーを押すと、今度は何も起こらない。浅かったのかな、ともう一度強く押してみても、画面は全く反応していない。諦めて電源ボタンを長押してみると、終了の画面も出ずに、画面がプツリと真っ暗になった。
 「メールも駄目だ、博貴。」
 「こっちもミクと同じだよ……一体、何がどうなって……。」
 博貴がつぶやいて携帯電話をしまったその時、エレベーターの中に、甲高いアラームが鳴り響いた。
 <<警告。セキュリティをシャットダウンします。警告。セキュリティをシャットダウンします>>
 アラームに続いて機械のような女性の声がすると、突然、頭上でモーターが回るような機械音が鳴り響いた。すると天井の蛍光灯が消灯し、足元の非常灯に光が灯った。
 そして見上げると、天井の壁が二つに分かれて、そこには金属の小さな扉が現れていた。
 「これは……今度は、エレベーターのセキュリティに異常が出たみたいだ。でも、これはもしかしたら好機かも知れない。」
 「え?」
 「あれを見てごらん。」
 すると、博貴はエレベーターの天井を指さした。その先には、あの金属の扉がある。
 「あのハッチを開ければ、外に出られる。そこには非常用の梯子があるから、それを登れば地上に出られるよ。じゃあミク、肩車するからあの蓋を開けて。」
 「分かった。」
 博貴の両肩にまたがると、四角い蓋が目の前までやってきた。のっぺりした銀色の板に、棒のハンドルが付いている。それを握って脇にある矢印の方向へ回すと、ガチャッ、とまるで壊れるような音がした。両手で扉を押し上げると蓋は持ち上がると、上から流れこんできた生暖かい風がビュウッと大きな音を立てて私の顔に向かって飛び込んできた。
 「開いた。」
 「よし、ミクが先に上に上がってくれ。僕が出るのを手伝って欲しいから。」
 「ああ。」 
 私は蓋を向こう側に倒し、四角い出口のヘリを握り締めると、一気に体を中に浮かせ、エレベーターの上に転がり込んだ。そこは音も光もない真っ暗な場所でも、上に向かって途方もなく高く続いていることが、肌で感じる。
 「ミクー! そこから梯子が見えるかい?」
 エレベーターの中から博貴の声が聞こえた。携帯電話を取り出して画面の光で周りを照らそうとしても、もう電源すら入らなくなっていた。
 「暗すぎてよく見えない!」
 「分かった。じゃあ、僕もそこへ行くから、手伝って。」
 「ああ。」
 私はエレベーターの中にいる博貴に手を伸ばして、博貴の腕を掴もうとした。
 その時、私の耳元で何かの機械が動くような音がしたかと思うと、次の瞬間、さっきと同じ衝撃が私に襲いかかって来た。
 「う、うわぁ?!」
 地震のような振動に振り回され、立っていることも出来ず、その場でバランスを崩して転んだ時には、もう足元にエレベーターはなかった。無我夢中で腕を振り回すと、偶然博貴の言っていた梯子のようなものを手の中に捉えていた。
 そして気がつくと、エレベーターの音は、もう高く上へと昇ってしまっていた。突然エレベーターが直ったんだろうか。博貴を取り残したエレベーターが、どんどん私から遠ざかってしまう。いや、取り残されたのは私の方だ。
 <<ミクーーーッ!>>
 闇の中から、私を呼ぶ博貴の声が微かに響いた。私は梯子にぶら下がりながら、呆然としてそれを見上げていることしか出来なかった。エレベーターの音は次第に小さくなり、やがて消えた。
 それから何分か経った後、私は深呼吸して気分を落ち着かせて、今の状況をしっかりと整理すると、梯子に両足を揃え、梯子を昇ろうとした。
 でも、その時だった。またあの目眩が襲ってきた。今度は、さっきよりも激しく、苦しい。目が眩み、激しく耳鳴りが起こり、上下左右も分からなくなり、手から、足から、力が抜けていく。
 「だ、だめだ……!」
 もう限界だった。指先から、溶けるように感覚と力が剥がれ落ちて行く。
 ここで手を話したらどうなるのか。そんなことさえも分からずに、私の意識は、遂に闇の中へと溶け込んで行った。次に目が覚めるまで……。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

THE END OF FATALITY第一話「闇から見上げる兆し」前編

エレベーター天井の扉は本来内側からでは開きません。彼女みたいなことになりかねないので。

閲覧数:220

投稿日:2011/09/19 21:28:33

文字数:4,534文字

カテゴリ:小説

クリップボードにコピーしました