「まずいな・・・。」
ぽそりと呟き、空を仰ぐ。
空は鉛色の雲に覆われていて、空気にはたっぷりとした水の匂い。
今夜あたり、降りそうだった。
帯人は、雨が降ると情緒不安定に陥る。
どうも、あの日の事を思い出すらしい。
昼間は、それでも理性でもう何も恐れなくていいのだとわかっているし、室内で膝を抱えて蹲っている程度で済んでいる。
家族も、『強盗とバトったのが雨の日だった。顔面を刃物で攻撃されてトラウマが残った。』という言い訳を信じて、雨の日はそっとしておいてくれていた。
問題は、夜だった。
夜、眠っている間に雨音を聞くと魘され、酷いときは狂乱状態に陥る。
印象として一番近いのは、夜叫症だろうか?私もまだ実際の症状を見たことがないのでなんとも言えないが。
「ただいま。」
玄関を潜ると、シンプルなエプロンをした帯人が出迎えてくれる。
「おかえり凛歌。あのね、おばーちゃんに教わっておはぎ作った。粒餡のやつと、きな粉のやつ。凛歌が好きだって言ってたから。」
どうやら、帯人は最近、祖母に料理を教わっているようだった。
昼間のうちに祖母に教えを乞い、私が帰宅すると試作品を手に出迎えてくれる。
元々センスがあるのか、できた試作品はどれも美味しかった。
因みに私は、料理は嫌いじゃないし、それなりにできると自負している。
しかし、決定的な欠点というか、性癖があった。
レシピを発掘して、誰も作らないような料理を実験的に作るのが、大好きなのである。
結果、アタリとハズレの差が大きく出る。
「おはぎか・・・最近食べてなかったな。もう、食べられる?」
勿論、と笑う帯人が、私の手を引いた。
23時。
外からは、2時間ほど前からほたほたと雨音が響き始めていた。
帯人は、ソファの上で膝を抱えている。
触れると、一瞬びくりと痙攣し、ライナスの毛布のように私を抱え込んだ。
「帯人。」
怯えさせないよう気をつけながら、ゆっくりと手を伸ばして頭を撫でる。
いつもならそろそろ入床している時間帯だったが、やはり眠るのが怖いのか。
「帯人、眠るのが怖くても、そろそろ寝なきゃ。身体を壊すよ。大丈夫だから、一緒に、いるから。」
軽く手を引くと、帯人はゆるゆると私を解放し、引かれるままに階段を上った。
一緒にベッドに潜りこみ、あの日と同じように子守唄を歌う。
雨の日だけに行われる、ひとつの儀式だった。
リズムを取るように軽く背を叩き、あやすように撫でる。
もう片方の手で帯人の手を握ると、酷く冷えていた。
宵闇に慣れた眼が、青く醒めた帯人の顔をぼんやりと捉えていた。
それでも、2時間の緊張状態が身体に疲労を強いていたのか、まもなくすると寝入ったようで、少し安心する。
そう、長くは続かないだろうが。
「ぅあ・・・ああぁ・・・!」
隣からの呻き声で、半覚醒状態だった意識が、急上昇する。
帯人を見ると、冷や汗と脂汗とをびっしり浮かべ、激しく首を振り、見ていて痛々しいほどだった。
「あああああああうううううぁぁあああああああああああああっ・・・!」
がくがくと痙攣し暴れる、私よりも大きな身体を、自分の両の腕で抱え込む。
しっかりと、力を込めて。
帯人が、宵闇に連れて行かれないように。
振り回される腕が、足がヒットするけれど、それでも離さないように抱えていた。
汗ばんだ身体の奥から激しい鼓動が伝わってきて、それが機械仕掛けの音であるとしても愛おしかった。宥めてあげたかった。
「帯人・・・。」
淡く燈る、深紅の眼光。
多分、まだ半覚醒なのだろう、狂乱は治まっていない。
汗で濡れた前髪をかきあげてやり、片手で頭を抱え込む。
いつものように、その頭を首筋に導いた。
「ああぁぅ・・・うううあああああああぁ・・・ぐ・・・・・・!」
首筋に、鋭い痛覚。
犬歯が皮膚を貫き、肉に達する痛み。
舌で傷口をこじ開けられ、血液を啜られ舐めとられる痛み。
だが、動いてはいけない。
今動いたら、帯人の狂乱を煽ることになる。
やがて、狂乱の叫びが収束する。
抱きしめなおすと、腕の中の身体は荒い息をついていた。
「りん・・・ご、め・・・・・・。」
何を言いたいのかは、すぐわかった。
毎回、同じパターンだったから。
「大丈夫だから・・・ね。もう少し、眠って・・・。」
髪を撫でると、今度は緩やかに眼を閉じる。
穏やかな寝息をたてるまで、今度は数分もかからなかった。
「ずっとずっと、一緒にいるから・・・護って、あげるから。」
雨の夜は、君を抱きしめる。
君が、宵闇に連れて行かれないように。
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