こんにちは!前嶋拳人です。
厚い雲に閉ざされた昼下がり誰もいないはずの廊下の奥から軽い足音がコツコツと響いてくる。
慌てて振り返ってもそこにあるのはただ古びた木製の扉と壁に掛けられた色褪せた絵画だけだった。
私たちはいつから自分の声以外の何かを恐れるようになってしまったのだろうか。
ポケットの奥でずっと鳴り続けている時計の針はまるで遠い海底から響く鯨の泣き声のようだった。
手探りで扉を開けようとしても指先がかじかんでいてうまく動かない。
時間は常に同じスピードで流れているはずなのにときどきひどく引き延ばされたりあるいはぎゅっと圧縮されたりする。
私たちはそんな曖昧なもののなかに閉じ込められて正気を保っているふりをしているだけなのではないだろうか。
部屋の隅に積み上げられた古い本たちは誰も開くことのないままページとページを固く結び合わせてひとつの硬い塊になっていた。
そのあいだから這い出してきた一匹の小さな虫が壁を這い上っていく。
どこへ向かっているのかも分からないのにただ本能だけに突き動かされて歩き続けるその小さな背中を見ているとなぜかひどく胸が締め付けられるような切なさを覚える。
迷うことすら許されない旅を私たちはどれくらい続けてきたのだろう。
鏡に映る自分の顔はいつの間にか自分のものではない誰かの仮面のように冷たく乾いていた。
笑い方を忘れてしまった唇をそっと動かしてみてもそこから漏れるのはかすかなため息ばかりだ。
それでも世界のどこかで誰かがまだ見ぬ新しい物語の続きを紡ぎ出しているという気配だけがかすかな熱となってこの部屋の空気をわずかに震わせている。
凍りついた朝の光のなかで私たちはまだ名前のない明日へ向けて静かに歩き出す。
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