土岐は作業所からの帰りのタクシーの中で急に腹痛におそわれた。下腹部に鈍痛がトグロを巻いていた。時間的に昼食の何かが良くなかったのだろうが、見当がつかない。激しい便意が下腹部に耐え難い疼痛をもたらした。次第に脂汗が額に流れ、隣に座っていた丸山との会話も上の空だった。話し方の調子で相手の体調の変化に気がつくところが丸山のすぐれたところだった。
「土岐さん、どうかしましたか?」
と土岐の顔をのぞきこんでくる。
「ちょっと、おなかの調子が・・・」
と言うと、丸山はそれ以上、話しかけてこなかった。
 ホテルに到着すると小走りに自室に戻り、ショルダーバックをベッドの上に投げ置き、トイレに駆け込んだ。トイレから出ると血糖値が低下したように全身が脱力感におおわれた。しばらく、ベッドの上で大の字になっていたが、ふたたび下痢に襲われた。そのあと、気力を振り絞ってシャワーを浴びたが、上半身から血の気が引くような感覚にとらわれた。シャワーから出たあと、再びベッドの上に倒れこんだ。しばらくじっとしていると、すこしずつ気力が回復してくるような気がした。
 八王子の家を出るとき、
「水が変わると腹の調子が悪くなるよ」
と母に下痢止めを持たされたのを思い出して、スーツケースから黒褐色の丸薬を取り出して冷蔵庫に常備されていた現地ビールで呑んでみた。
 荒かった呼吸が徐々に落ち着いてきた頃、ドアをノックする音がした。あわてて、バスローブをまとい、裸足のままドアを開けると丸山が細い眼で立っていた。
「どうしました?もう、他の人はタクシーで出かけてしまいましたが・・・」
「あっ、扶桑物産のパーティーですか・・・」
 忘れていたわけではなかったが、頭の中は下痢でいっぱいだった。
「ここで、待っていますから、すぐ着替えてもらえますか?」
と丸山は視線を土岐の足元と顔の間で二往復させた。
「ちょっと、体調があまりよくないんで、できれば、ここにいたいんですが・・・」
「歩けませんか?」
と感情を押さえ込んだように言いながら、丸山は怪訝そうな顔をする。柔和な表情が消えていた。オブラートに包まれたむき出しの感情を垣間見たような気がした。
「なんとか、歩けないことはないんですが・・・」
「王谷さんが、是非連れてくるようにということなんですが・・・」
と自分の不快感の源が王谷にあることを察して欲しいような目つきをしている。
「業務命令ですか?」
「まあ、そんな大げさなことではないんでしょうけど・・・まあ、いろいろと注文の多い人なんで・・・それから、資料も持ってきてもらえますか」
 丸山の言い方にどことなく険があった。王谷となにかあったのかもしれない。
「分かりました。すぐ着替えます」
と土岐は言わざるを得なかった。土岐の知らないところで、丸山はさまざまな無理を強いられているだろうと推察された。土岐もこの程度の無理はせざるを得ないと考えた。

 南田が勤務する扶桑物産の事務所は、ホテルから小型タクシーで十分ほどの距離だった。首都近郊の旧宗主国が建設した官庁街のはずれに、瀟洒な高級住宅街があった。殆どが高床の平屋で、二階建ては数えるほどしかない。扶桑物産の建物は、高級住宅街の入口近くに位置し、建物も事務所らしくなく、普通の住宅のような佇まいだった。邸宅というほどではないが、ヨーロッパ風の建物で、庭に面して出窓があり、安普請でないことは素人目にも分かった。
 土岐の母が持たせてくれた下痢止めが効いたのか、到着するころには下腹もなんとか落ち着いてきた。
「体調のほう、・・・大丈夫ですか?」
とタクシーを降りるとき丸山がそう声を掛けてきた。いつもの穏やかな表情に戻っていた。土岐は、ノートパソコンを小脇に抱えて彼のうしろに従った。玄関の前庭は五十坪ほどの広さがあった。中央に点灯された常夜灯が立っていた。隣家との境界に熱帯植物の生垣があり、芝生が綺麗に刈り込まれていて、スコールのしずくが夕暮れの薄明かりにきらめいていた。
 タクシー停車の気配を察知したらしく、影法師のような南田が玄関のドアを開けて待っていた。顔は良く見えなかったが、バミューダ・パンツで南田と分かった。
 玄関右手に通された部屋はダイニングのようだった。背の高いいくつかの椅子が壁際に並べられ、大きな長い黒檀のテーブルの上に幾種類もの珍しそうな料理が山盛りになっていた。体調不良のせいで、土岐は料理には興味をそそられなかった。先着したメンバーがすでにそのテーブルを取り囲んで、談笑しながら、片手にグラスを持って飲食していた。年齢不詳の浅黒いメイドが、料理や飲み物を持って、奥のキッチンの間のドアから幾度も出入りしていた。ドアの奥に現地人のコックらしい人影が見えた。
 歓談の輪の中に痩身のシュトゥーバが立っていた。丸山は土岐を部屋の奥に案内し、王谷と談話していた白石と西原を紹介してくれた。白石は小太りで、頭にポマードをこってりと塗りたくり、金縁眼鏡の下に薄っぺらい顎を突き出した男だった。口を開くたびに金歯がのぞいていた。けして頭を下げることのない、えらそうな男だった。西原は頭髪が五分刈りで、綿のカッター・シャツに巨躯を包んだ男だった。眉毛が太く、舌足らずな話し方をした。目線が土岐より5センチほど高いせいか、顎をすこし上げ、仏像のように半分閉じたような目で、土岐を見下げた。
「大学はどちら?」
 と聞かれたので、
「二流の私立大学です」
 と土岐が答えたら、西原は大学名を聞こうとはしなかった。自分が卒業した大学か他の国立大学以外には興味がないように見えた。
 土岐の自己紹介と名刺交換が終わると、王谷は南田を手招きした。
「ちょっと、リビングを貸してもらえるかな」
「どうぞ」
と言いながら、南田が王谷を先導した。その後に西原と白石が続き、土岐も来るようにと丸山に目で合図された。
 リビングは広い廊下を隔ててダイニングの隣にあった。ダイニングと同じくらいの広さで、部屋の中央に薄茶色のラウンドテーブルがあり、その周りをカラフルなプラスティックの椅子が六脚取り囲んでいた。南田がダイニングに戻り、残りの五人全員が腰掛けると王谷が土岐のほうを一瞥して言った。
「それでは、現在のところのプロジェクトの財務分析状況を説明してもらえるかな」
と下僕を詰問するような口調だった。ときどき、入れ歯がカチカチと噛み合う音がする。
「まだ、大雑把な計算しかしていませんが・・・」
と土岐は前置きした。
「そんなことは分かっている」
と王谷は不愉快そうに言う。土岐には、なにが不愉快なのか良く分からない。
「総費用の現在価値が現行の為替レートで約一千億円、総収入の現在価値が約四百億円、したがって、このプロジェクトの純現在価値は約六百億円の赤字です」
と土岐は、夕方、作業所で丸山に説明した内容を繰り返した。
「この国に六百億円の円借款は出せないよな」
と白石が薄い顎を突き出して薄ら笑いを浮かべて言う。
「出しても、償還できないでしょう」
と西原が黒目を左右させて何かを思案しながら言う。
「とりあえず、プロジェクトを推進するためには、赤字をなんとか圧縮しないと・・・」
と白石が、王谷に命ずるような口調で語りかける。
「まあ、それが財務分析の仕事ですから・・・」
と王谷がタバコに火をつけながら答える。その傍らで、西原がテーブルの上にあった何かの紙の裏に、パーカーのボールペンで縦軸と横軸を描き出した。縦軸に運賃、横軸に累積乗客距離と殴りつけるように書き込んだ。
「土岐さん、プロジェクト期間の累計の乗客輸送距離はどれくらいですか」
と目線をあわさずに、せかせるようにうつむいたままで聞いてきた。先の尖った大きな耳が土岐の顔に向けられていた。
「約四百億マイルです」
と土岐が記憶を辿るように手短に答えると、
「ということは、運賃は一マイルあたり一円ということですか?」
と詰問口調で確認するように西原は顎を突き出して、うろんな表情を土岐に向けた。
「現行の運賃だとそうなります。貨物も含めてということですが・・・」
と説明すると、西原は右下がりのグラフを書き込み、縦軸の切片に4円と記入し、縦軸に1円と記入したところから、横軸に点線で平行線を引き、右下がりのグラフと交わる点から下に点線を下ろし、横軸の目盛りを400億とした。そのグラフを全員に見せながら、西原はいきせききるように説明を始めた。
「この右下がりのグラフはプロジェクト期間累計の電車乗車の需要曲線です。まあ、健全な常識に従って、右下がりということでよろしいですね」
と言いながら一同を見回す。語尾に有無を言わせないような雰囲気がある。
「この国は形式的には社会主義ですが・・・」
と西原が言いかけたとき、王谷が質した。
「形式的には・・・というのはどういう意味?」
「この国の官僚は誰も資本論を読んでいないし、だいたい、社会主義と資本主義の違いも分かっていない」
「じゃあ、なんで、国の名前に社会主義が入っているの?」
と白石が聞く。
「建国の当初は、初代大統領も社会主義のなんたるかは分っていただろうとは思うけど・・・だいたい、社会主義を理想として建国したんではなくて、隣国の社会主義の大国と緊張関係にならないようにという政治的配慮と、その大国から援助を引き出したいという経済的な理由で・・・」
と言いながら、西原は目をグラフに落として、話を戻した。
「で、国の名前は社会主義ではあるが、経済的には自由主義であることを想定して、この需要曲線も自由主義を前提として描いてあります」
「自由主義と社会主義で需要曲線が違うのか?」
と王谷が呟くように言う。
 西原はちらりと目線を王谷に向けて、小さく小馬鹿にしたような溜息を吐く。
「自由主義の需要曲線は人々の自由な意思を反映して描かれます。電車に乗るのも乗らないのも国民の自由ということです。乗るかのらないかの判断は、提示された運賃に乗客がどう反応するかに委ねられます。これが自由主義です。高くて乗らないのも自由、安いと思っても運賃以上の支払はする必要はない。金持ちに対しても、貧乏人に対しても、同一価格で販売する・・・これが市場経済です。・・・で、試算だと一マイルあたり一円の運賃だと、累計で四百億マイルの需要があるということです。この需要曲線の縦軸の切片を4円とすると、縦軸と需要曲線と補助的に引いた1円の点線の運賃線で囲まれる三角形の面積は消費者余剰になります。運賃が一円に設定されていても、心理的にはもっと払ってもよいと思っている利用者はいるはずで、いろいろな利用者がいるから、より多く支払ってもいいと考える金額はいろいろだが、一円は支払いたくないと思う利用者は乗らないのだから、乗車する利用者は間違いなく一円以上の評価をしていると考えられる。並走しているバス料金を考慮すると、最大限支払ってもよいと思う金額は、4円程度だ。つまり、この三角形の面積に該当する金額を利用者は払ってもいいのだが、たまたま運賃が一円に設定されているからそれ以上は払わない、いわば利用者の儲けのような金額だ。この三角形の面積は高さが四円マイナス一円で三円、底辺が四百億マイルなので、消費者余剰は六百億円になる。つまり、利用者の利益を六百億円とすれば、プロジェクトの現在価値が六百億円の赤字であるとしても、このプロジェクトは採算があっているということになる」
と言いながら西原は三角形の面積を青いボールペンで斜線を何本も引きながら塗り潰して行く。強く塗りつぶして、質のあまり良くない紙がすこし破れた。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

土岐明調査報告書「フィジビリティスタディ」七 現地第四日目2

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投稿日:2022/04/07 08:06:39

文字数:4,777文字

カテゴリ:小説

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