「ツバサがあれば、こんな私でも空にだって飛べるのに」
夢に、羽ばたいてゆけ。
昔書いた寄せ書きのそんなアツい言葉も、ツバサがなくては到底無理な話。叶えようとするものの中には、ある程度の羽ばたきがやっぱり必要なんだ。
そんな事を思いながら夜も更け、うとうとと机を枕に、夢心地と浸っていた。
「…ツバサがあれば幸せになれる、と?」
私は近所のバザーにある骨董屋バーに足を運び、13万シアーもする高価なツバサをレンタルしにそのバーのマスターに話かけていた。
「人間は元々天使だったって話は有名だからご存知だとは思いますが、神様にツバサを取り上げられた理由を今の人間たちは忘れてしまっているのです。幸せを勝ち取るためにツバサが欲しいだなんて…」
現代の人たちからすれば、自身の夢や希望は何処か羽ばたいて勝ち取るイメージが強くあると思う。
「ツバサは人間にとって、やっぱり憧れだと思います。自由に空を飛べるって事実だけでも、普段より断然刺激的だし魅力的ですよ」
私がそう熱弁しても、マスターは冷めた面持ちで諭すように私にこう続けた。
「後悔しても知りませんよ?」
私は頷いてからしばらくしてツバサをレンタルし、そのまま店を出た。
それから、賑やかなバザーの人混みをかき分け、土手のある河川敷まで足を運んだ。
「私の未来は、このツバサさえがあれば、道は開けるわ」
すぐさま背中にツバサを装い、少しの助走の後、真上の目的地まで空高く羽ばたいていった。
「す、凄い。な、何これ?」
鳥たちの世界ではこのような景色の中で当たり前に生活が行われていて、人間の世界と比べても言葉では言い表せない位に、壮大かつ驚愕でしかなかった。
「これで私も、幸せになれるのね」
縦横無尽に我を忘れるように駆け回った後、あまりに疲れ過ぎたせいか、気付けば知らない森の茂みの奥で、私は倒れ込むように横たわっていた。
次の日、私は同じように一日のほとんどを空の中で過ごしていた。
幸せにたどり着いた意識とハイテンションな気持ちの中、冷静さを取り乱している自分さえも気付かずに、今日もまた夜が訪れた。
そして次の日、そしてまた次の日と、空の中での時間に次第に飽きてきた頃、地上で過ごす時間もまた増えてきていた。
自由な世界である空という場所はあまりに壮大すぎたあまりに、自分がちっぽけで儚い虚無感を強く感じてしまった挙句、意識の中でその行為自体が違和感として何処か受け入れにくくも感じていた。
自分一人が飛び立った所で、空は受け入れてくれるどころか、試練を与えられてるようで怖くも感じた。
それから一週間が過ぎ、ツバサとしての機能は失われ、効力さえも切れてしまった。
レンタル期間を終えたそれを返却しに店に入ると、すぐにそれをカウンターにそっと置いて立ち去ろうとした。
「どうです、ツバサを試してみて後悔しませんでしたか?」
私は言葉を失ったまま、そのまま通り過ぎようかとも思った。
「…人間は元々天使だったのです。しかしある日、地上に興味を持った二人の天使は空を飛ぶ事を止め、世界の外でひっそり暮らそうと約束し、日常であったはずの空に戻る事を拒んだのです。それを知った神様は天使のルールに背いた罰として、天使の証であるツバサを取り上げた後、空ではない地上という場所で一生暮らす事を二人に言い渡しました。その二人の天使がその地上で育み、今の人間として成長していったのです」
マスターは更に、深々と語り始めた。
「人間のルーツですよね、昔に聞いた事があります」
そんな私もまた、マスターの話を背中越しに聞いていた。
「その後、神様が二人に差し出した真っ赤な林檎のお話を、ご存知ですか?」
「いえ…」
私は立ち止まったまま、動けないでいた。
「天使は神様に仕えるもの。その天使の役割とは、神様を一生守るためのナイトなんです。その役割を捨てて、二人は地上に降りる事を望んだ。それは神様への裏切りであると共に、個々を尊重し合い自らを戒めるためにと自身のオリジナリティを磨くべく、地上で生きる道を選んだのです。そんな二人に神様はさらなる罰として、別れの餞別にと、この林檎を差し出したのです」
私は、震える身体を堪えて止まなかった。
「その林檎を食べた二人は、みるみる内に変貌していきました。その林檎の成分である欲望という毒に塗れるように、二人は欲に生きる人間へと姿を変えていったのです」
「そう、なんですね」
私はマスターの近くまで行き、こう続けた。
「私は人間だから幸せになりたいんです。それを欲望と言い換えても否定はしませんし、むしろ肯定するからこそ夢や希望に憧れてしまうんです」
「それが人間の本質というものなのですよ。欲望に塗れるまではツバサのない天使という可憐で欲のない生き物だったのに、神様の手によって人間という複雑かつ難解で気難しい存在に変貌させられてしまった。欲というあぶくを頼りに、生涯生きていかなくてはいけない生き物として、ね」
天使の罪を罰する神様の仕打ちを、現代の今も私たちは受け続けているのだと、マスターは話をまとめた。
「人間は人の間と表現されるように、特定の生き物とは違い心という人間独自の不安定な賜物を抱えている。その心がすなわち、人の間を意味するのです。心があるから欲を生み、自身や相手までをも脅かす。そんな心にもキレイな一面があって、他人である人を幸せにしてくれようともする。しかし、その幸せというものも実際は如何なものなのか…」
「ちっぽけで儚くて愚かなのだと、そう言いたいんでしょ?私が以前そうであったように」
マスターは少し慌てた。
「あ、いえ…心があるから愛や夢や希望が描けるのも事実です。ただ最近は、特に幸せというものを勘違いされているように思いまして。だからあの、ツバサというものを実験的に取り扱ってみたかったのです」
「…私には、それが必要なかった」
私は涙を堪えて、信じていたもののヨリを戻そうと必死だった。
「ツバサが必要ないと判って頂けたのなら、幸せの意味を理解頂けた証拠です。幸せというものは人間の目に見えないだけではなく、刺激のない生活に継続するものなのですから」
「刺激のない生活?」
私は耳を疑った。
「ええ。刺激とはすなわち欲の始まり。そして、幸せと欲とは真逆に位置するもの。そこを現代の人たちの多くは、それを同類だと勘違いしているのです。夢や希望は自身の願望の果てにあり、その先に幸せが待っていると思い込んでいますが、願望もまた欲の一つで、憧れという一線を越えるべく夢や希望を手に入れようとそれを強く欲する。そもそも手に入れるという考え方が欲望であり、幸せとはそういった思いや刺激のない所で時間に寄り添って、人を優しく包み込んでくれるものなのです」
私は、一つの答えに辿り着いた。
「つまり、幸せというものは勝ち取るものではなく、自分の身の回りにそもそも存在しているものなのね…」
「温和で平穏に暮らす時間や場所がそこにあるのなら、それは結果幸せなのです。むしろ刺激や突発的なものが幸せの邪魔をする。人間たちの思い込みや理想や願望が、幸せの位置や在り方を勝手に変えてしまっただけなのですよ」
外で華やかに賑わうバザーでの飛び交う声を聞きながら、私はこう呟いた。
「…人間ってさ、楽しい時に笑って悲しい時に泣いて、そんな喜怒哀楽な日常を不安定に繰り返しながら、複雑かつ難解な世の中で不安定に負けないように懸命に生きているんです。安定なんてない、普通なんてない。当たり前なんてない、正解なんてない。おまけに、真っ直ぐで直結したものなんて何処にもない。自分も含め、あらゆるものすべてが不安定なものなんだからさ。だからこそ、真っ直ぐなものに憧れるんです。愛や夢や希望や真実や、そんな真っ直ぐさが偶然普遍な世の中にも未だ残されていると信じているから。複雑かつ難解な世の中を生み出したのも、複雑かつ難解な私たち人間たちなんです。だからこそ、単純かつ明解なものを大切にしていってほしい。ううん、大切にしなくちゃいけないんです」
マスターは少し笑顔で、店の奥のカウンターからあるものを取り出し、私にそれをそっと差し出した。
「…どうやら、物事の本質に辿り着いたようですね。ささやかなものですが、こちら私からのプレゼントです」
「そんな…。私が単に、自分を見失っていただけなのに」
「なんてことのない、林檎ですよ」
それは真っ赤に熟れた、マスターからの気の利いたプレゼントだった。
「私がこれを食べるとでも?」
「ええ」
私も笑った。
「では、半分にして一緒に食べましょうか?」
「私一応、疑い深い女なので、そうして頂けると助かります」
マスターは林檎を半分に切り分けて、その半分を私に差し出した。
「では、神様に乾杯、という事で」
二人はあの時の天使のように、微笑ましく林檎を頬張った。
「うぐっ…」
次の瞬間、私は慌てふためきながら近くのコップを勢いよく跳ね退けた後、その場に赤く崩れ落ちた。
マスターは頬張って見えたその林檎を口からそっと取り出し、静かにその場から退いていった。
「…二人の天使のうち、一人はこうして林檎を食べませんでした。神様からそうするように言い渡されていたのではなく、二人で生きるという道を陰で拒み、世界を手中に入れようと欺いたからです。天使として化けていた悪魔の仕業でしょうか。その悪魔の囁きに一人の天使は長い間騙され続けていた。そんな密やかな真実を、あなたは信じられますか?」
私はマスターのそこまでの声を最後に、赤くも酷い姿のまま、戦慄なる悲鳴の後、静かに息を引き取った。
「ん…」
机を枕にしていた景色の中、私はすぐに目を覚ました。
「夢、か…良かった」
夢の中で自分が不意にも死んでしまうと、自然と夢から覚めてしまう。それは死んだ後の光景を、生きている間ではイメージ出来ないかららしい。
「早く寝なさい、明日テストでしょ!」
母からのいつもの言葉に強く反発してすぐに、部屋の入口にふと目を遣ると、私は驚愕のあまりに唖然とし、ピタリと足を止めていた。
「何…これ?」
それは私を気遣ってくれる母からの優しい心遣い。あの時見て立ちすくんでしまった、真っ赤に熟れた例の果物の半分が、そこに不自然なまでに置かれてあったのだった。
「ま、まさかね…」
私は皿に乗ったフォークとそれを手に取って、恐る恐る口に運んだ。
「ぐっ…!」
私はその林檎を頬張ると、次の瞬間すぐに吐血しその場に倒れ込んでしまった。
「…何度とそのように生まれ変わってもな、お前のその姿にはもう騙されぬぞっ」
林檎を差し出した母親は瞬時にあの時の紳士に姿を変えると、私にそう告げた。
「ツバサを欲しがるのはいつも悪魔の仕業だ。こんな罪のない幼気な人間に成りすまし、何気ない日常を何食わぬ顔で生きてきた悪魔たちも、最近特に多くなってきたもんだな…」
紳士はそう続けると、私の枕を取ってすぐにぼんやりと消えかかっていった。
「悪魔の棲む夢を人間たちは悪夢と呼んでいるらしいが、その怖さを何も分かっていない。夢の中で不意に死んでしまうと目が覚めるのは決して自然な事ではなく、我々がそれを阻止してるという事実に気付いていないだけなのに…全くお気楽な連中だ。悪魔の仕業にまんまと気付いていないのだからな。だからと言って、こんな私もまた、天使という器でもないがな…」
紳士はそう微笑みながら林檎を一つその場に落とすと、そのまま消えていってしまった。
「悪趣味かもしれないが、人間たちがこの世界をどう築き上げていくのかが興味深くてな…」
毒を盛られたその林檎は、悪魔に対する仕返しの象徴でもあり、紳士から悪魔への宣戦布告でもあった。
夢に羽ばたいてゆけ、人間たちよ。
ツバサではなく、心で羽ばたいてゆくのだ。
人間らしくある、心という武器でな。
神の創り出した、この世界を。
天使らが臨んだ、この世界を。
今度こそは。
お前たちのものに、する番だろ。
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