世の中からいなくなる事、所謂死ぬという結果の後に、人は天国か地獄への選択を迫られるという逸話がある。
世の中での生き方によって、それは分別されるというけれど、それが仮に本当だとして。
そんな他愛のない話の下りを、ボクと彼女は目的地である途中の駅のロータリーで、突然の雨をしばらくの間凌いでいた。
「…傘、もう一つ持ってくれば良かったな?」
「だから言ったじゃん。今日の天気予報、雨だよって」
いつもは雨男のボクとはいえ、今回はつまらない意地を通していた事を次第に後悔していた。
「…謝ってよ」
「え、あー。ゴメン、な」
いつになっても止まない雨に痺れを切らしたボクは、そっぽ向いた彼女に地獄についての話を切り出していた。
「…地獄ってさ、色んな罰が用意されるらしいんだけど、具体的に何をするんだろうな?」
彼女は呆れた顔で、拗ねたように黙り込んでしまった。
「…バカ」
ボクらは付き合って間もない関係でもないけれど、恋愛の主導権は完全に彼女の手中にあった。
「多分さ、あれだよ。地獄だからさ、往復ビンタとかされるんだよ、きっとな。しかも毎秒っていうね」
「…はあ?」
毎秒のビンタは確かに地獄だけれど、それよりも彼女の興味の無さにボクは落胆していた。
「それも永遠なら確かに地獄かもね。てかさ、まだきちんと謝ってもらってないんだけど」
「え、雨の件ならさっき…」
「違うっ!」
ボクは昨日の喧嘩の話を、忘れたくて仕方なかった。
「私の知らない、女の話!」
「…あー、それは別に何にもないよ」
男が墓穴を掘る瞬間。それはいつも、浅はかでくだらないもの。
「昔みた絵本に載ってた地獄ってさ、焼かれたりいたぶられたりしてさ、まあ酷いもんだよ」
「話変えないで!私まだ許してないんだから」
男にとって彼女とは、今も昔も大切なもの。だからいつまでも嫌いにならずに、パソコンでいう所の恋愛というファイルは、いつも別名で保存されているんだ。ただ、女にとって昔の彼氏は自ずと嫌いになっていくものらしい。パソコンでいう所の恋愛というファイルは、いつも上書き保存なのだと。だからかな、女は強いなってボクはつくづくそう思っていた。
「もう、いいよ…」
彼女の沈んだ顔を見て、ボクは咄嗟に反省の色を浮かべた。
「ゴメン!本当に、ゴメンな」
ボクがそう言うと、彼女はしばらく俯いて静かに呟いた。
「…分かった。じゃあさ、健吾にとっての天国って何?」
ボクは真顔で喜びをひた隠しながら、彼女の問いに真剣に悩んでいた。
「天国って、難しいよね。人によって幸せの形が違うから答えは一つじゃないだろうし」
「健吾にとって、だよ。人は人でしょ!」
ボクは彼女と今まさにこうして一緒にいるにも関わず、どうして彼女の事をすぐにでも伝えてあげなかったのだろう。
「男としてはさ、やっぱりピチピチした若くて清楚な女の子にさ…」
彼女は殺気だったように、その言葉を言い終える前に、ボクの頬を片手で勢いよく弾いていた。
「ってーなっ!」
「バカじゃないの?さっき謝ったのは何なのよっ!」
ボクは彼女の言う通り、おそらく単純なのだろう。しかもその辺にいる一般的な男連中の一人なんだ。
「いやさ、男の永遠の憧れなんだよ、そういうのってさ…」
「意味分かんないし!じゃあ、若ければ誰でもいいって事?」
そういう訳でもないんだけど、と。そんな言葉が脳裏に浮かんですぐに消えた。
「お前もさ、若い訳だし…この世で一番可愛いから選んだ訳だからさ、」
「この世で一番だなんてさ、世界中を見渡してきた訳でもないくせによくも言えるわね。もう許さないよ、私」
とびっきりの地雷を踏んだ。というよりも、ただ自爆しただけの事。
「男ってさ、やっぱり皆そんなもんなんだ?」
「まあ…大抵そうさ」
言い訳の余地なし。てか謝れ、自分。
「私と今一緒にいてさ、幸せじゃないって事だよね…今の話を聞いて、そう実感せざるを得ないよ」
「そんな事ないよ、今が一番幸せさ」
「…天国とまではさ、言わないにしても…酷いよね」
天国と地獄。
どちらも結局は表裏一体。
天国な毎日も、繰り返せば繰り返す程、つまらない日々なのかもしれない。
地獄な毎日も、きっとそうなんだ。
「お前と一緒にいる時間はさ、天国でも地獄でもないんだ」
「…」
彼女は涙を堪えて、じっと聞いていた。
「極端に刺激のある毎日も、繰り返せば繰り返す程つまらない毎日へと変貌してしまう。恋愛はそうじゃない、キミとの日々もそうさ。つまらなくならないように常に変化が必要なんだ」
ボクはさらに続けた。
「そして、お互いの喜怒哀楽は常に恋愛におけるスパイスを必要とする。だからどれも過剰には必要ないけれど、適度にバランスを保っておかないと恋は今にも崩れ去ってしまう」
「…さっきの発言はわざと、って事?」
雨はやがて、小さく柔く萎んでいった。
「ううん、必然なんかじゃないよ」
彼女は吹き出して笑った。
「じゃあ、偶然って事じゃん」
偶然の苦しいばかりの言い訳。ボクは天国と地獄を、そう位置付けた。
「…でもやっぱり私、許さないから」
「えー」
ただただ降っていた雨の時間は、二人の空間を天国に誘う訳でもなく。
「…私、もう帰るね」
「まだ、雨止んでないよ」
辺りは今も雨、それなのに。
「じゃあ、雨に濡れたらさ。私を好きになってくれる?」
「…え?」
ボクは立ち尽くして動けなかった。
「…ピチピチが良いんでしょ」
「?」
ボクはようやく、すべてを理解した。
「そんなにピチピチが良いんなら、こんな傘なんて要らないよ」
彼女は持っていた白い傘を向こうの方に放ると、お気に入りのワンピースをずぶ濡れにして、そう言った。
「ボクの負け…」
ボクはそう言うと、彼女の片腕をそっと引いて、強く強く彼女を肩を抱き寄せた。
「…これが、ホントに天国?」
「ああ、そうさ」
彼女はやっぱり、ボクよりも上手。だからボクは、彼女の事がとっても大好きなんだ。
「…私、許さないからね」
「うん、分かってるよ」
許さなくていい。
もう、ずっとずっと、死ぬまで、ね。
二人抱き合った重なりのそばに、風で転がってきた白い傘が淡くも優しく揺れていた。
とりわけ雨を避けるという訳でもないけれど、何処となくニコリと喜んでるような。
そんなね、雨の滴る揺らぎの中で。
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