一月二十五日

 夜十時頃から三島由紀夫の『春の雪』を再び読み始めて、とうとう徹夜してしまった。小説を読んで徹夜したのは、島崎藤村の『破戒』『夜明け前』、長塚節の『土』、谷崎潤一郎の『痴人の愛』『細雪』、夏目漱石の『吾輩は猫である』『こころ』『三四郎』、志賀直哉『暗夜行路』、有島武郎の『或る女』、横光利一の『旅愁』、森?外の『澁江抽齋』、松本清張の『点と線』『砂の器』『ゼロの焦点』『考える葉』『黒い画集』『けものみち』、司馬遼太郎の『坂の上の雲』『龍馬がゆく』『国盗り物語』『燃えよ剣』、五味川純平の『人間の条件』、大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』『個人的な体験』『万延元年のフットボール』、レフ・トルストイの『戦争と平和』、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーの『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』、アーネスト・ヘミングウェーの『日はまた昇る』『誰がために鐘は鳴る』『武器よさらば』、マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』、シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』、チャールズ・ディケンズの『オリバー・ツイスト』ウィリアム・サマセット・モームの『人間の絆』、ギュスターヴ・フローベールの『ボヴァリー夫人』、デーヴィッド・ハーバート・ローレンスの『チャタレー夫人の恋人』、スタンダールの『パルムの僧院』『赤と黒』、ジャン・ポール・サルトルの『自由への道』『嘔吐』、アルベール・カミュの『ペスト』、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』、ボリス・レオニードヴィチ・パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』、北杜夫の『楡家の人びと』やトーマス・マンの『ブッデンブローク家の人々』やロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』、アレクサンドル・デュマ・ペールの『モンテ・クリスト伯』、ジョン・スタインベックの『エデンの東』『怒りの葡萄』、西田幾多郎『善の研究』以来だ。面白くて徹夜したものもあれば、つまらないけど読破に拘って意地で徹夜したものもある。阿佐田哲也(朝だ徹夜)の『麻雀放浪記』を想起した。もともと宵っ張りだから、読み始めたら夜が明けるということが多かった。学校がある時はそのまま授業に出て、居眠りをしている。その夜は爆睡するということの繰り返しだった。川村さんはテレビで映画を見ながらよく徹夜するという。文字情報には想像の自由があるが、映像情報には自由があまりない。文字の男を自分好みの美男子に想像できるが、映像の男はそのままだ。それが耐えられない。だから、わたしは映画で徹夜することはない。
 出版社の謳い文句を見るまでもなく、『春の雪』は言うまでもなく典型的な作為的な意図的な恋愛小説。従来の恋愛小説は数少ないハッピーエンドか、ほとんどが悲劇かのどちららかに峻別される。でも、この小説は違う。それはなぜか?この小説は、古典的な悲劇に終わる恋の物語ではない。狂言回しの様な本多繁邦の存在が、この小説が悲恋の物語であることを拒絶する。一見、主人公は松枝清顕のようだが、彼は本多繁邦の影に過ぎない。もし、本多繁邦が登場していないければ、この小説は凡庸な一篇の恋愛小説たりえただろう。だが、本多繁邦は松枝清顕を副主人公にし、彼自身が主人公であることを主張する。それはちょうど、ギュスターヴ・フローベールの『ボヴァリー夫人』の主人公がエマ・ボヴァリーではなく、ブルジョアのわたし生活であり、またスタンダールの『赤と黒』の主人公がジュリアン・ソレルではなく、1830年代のフランス社会であることと似ている。ジョン・スタインベックの『エデンの東』の主人公は、アダムとキャルかも知れない。でも、それは最後になって、覆される。主人公はどちらでもなく、中国系移民の料理人リーなのだ。わたしは、小説の中で、作者によって小説の道具としてしか見做されていない人間を、主人公として見ることはできない。
 庄司薫が『赤頭巾ちゃん気をつけて』でパクった、ジェローム・デイヴィッド・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の主人公は、間違いなくボールデン。マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』の主人公も間違いなくスカーレット・オハラ。そして、『老人と海』や『誰がために鐘は鳴る』や『武器よさらば』のアーネスト・ヘミングウェーの小説の主人公も、小説中に最もよく登場する者がそれと見て間違いない。でも、マダム・ド・ラファイエットの『クレーヴの奥方』の主人公は、決してクレーヴ夫人でも、ヌムール公でもない。主人公は、語り手自身なのだ。作中にもっとも頻繁に登場する人物は、単に作者の道具に過ぎない。こういう小説作法を徹底させるとピエール・アンブロワズ・フランソワ・ショデルロ・ド・ラクロの『危険な関係』やサミュエル・リチャードソンの『パミラ、あるいは淑徳の報い』のようになる。そして、さらにおし進めると、ロブ・グリエの『嫉妬』のようになる。
 松枝清顕も綾倉總子も、三島由紀夫の用具に過ぎない。作者の本質は、より多く本多繁邦に乗り移っている。したがって、作者は、この小説において、恰も近世小説の神のように、恰もミニチュアを弄る子供のように、松枝清顕と綾倉總子を遠隔操作している。松枝清顕の喜びにも悲しみにも少しも、『禁色』の檜俊輔に対するように、作者の本質が注入されていない。『春の雪』の二人の恋愛は、全て原稿用紙の上だけの作りごとの楼閣に過ぎない。
 恋愛小説における死は、たとえばアーネスト・ヘミングウェーの『誰がために鐘は鳴る』や『武器よさらば』のように、読者に必ず古代ギリシャのアテナイのディオニュシア祭において上演されていた悲劇のカタルシスを与える。死は、一つの絶頂になる。激烈な恋愛がハッピーエンドになって、例えば、レフ・トルストイの『戦争と平和』のナターシャとピエールのように、凡庸な男と女の関わり合いへと転落するよりは、死を一つの結末とする方が、三島由紀夫の『金閣寺』の炎上のように、はるかに美しい。だから、ジーン・ウェブスターの『あしながおじさん』の後日談を考えると、ぞっとする。マイク・ニコルズ監督の『卒業』についても同じこと。ダスティン・ホフマン演ずるベンジャミンがキャサリン・ロス演ずる花嫁を強奪したところまではいいけれど、その後に続くのは、単調な日常生活しかない。だから、あの映画はハッピーエンドというよりはむしろ、熱烈な恋愛が淡々たる日常性へと転落することを予兆させる悲劇なのだ。三島由紀夫の『真夏の死』では、伊豆の海岸で二人の子どもを失った女が悲劇から、時の経過で癒やされ、悲劇の女主人公のカタルシスの萎えた空虚から、再び悲劇の到来を心待ちにするところまで描かれている。こうした小品にも三島由紀夫の非凡の躍如がある。
 三島由紀夫の『春の雪』を読み終えて感じたことは、ただただ空恐ろしさだけ。悲劇でも、ハッピーエンドでもない恋愛小説――形ばかりの中身のない、とってつけたような恋物語、それから感じ取られたことは暗澹とした、自刃に傾斜してゆく作者の情念の世界だけ。作者は、死をも一つの道具とし、本来なら作者自身も、この小説を書き終えることによって、どこかしらを抹殺しなければならないのに、作者は全く無疵。その人間らしさの全くない、どす黒い作者の想念の異様さだけが『仮面の告白』のように印象に残った。この小説は、ただただ暗い。無機的で、空恐ろしい。川端康成は、
「ああ、よかったと、ただただ思うふ」
などと言っているが、どこがどう良かったのか、わたしにはさっぱりわからない。『伊豆の踊子』の最後を、踊子に「いい人は、いいね」と言わせて終わらせる軽いハッピネスで満足する川端康成は、ノーベル文学賞を受賞した後、三島由紀夫の嫉妬に耐えかねて自死せざるをえなかったのかも知れない。そこで、何の脈絡もなく、わたしの耳の奥にイミテーション・ラヴの楽曲が流れる。そこで歌が生まれる。

  夜には優しい言葉 あなたは囁いていた
  朝には冷たい言葉 あなたは平気で言うのね
   imitation love for me
   imitation love for me
   わたしはいらないわ そんな愛は
    小さくても 本当の愛が欲しい
 la, la, la, love for me
 la, la, la, love for me
la, la, la, la, la, love for me
la, la, la, la, la, la, la, la, la, la, la
la, la, la, la, la, love for me

  愛しているよな素振り いつのまにか身について
  愛してくれよと言えば わたしは本気になれない
   imitation love for you
  imitation love for you
   あなたに捧げたい みてくれだけ
    人の目には 本当の愛に見える
  la, la, la, love for you
  la, la, la, love for you
la, la, la, la, la, love for you
la, la, la, la, la, la, la, la, la, la, la
la, la, la, la, la, love for you

  嘘には鋭い刺が ささくれ立っているけど
  時には野薔薇の香り 優しく心を包む
   imitation love for us
   imitation love for us
   二人が知ってれば それでもいい
    仕方がない 本当の愛でなくて
  la, la, la, love for us
  la, la, la, love for us
la, la, la, la, la, love for us
la, la, la, la, la, la, la, la, la, la, la
la, la, la, la, la, love for us

  ゲームのルールを知って しまえば逃れられない
  これから本当の愛に 出逢ったとしても駄目ね
   imitation love for all
   imitation love for all
   一体どれが愛 分からないわ
    見せかけだけ 本当の愛はあるの
  la, la, la, love for all
  la, la, la, love for all
la, la, la, la, la, love for all
la, la, la, la, la, la, la, la, la, la, la,
la, la, la, la, la, love for all

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

土岐明調査報告書『千鶴子の日記』一月二十五日

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投稿日:2022/04/01 08:11:17

文字数:4,518文字

カテゴリ:小説

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