凛歌は、朝から顔色が悪かった。
まるで、超長距離寒中水泳でもしたかのように頬が青ざめ、時折何かを警戒するように周囲に気を配る。
こんな険しい表情は、出逢った頃に黒服から逃げ回ったあの時以来だった。
「じゃ、帯人、仕事行ってくる。帰り、ちょっと買い物してくるから。留守番、頼むな。」
「まだちょっと早くない?それに、買い物?だったら一緒に・・・。」
凛歌の表情が曇る。
「悪い、下着買うんだ。流石について来てもらうわけにいかないっしょ?貧乳で、ブラサイズ見られたらちょっとヘコむし。」
おかしい。
普段なら、凛歌は自分の体型を口にするとき、もっと落ち込む。
こんなにカルい口調で言ったことなんて、これまでになかった。
だが、僕に出来るのは凛歌を見送るだけ。
凛歌が、本当に隠し通そうとするならば、僕に露見するような粗雑な隠し方はしないからだ。
家を出、革製のシガレットケースから携帯を取り出す。
以前、母と一緒にトルコ旅行に行った際に購入したものだ。
この家に喫煙する人間はいないから、自然、別の用途に使用されることになる。
二つ折りの携帯を開き、登録してあるナンバーを呼び出し、コール。
因みに、相手には3コール以上待たせたら殺すと言ってある。
2コール半で、相手が出た。
『珍しいですね、お嬢さん。貴女から私に連絡が入ることは、金輪際ないと思っておりましたし、望んでいたのですが?』
忘れることなど出来ない、声。
私の大事な帯人を、よりにもよって『欠陥品』扱いしやがった、あの黒服だ。
「こっちだって用がなけりゃ連絡なんてしてねーよ、多賀根サン。単刀直入に言う。用意して欲しいものがある。あんたなら、手に入るだろう?」
歩きながら、誰もこちらを注視していないのを確認し、それでも声を潜めて『それ』を口にする。
『・・・・・・・・・・どこで、それを知りました?』
「あんたの考えてるとおりだよ。私の周囲に、あそこにいた存在なんて他にいないだろ?大丈夫だぁいじょうぶ、誰にも言わないから。あんたはただ、それを今すぐこれから言う場所に持ってくればいい。拒否ったら・・・・・・どうなるか、判るよな?」
にやり、と相手からは見えていないだろうが、極悪人の笑みを浮かべてみせる。
「ブツは手元にあるんだろ?どうせ非合法のシロモノなんだから、とっとと寄越しとけって。別に、証拠が残るような使い方はしないから。」
『まあ、貴女がそれを使って破滅するのも一興かもしれませんね、お嬢さん。どこへ、持って行けばよろしいのですか?』
「話がわかるじゃないか。場所は・・・。」
多少の嫌がらせ目的で、百貨店の女性用下着売り場に呼び出す。
まぁ、これでヘソを曲げられてモノが手に入らなかったりすると、それはそれで困るのだが。
黒服から受け取った、ずしりと重いそれをエゾシカ革のリュックの、底に収める。
そのモノの名は、デリンジャー。
世界最小の拳銃。
そして、それに込められる、小さな灼熱の暴力が1ダース。
それは、明らかに何かを『殺す』ための道具であった。
職場の窓から空を見上げると、灰色の緞帳。
空気の中にはたっぷりとした水の匂いが含まれており、ぽつぽつと雨が降り出していた。
その時私は、傘を忘れたことをほんの少しだけ後悔したが、それだけだった。
驚かされたのは、終業30分前。
リビングの大窓から、サイクリングロードの向かい側、見慣れたシルエットが眼に飛び込んできた。
「帯人!?」
雨の中、こちらを見て立っている。
腕の中に黒い傘を抱いて、それを差せば少しはマシだろうに、ただ雨に打たれている。
「すいません、ちょっと抜けます!」
年上の同僚に声をかけ、外に出る。
雨は、ばらばらと本格的に降り始めていた。
「帯人!」
声をかけると、ようやくこちらに気付いたらしく、顔を上げる。
顔面蒼白もいいところだった。
「帯人、お前、雨ダメだろ!?」
私の声は、半ば悲鳴に近かったと思う。
腕を引いて、ホームの中へ。上司に断りを入れて休憩室に放り込み、バスタオルで水気を切る。
軽い既視感に襲われた。
これはまるで、最初に出逢ったときのようではないか。
「凛歌、傘、忘れてたから・・・。それに、雨、大丈夫だったし・・・。」
私なら、大丈夫なのに。
うっすらと口元に笑みを浮かべる帯人が、愛おしかった。
その頭を、胸にしっかりと抱きしめた。
「とにかく、あと30分であがりだから、それまで待ってて。寄り道しないで、一緒に帰ろう。」
フロアに戻ると、皆・・・特に、お婆ちゃん連中からの質問攻勢が凄かった。
「あの人が、凛歌ちゃんのいい人なのねぇ・・・。」
「前に、同じところでこっちを見てたものね。」
「恋人さん、可愛い人ね。右目は、どうしたの?」
「私たちに見せ付けちゃって、この子は・・・・・・。」
などなど。
それを30分間いなし続け、定時でタイムカードを切る。
そのまま、帯人を引っ張って外に出た。
ひとつの傘に、ふたりで入って歩く。
雨音が、全ての雑音を消し去っていて、凄く静かだった。
「凛歌、迷惑だった・・・?」
手を伸ばし、不安げな帯人の頭を撫でる。
「そんなわけ、ないでしょ。ちょっと驚いたけど。でも、無理しなくて、いいから。」
帯人は、頭に伸ばされた私の手に自らの手を伸ばし、躊躇いがちに握ってくれる。
大きな手に握りこまれて、温かな安心感が胸の中に広がった。
「あのね、雨、本当に大丈夫。昨日、夢に凛歌が出てきたんだ。」
どうやら、昨日の事を断片的にでも覚えているらしい。
「凛歌がね、僕が本当に恐れていたことを、全部駆逐しちゃった。だから、もう大丈夫なんだよ。」
昨日私は、会いに行ったんだよ。
その言葉を、飲み込んだ。
帯人が悪夢を克服できたなら、いいじゃないか。
「ねぇ、帯人。」
うんと背伸びして、内緒話のように耳元に唇を寄せる。
今なら、照れくさいことを言っても雨音がかき消してくれるような気がした。
耳元に、囁く。
「大好き、だよ。」
僕も、と雨音の中から、低音が答えた。
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