十二 最終報告書

 土岐は事務所から木曜日の午前中に再び鈴村に電話を入れた。
「おはようございます。土岐です」
「あっ、おはよう」
「どうでしたか、報告書の方は・・・」
「まだ、パラパラと見ただけだけど、砂田君に聞いたら、
『いいんじゃないか』
って言ってたよ。
『たいしたもんだ』
ってさ。
『さすが、岩槻ゼミのドクターだ』
って感心していたよ。まあ、お世辞だと思うけど・・・」
「そうですか、ありがとうございます。それじゃ、このファイルをこれから、ACIに送信します」
と言って電話を切った。それから、添付ファイルで丸山のアドレスに送信してからコピーを1部プリント・アウトして、金井に提出した。
「とりあえず、こんな報告書を提出しました」
 金井はコピーを指をなめながら一枚ずつめくる。
「へーっ、たった3日で書き上げたの。全部で四十ページもあるんだね」
「それで、事後承諾で申し訳ないんですが、わたしの肩書きは扶桑総研の嘱託ということでよろしいでしょうか」
 そう言うと、金井は眉根をすこし寄せて、しばらく考えて、
「それは、扶桑総研の要望なの?」
と聞いてきた。
「いえ、ACIの要望です。扶桑総研が財務分析をしていることに意味があるとかで・・・」
「まあ、うちとしては、契約書通りお金が入ってくるのなら、とくに差し支えないですが・・・」
と言いながらも、右の眉毛をすこし吊り上げて、なんとなく釈然としない面持ちだった。
 翌週の月曜日、土岐の東亜クラブのアドレス宛に丸山から報告書全体の添付ファイルが送信されてきた。
〈土岐明様、出張ならびに報告書執筆ご苦労様でした。おかげさまで、予定通りに報告書が完成し、さきほど現地の扶桑物産の南田さんに送信したところです。ハードコピーは南田さんが製本して、国鉄省に提出することになっています。なお、同じものを添付ファイルとして送信しましたのでご確認ください。丸山憲一〉
 さっそく、添付ファイルを開いてみた。タイトルは、
〈Final Report for Consulting Engineering Services for Electrification of the Suburban Railway Network〉
となっていた。執筆責任者は、
〈Asian Consultants International in Association with Electric Consulting Co. Ltd. and Fuso Research Institute Co. Ltd.〉
となっていた。
 プリンターのインク切れと紙切れもあって、全部プリント・アウトするのに三十分以上もかかった。A4で四百ページを超える大部だった。とりあえず第8章の仕上がり具合をチェックしてみた。印刷はページが通し番号になり、フォントが変わっている以外は、土岐の草稿そのままだった。念のため、一ページずつ確認した。本文が終わり、最後のページをめくると、
〈Station Abbreviations〉
の一覧表になっていた。世界のエアポート名と同じ要領で、百近い駅名が3文字のアルファベットの略称になっていて、その正式駅名がアルファベット順に並んでいた。その次のページは裏表紙で、ACIのロゴがプリント・アウトされていた。土岐はもう一度、目次を確認した。土岐が草稿で最後のセクションの資金返済計画の後ろに付論としてつけた、
〈Appendix〉
が消えていた。もう一度、本文の末尾を見てみたが、矢張りアペンディクスは存在しなかった。ACIが意図的に削除したことは明らかだった。そのことに気付いたとき、胸の中をかきむしられるような疾風が渦巻いた。鼓動が早くなり、手首の脈動が隆起と陥没を繰り返しているのが目視できた。事務椅子の上で、上半身が椅子の軋みとともに上下左右に揺れ動くのが自覚できた。やがて、荒くなった呼吸音が耳に聞こえてきた。こめかみの血管が膨張するたびに耳の奥で頭蓋を締め付けた。心臓の鼓動が胸板を叩いている。事務室の明るさが空々しく感じられた。静かな空調音の流れる空気の中をゆっくりと浮揚しているような感覚に囚われた。
(これで九十万円の成功報酬はなくなった。この冬のボーナスが40万円足らずだから、母の白内障の手術は来年の夏のボーナスを待ってからとなる。しかし、来年の4月からは、年俸制になるから、ボーナスはなくなる。母は借金を頑固なまでに嫌がっている。月々の給与を少しずつ貯めれば、夏あたりに手術できるかもしれない。しかし、その間にも白内障は悪化する)
と思いながら、空港に見送りに来たシュトゥーバとその子どもの顔が脈絡もなく脳裏に浮かんだ。
(このままでは、プレゼンテーションの席でシュトゥーバに約束したことを破ったことになる。空港でも念を押された)
 しかし、約束を守らないことがどういう意味を持ち、どういう結果をもたらすのか、土岐には想像できなかった。
(おそらく、シュトゥーバはぼくを非難するだろう。非難して、その後、どうするか?約束を果たすようにと、メールでも送信してくるか?それとも、黙ったままぼくに対して恨みを抱き続けるか?あるいは、抗議のメールをACI宛に送信してくるか?そうしたとしても、ACIはそのメールを握りつぶすか、適当な返信メールでお茶を濁すだろう。それよりも何よりも、このままでは実質的にぼくのレポートは組織の論理に押しつぶされたことになる。それは単にACIという一企業だけではない、官僚組織に牛耳られている国家の論理とODAに群がる産業界の論理でもある。それらに単年度契約の芥子粒のような財団法人の一研究員が、徒手空拳で逆らうことに何の意味があるのか?・・・しかし、営利企業に就職しなかったのは、そうした組織の論理に真理に基づく信念を曲げられるのを忌避したかったからではなかったのか?そのために母と共にあえてぎりぎりの生活をしてきたのではなかったのか?母はそれを知っていて、これまでぼくを支えてくれたのではなかったか?このままでいることは母の支援にも背くことになるのではないか?)
 土岐の想念はざらついた胸の中を堂々巡りした。土岐は早速、
〈Kakusifile〉
宛てにメールを送信した。
 @本日、最終報告書の全文がACIから送信されてきました。草稿段階では、プロジェクトを意図的に黒字にするために設定した前提を付録として章末に添付しましたが、ACIによってすべて削除されました。この前提を報告書に盛り込むことは、現地国鉄の財務副部長の要請でもあったのですが、ACIはそのことを承知で削除したようです。現時点では、プロジェクトを破綻の方向に誘導することは困難な状況です。御指示があれば、返信をお願いします。念のためACI~送信されてきた最終報告書を添付します@
 メールを送信してから土岐は考えた。
(これでかりに残額の90万円が入ってこないとしても、別のプロジェクトの財務分析のアルバイトが扶桑総研経由で来年以降期待できるかもしれない。しかし、アペンディクスを削除されたまま、それを甘受することは、自分の現在ある状況を否定することになるのではないか?大学のゼミで2年間、大学院で5年間、客観的で正確なプロジェクト評価を追及することを研究してきたのではなかったか?)
という思いと、毎日テレビをしがみつくようにして見ている母の姿を哀れと感じる思いと、
(その思いを晴らすために何らかの行動を起こすことにどれほどの意味があるのか?)
という思いの間で、やじろべえのように揺れ動いていた。その意味付けに確固たる判断がつきかねていた。
(かりに行動を起こすとして何ができるか?丸山にアペンディクスの復活を申し入れるか?それによって丸山の立場を悪化させることになるかも知れない。扶桑総研とACIの今後の取引がなくなり、鈴村に迷惑をかけることになるかもしれない)
 土岐がアペンディックスの復活を申し入れたとしても、丸山には何もできないであろうことが想像できた。決定権を持っているのはおそらく王谷だろう。王谷が編者としての責任でアペンディクスを削除したのであれば、王谷の考えが変わらない限り、アペンディクスの復活はありえない。王谷は現地にいるときから、プロジェクトの推進にマイナスとなるような情報は記述しないようにとの指示を土岐に出していた。報告書はすでに扶桑物産の南田の手によって現地の国鉄省に提出されているであろうことが予想された。
 何をどうすればよいのか、思いつかない状態がその日の午後ずっと続いた。国鉄省の作業所で出会ったエンジニアの人々の顔が走馬灯に照らし出されて、頭の中を回転していた。これで仕方ないのではないかと思う次の瞬間、何かをしなければならないという思いが腹の底から沸き立った。
 終業時刻間際に、ウエッブ・メールを開けると、
〈Kakusifile〉
から作業報告に関する次の指示が入っていた。
 @財務分析、ご苦労様でした。残りの九十万円については、もうしばらくお待ちください。これは、最後の依頼ですが、当方でもこのプロジェクトについて検討したところ、ODAの対象とすべきではないという結論に至りました。とくに、ACIについては、従来から外国政府に賄賂を渡して、海外プロジェクトを受注するなど、不明朗な情報が錯綜しており、今回のプロジェクトは金額的にかなり巨額になることが予想されるので、野党や国税庁や会計検査院の追及の対象になることを事前に防ぐという観点から、現地での大使館やプロジェクト・マネージャーの容喙を排除した正しい財務分析を現地国鉄側に開示してください。方法は問いません。その結果報告をまって、残金と現地での経費をお支払いいたします。以上@
 
 シュトゥーバの粗末な模造紙のような名刺を見ながら、土岐は当初の財務分析内容をどうやって開示できるか、考えた。現地国鉄への報告書にその内容を訂正したうえで盛り込むことは、王谷の手前、不可能であるように思えた。財務分析の内容が誤りであったという手紙を、国鉄総裁あてに書いた場合、それが理由でプロジェクトが頓挫したとなれば、扶桑物産の南田や現地大使館の白石や西原がその原因を突き止め、ACIから扶桑総合研究所を通して、激しいクレームの付くことが予想される。扶桑総合研究所が契約書の忠実義務違反だとして、土岐の人件費を支払わないと言って来る可能性もある。ACIが扶桑総合研究所への支払いを拒めば、扶桑総合研究所も東亜クラブへの支払いを拒まざるを得なくなるだろう。そうなれば、その原因は土岐が国鉄総裁宛てに書いた手紙の内容にあるという理由で、東亜クラブを1週間不在とした間の給与返済を求められるかもしれない。
 しかし、何もしないで手を拱いていれば、残金の九十万円が受け取れず、シュトゥーパの息子にあげた数万円も経費として請求できなくなる。
 
 勤務時間が終わり、帰宅時間となっても、土岐は妙案を思いつかなかった。
土岐は窓の外の真っ暗な東京湾をぼんやりと眺めていた。思案が極まって、何も手に着けることができなかった。金井の後ろのはめ殺しの分厚い窓の外に広がる空が漆黒に塗りこめられていることに気付いた。不意に体がなんとなく重くなると同時に、脱力感と空腹を覚えた。
 帰宅の電車に揺られながら、シュトゥーバが電化計画が財務的に破綻していることを見抜き、計画の頓挫を主張してくれることを願った。今になって、シュトゥーバの息子に、現地の物価水準からすれば、高額の現金を渡してきたことをあらためて幸いと感じた。ただ、現地の風俗習慣として、現金を直接渡すことは礼を失することになるのではないかという一抹の不安が土岐の脳裏をかすめた。国によっては、現金を直接渡すことは失礼となることもある。土岐は、車窓を流れる東京の風景に眼をやりながら、そうでないことをひたすら願った。土岐には願うこと以外にできることは何もなかった。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

土岐明調査報告書「フィジビリティスタディ」十二 最終報告書

閲覧数:26

投稿日:2022/04/07 08:22:51

文字数:4,938文字

カテゴリ:小説

クリップボードにコピーしました