第9章 資料の裏付け調査
 
 土岐はそこまで資料を読み込んで、資料に記載されている今田の住所であるホテル小林をたよりに、南千住に向かうことにした。九段下から東西線で竹橋、大手町、日本橋を経て、茅場町で日比谷線に乗り換え、北千住行に乗って人形町、小伝馬町、秋葉原、仲御徒町、上野、入谷、三ノ輪を経て南千住についたのは3時頃だった。今田が住所としていたドヤ街は駅を出て、ガードをくぐった泪橋の交差点から浅草方向に数分のところにあった。明治通りから一本裏通りに入ると、すべての電信柱に木賃宿の看板が張り出されている。裏通りの中央に立つと木賃宿の看板しか見えない。連れ込み宿のような名称や近代ホテルのような名称が重なり合うように狭い通りに林立している。空も通りも異様に狭く感じられた。土岐は通りの中ほどにあるホテル小林の玄関に立った。木造モルタルの建付けの悪い引き戸の奥に病院の受付のような木のカウンターがあり、腰の高さに管理人の小窓があった。その小窓を少し開け、声をかけた。しばらくして、首にピンクのうすいスカーフを巻いた銀髪の老婆が顔を出した。胡散臭い奥まった目つきで土岐をまぶしそうに見上げる。話し出すそぶりがない。
「今田さんのことで、すこし話をうかがいたいんですが、・・・」
「・・・イマダ?」
と老婆は巾着のような口でガムをかむようにおうむがえす。
「3か月ぐらい前まで、ここに住んでた人です」
「知らないね」
と老婆はしわだらけの指で小窓を閉めようとする。
 土岐はとっさに右手を差し入れた。
「スポーツセンターで殺された人なんですけど、・・・」
「・・・ああ。・・・それで?」
「どんな生活してた人か、・・・うかがいたいんですが、・・・」
「・・・そんなこと知らないよ」と老婆はつぶれたような爪先で小窓を閉めたがる。
「誰か知ってる人、・・・いませんか」
「・・・そのへんで、聞いてみたら、・・・」
と言うなり、老婆は小窓をぴしゃりと閉めた。
 小窓のある部屋の後ろに赤茶けた鉄製の狭隘な外階段がある。階段の向かい側に一間おきにこげ茶のベニアのドアが三つ並んでいる。一番手前のドアをノックしてみた。間隔をあけて二回ノックしたが、返答がない。真ん中のドアもノックしてみたが、やはり返答がない。一番奥のドアをノックするとスウェットの老人がゴマ塩の無精ひげで出てきた。目ヤニにまみれた眼が、何?と言おうとしている。部屋をのぞくと三畳ひと間のようだった。
「殺された今田さん、・・・ご存知?」
「・・・ああ、『死ニタイ』ね」
と言いながら土岐の手元のあたりを見まわしている。
「死に体って、・・・相撲の?」
「・・・いいや、やつの口癖だ。あいさつ代わりに、『死にたい、死にたい』と言うのさ。こっちまで滅入ってくる。このへんの人間に生き生きとしているやつはいないが、心の中でそう思っていても、ばんたび、『死にたい』と口に出して言うやつは、そうそういない」
「どんな生活してたか、・・・おうかがいできます?」
「・・・あん人は、この二階の部屋なんで、二階の連中のほうがよく知ってると思うけど」
と言いながらドアノブを握りしめている。ドアを閉める気配がない。その老人の情けないような表情をうかがう。情動がみられない。何を考えているのか土岐にはわからない。
「そうですか。そいじゃ、2階の人に聞いてみます」と言って、いったん通りに出た。自動販売機を探した。二軒先に缶コーヒーの自動販売機があった。千円札のしわを伸ばして缶コーヒーを二本買った。それからホテル小林に戻り、外階段で二階に上がった。鉄の手すりが赤錆にまみれている。手のひらが真っ赤になった。ジグソーパズルのピースのようなひびの入ったコンクリートの狭い廊下の片側に一階と同じようなべニアのドアが三つ並んでいた。亀裂の入った一番手前のドアをノックすると薄汚れたTシャツの中年男が出てきた。
 土岐は買ってきた缶コーヒーを男の目の前に差し出した。
「ちょっと、お尋ねしたいんですが、今田さん・・・ご存知で?」
「・・・殺された?」
「ええ・・・」
と言いながら部屋をのぞき込む。一階と同じ造りだ。
「・・・隣にいたから知ってるよ」
と言いながら土岐の手元の缶コーヒーを注視する。
「立ち話もなんですから、近くの喫茶店でコーヒーでも飲みながら、いかがですか?」
「・・・いいけど、・・・」
と言いながら、男の眼は缶コーヒーと土岐の顔を往復する。
「これは、後で飲んで下さい」
と言って缶コーヒーを二本差し出す。男はサンダル履きで部屋の外に出てきた。カーキ色の薄汚れた作業着を着ている。汗の染みついたにおいがする。
 ホテル小林から三分ばかり歩いた。泪橋の交差点の埃っぽい喫茶店で話すことになった。蒸気機関車の客車にあるような骨董ものの背の高い焦げ茶のボックスに腰掛けるなり、土岐は切り出した。
「そいで、今田さんはなんで殺されたか、・・・心当たりありません?」
「さあ、あいつを恨んでいるやつはいなかったと思うけど」
と男はメニューに見入っている。
「ほう、性格のいい人だったんですか?」
「・・・性格?」
「・・・たとえば、・・・いつも気を遣うとか」
「そんなもん、ここじゃ、価値がない」
と言いながら男は店の中年女にホットコーヒーを注文した。土岐も同じコーヒーにした。
「じゃあ、・・・だれからも恨まれていなかったのは、・・・どうしてですか?」
「・・・やつは、楽な仕事を、みんなに回してくれてたのさ」
「あっ、・・・今田さんは手配師だったんですか」
「やつはヤクザじゃなかった。舎弟でもなかった」と男は垢にまみれた手相を左右に振る。
「・・・どんな仕事を回してたんですか?」
「・・・健康診断の仕事」
と言いながら男は落ち着きなく店内を見回している。
「・・・健康診断?」
「・・・なんていうか、忘れちまったが、血を抜いて、薬をのむやつ」
「ああ、・・・治験ですか」
「うん、多分そうかもしれない」
と言いながら男は出てきたコーヒーにミルクと砂糖を入れる。土岐はブラックのまま、一口コーヒーを含んだ。土岐のコーヒー皿にあるミルクポーションとスティックシュガーに男の垢にまみれた手が伸びた。土岐はコーヒー皿ごと手渡した。
「・・・で、今田さんは、どんなふうに仕事を回してたんですか?」
「立ちんぼは、冬は、つらいのよ。日の出前から、そこのバス停近くに並んでさ。手配師のトラックが、来るのを待つのよ。日も出てないから、真っ暗で寒いったらありゃしない。風でもふきゃ、またぐらのソーセージとボールが、ちぢみあがるのよ。それが、おととしの冬から、お日様が出てから、健康診断を受ける仕事でさ。薬飲んで、一回三千円から一万円ももらえる。看護婦がヘマすると、二回も三回も血ぬかれて、痛い思いするけど、日雇いのきつい土方仕事にくらべりゃ、天国よ。去年一年、やつが立ちんぼをやってるところ見たことない。やつが死んでから、めっきり血抜きの仕事が減って、注射あとが消えるようになった。いっときは、毎週血抜かれてたから、針のあとが消えなくって、道でお巡りに出くわすと、ヤクやってるのと間違われるんじゃないかって、ひやひやでさ」
 土岐は男が突き出した左腕の注射痕を注視した。皮膚が盛り上がり、ひきつっている。
「・・・どこで、血を抜かれたんですか?」
「・・・駅前の、千寿南クリニック・・・」
「どうやって、仕事をまわしてたんですか?」
「・・・若くて元気な奴にはあまり声をかけなかったな。最初は健康診断を受けないかって声かけてきて、・・・受けるだけで、時給千円ぐらいもらえた。健康診断に合格して、血を抜かれて、薬を飲むようになると、半日で一万円ぐらいもらえた。おれも腰痛があるから、ありがたい仕事だった。やつはだいぶカネをため込んでいて、敷金、礼金、前家賃がたまったから、もうすぐちゃんとしたアパートに引っ越すと言ってた」
「・・・今田さんの身長と体重、・・・どれくらいか分かります?」
「おれよりちょっと大きめだから百七十近くあったかも。体重は、あんま太ってなかったから七十キロはなかったんじゃないかな」
と言いながら男がコーヒーカップの底を覗き込んだ。男のコーヒーがなくなっていた。男はカップの底の残滓を音を立てて吸い出している。
 土岐はこわばった茶のビニールシートから腰を上げた。礼の会釈をして伝票をわしづかむとレジに向かった。九段下あたりのコーヒーの半額ほどだった。会計を済ませながら店員に千寿南クリニックの所在を尋ねた。要を得ない。駅の近くとしかわからない。

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土岐明調査報告書「プラセボ」第9章・資料の裏付け調査

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投稿日:2022/04/02 09:36:34

文字数:3,549文字

カテゴリ:小説

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