そこには冷たい顔をした、見知らぬ少女が立っていた。その顔立ちこそ僕が忘れるはずもない、今までに多くもの思い出を作ってきた少女、キクのものであったが、その凍りついた、完全に生気を失った冷酷な表情と視線は、僕の知るキクのものではなかった。
 「キク・・・・・・? ねぇどうしたの。返事してよ。」
 彼女は答えなかった。完全に僕の声が聞こえていないのか、あるいは聞こえているにもかかわらず無視しているか、どちらにせよ僕と鈴木君は彼女が異常な状態にあるとことを一瞬で理解した。
 「キク?!」
 「ウッ・・・・・・ウゥゥゥ・・・・・・。」
 鈴木君が呼びかけたとき、キクから聴いたこともない低くおぞましい呻き声が響き、その姿勢が低く屈んだ。
「なんかおかしい・・・・・・!」
 鈴木君が僕よりも先にキクの元に歩み寄った。当然の行動だったが、僕は即座に彼がしていることの危険に気づいた。
 「鈴木君、待って!」
 「え。」
 僕が叫んだ瞬間、屈んでいたキクが急に顔を上げた瞬間、風のように走りだしその体を鈴木君の腹部に叩きつけた。 
 「ぐぉあッ!」
 何が起きたかも理解出来ないまま、鈴木君の体が僕の横をすり抜け、数メートル宙を飛び頭部から壁に激突した。
 「鈴木君!」
 彼の元に駆け寄ってみると、完全に失神していた。
 「キク・・・・・・どうして・・・・・・?」
 彼女に向かって悲痛な声を上げても、その冷酷な表情は微動だにしない。
 「ヌゥウウウゥ!!」
 「!」
 狂気に満ちた咆哮の瞬間には、彼女の体が目前に現れ僕の首を握り締め、壁に押し付けていた。キクの体にここまでの筋力は備わっていない、一体、何故彼女のか細い体からこんな怪力が出るのか、そして何故、彼女は僕達に牙を向くのだろうか?
 恐るべき力で首ごと気道と血管を握り締められた僕には、もはや考えることもできなかった。視界が滲み、意識が闇の中に引きずられていく。死の中に引きずられていく。
 僕には、こんな理不尽な死が、運命として待っていたのだろうか。最愛の人に殺されるという、かくも残酷な最期が。
 キク・・・・・・どうして・・・・・・。
 「ダメだ!!」
 僕ではない誰かの叫びが耳に届いた瞬間、僕の首を握り締めていた腕が引き剥がされ、キクの体が大きく飛び引いた。
 死の淵から呼び戻された僕の前に、黒いコートの影が庇うようにして立ちはだかった。
 「博士、大丈夫ですか。」
 その姿は紛れもなく、キクと共に調整を受け機能停止していたはずのタイトだった。
 「タイト! でも、どうして?」
 「分かんないです。なぜか・・・・・・。」
 タイトが言いかけた瞬間には、すでにキクがその体に掴みかかっていた。自分より体躯の大きな者に凶暴なまでに攻撃を仕掛けるその様は、もはや狂った獣そのものだった。
 「キク、止まって!」
 タイトも力でキクを押しとどめようとするが、圧倒的な力の前に屈し、強烈な音を響かせながら顔面に殴打を受け、転倒した。
 「一体どうしたら・・・・・・。」
 途方に暮れていたその時、床に伏したタイトにキクが追い打ちを仕掛けようとした瞬間、彼女の首から伸びるコードに電流が走り、蒼い稲妻が彼女の体を蹂躙した。
「ウァアアアッ!!」
 頭を抑え、その場に膝をつくキク。この機を逃すまいと、僕は彼女の体にしがみつこうとした、だが、即座に立ち上がったキクの足が上空に舞い上がった瞬間、剣が流麗に振るわれるかのような動作で僕の脇腹にそのつま先が叩き込まれ、一瞬体と意識が吹き飛んだ。
 「博士!」
 タイトが抱き起こした。このままでは、本当にキクに殺されてしまう!
彼女を止める方法・・・・・・。
 「そうだ、タイト! あのケーブルを!」
キクの首に繋がれたままのケーブルから電流が走ったとき、彼女が苦痛に膝を付いた。もしかしたら、調整中にあのケーブルが漏電を起こして調整が失敗し、キクの精神に重大な悪影響を与えてしまったのかもしれない。今も尚、キクがあのケーブルに苦しめられているのだとしたから・・・・・・。
 「あれを外せば、少なくともキクを楽にしてあげられるかもしれない。タイト、手伝って!」
 「分かりました。」
 僕とタイトは意を決し、暴力を撒き散らす猛獣に飛びかかった。狂気の中に閉じ込められた、キクを助け出すために。

◆◇◆◇◆◇

 「ハッ、すごい展開になってきたなーこりゃ。」
 モニター越しに、この惨事を眺めながらランスは笑った。
 私はその言動にもはや眉をひそめる事もせず、黙ってイスから立ち上がりモニタールームから出ようとした。
 「おいどこに行くんだよ大佐。ここからでも十分見られるだろうに。ホラ見ろよ。二人共必死だぜ。」
 あまりに事を飲み込めない発言には、もはや溜息すら出ない。いや、悪ふざけが度を超えている。それが許される範疇が、ランスはまるで理解出来ていない。だからこそこのような事態に陥った。
 彼が調整用プログラムと偽ってあの二人に流し込ませたもの。それは、一歩間違えれば二人の精神すら破壊してしまう凶悪なプログラムだった。そして今、その一歩を間違えた彼女、キクが、そのプログラムに自我を壊され、凶悪な獣となって網走博士達に危害を加えているのだ。しかしタイトも加わった今、二人は彼女を止め、そのプログラムの駆り立てる破壊衝動から救いだそうと試みている。
 「止めに行きます。」
 「待てよ!」
 ドアノブに手を掛けた私の肩をランスは掴み、耳元に口を近づけた。
 「俺があんな物をわざわざ調整とウソついてまで混入させた理由は分かってるよな? これは、そいつと同じなんだ。ご本社様と防衛省のご意向なんだよ。」
 「信じられない・・・・・・人の命が危険に晒されているというのに!」
 「ここであんたが助けに行ったら、お偉方に背くことになるぜ。」
 「危険に晒された人をただ傍観し、見殺しにした。私はあなたを訴えられる。」
 「そんなものは簡単にもみ消されるぜ大佐!」
 これ以上の議論は時間の浪費と考えた私は、強引にランスの手を振りほどき、モニタールームから飛び出した。
 地下深くのモニタールームから、最速の移動手段であるエレベーターを使い、施設の研究室まで到達するには、七分程度。
 それまで持ちこたえてくれることを祈りながら、私はひたすらエレベーターに続く通路を疾走しながら、携帯電話を取り出した。

 ◆◇◆◇◆◇

 か細い指先が、まるで鉤爪を立てた猛獣の拳のような力を振り絞り、僕の体を壁に叩きつけた。部屋全体が揺れ、衝撃で蛍光灯が火花を散らす。
 「止めるんだキク!」
 叫びを上げたタイトがキクの背中に掴みかかり、首に繋がれたコードを引き剥がそうとする。吼え、もがき、暴れまわり、それを振り払おうとするキク。
 「君と戦いたくなんか無い!」
 その力を渾身の力で抑えつけ、硬直状態を保つタイト。
 「キク! 僕がわからないのか!!」
 僕に出来ることは彼女に僕の言葉がわずかでも届くことを願いつつ、呼びかけるだけだった。
 「博士! 早く、背中のコードをッ・・・・・・!」
 その瞬間、キクがタイトの拘束から逃れ、僕の目前に飛びかかった。怪力の前に為す術も無くなぎ倒された僕は、最期の抵抗として、持てる力の全てを振り絞ってキクを抱きしめた。
 「ウォ! ウォォオオオオ!」
 「思い出してキク! 僕だ!! 博貴だ!!!」
僕とタイトの必死の呼びかけも虚しく、もがき続けるキクの力で、僕はキクごと床を転げまわり、壁に激突した。
 「ぐぁっ!」
 全身を駆けずり回る激痛。最愛の少女に打ちのめされ、胸の中に刺す痛み。二重の苦痛に苛まれつつも、僕はキクを放さない。こんな痛みより、キクを助け出せない方が、命を落とすよりも苦しいからだ!!
 「タイト! 首のコードを!」
 「はい!」
 上に背を向けたキクの首にタイトがつかみかかり、そのケーブルを握りしめた。その瞬間、コードから強烈な破裂音が響き、僕達の体を高電圧の電流が迸った。
 もはや苦悶の声も出ない、凶悪な苦痛。電流は僕の胸の中に突き進み、その中の鼓動さえも鷲掴みにしているかのよう。
 それでも、僕はキクを放さない。放すはずがない。この程度で!
 「うぅっ・・・・・・ハッ!」
 タイトが咆哮を上げた瞬間、キクの首の後ろで火花が弾け、黒い荒縄のようなケーブルが宙に舞い上がった。タイトがケーブルを引き剥がしたのだ。
 「キャアアアアア!!!」
 その瞬間、僕の腕の中からキクが飛び上がり、頭を抱えて悲痛な叫び声を揚げ出した。
 「キク?!」
 タイトが彼女苦しむ彼女に近づいた瞬間、振り払われた腕がタイトの顔面に直撃した。
 「うぁあああッ!」
 タイトは顔面を押さえ、キクは頭を押さえ、互いに苦痛の叫びを上げ、その場に倒れかかった。僕はどうにか二人の体を受け止めたが、キクの意識は既に無く、タイトは片目を押さえながら呻き声を漏らしていた。
 「一体・・・・・・どうして・・・・・・こんなこと・・・・・・。」
 途切れ途切れの呼吸の中、絶望と虚無に満ちた呟きを履いたその時、研究室の外から数人の足音が駆けつけ、扉が開け放たれると、数人の警備員と共に世刻大佐の姿が現れた。
 僕は言葉を忘れていた。
 二人を抱え、跪いた僕の意識は、ただ空白に埋め尽くされていった。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

Eye with you第十九話「呑まされた凶夢」

閲覧数:225

投稿日:2010/08/31 17:11:03

文字数:3,868文字

カテゴリ:小説

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