第六部 肯定者
市場でくまなく店を回り、レンが見守る中必要なものをちょくちょく買って、そして最後本屋での用事を済ませた時には、もう日がとっぷり暮れていた。
「すいません。なんか思ったより時間かかっちゃって。に、荷物も持って貰ってしまって」
召使として厳格に育てられてきたレンだ。主では無いとはいえ、女性に荷物を持たせるわけにはいかなかった。
「気にしないでください。荷物は大した量じゃありませんし、バーもこの時間になってからじゃないと開きませんから」
レンは王宮からの官給品で全ての生活雑貨を済ませているので、外で金を払ってまで欲しいものはなかった。自然、一切の買い物をしなかったことが、アズリをより恐縮させているようだった。
「あの、そこはわたしに奢らせてください。高価なネックレスも買って頂いて、もっと高価なブローチも貸して頂きましたし」
「ブローチは僕が付けてもらったんですよ。ネックレスはその報酬のようなものですから、貴女が礼を言うことではありません」
にべも無く言い切る。
「ですが」
「失礼ですが、所持金はおいくらです?」
尚も取り縋るアズリの言葉を断ち切って、レンは財布の中身を訊ねた。
「え、っと、――くらいですけど」
律義に財布の中身を確認して答える黄緑の少女。その金額はレンの予想よりは多く、確かに普通に考えれば二人で酒を飲むに十分なものだった。
普通じゃないのは、レンの一晩のアルコール摂取量だ。
「僕の飲酒量って、ちょっと尋常じゃないんですよ。貴女の財布の中身全部使っても、ちょっと満足するには足りないんです。いいから、ここは僕が払います」
アズリの顔が引き攣る。
「ああ、心配しなくても酔ったりはしませんから」
「そう、なんですか?」
「ええ、二十年間生きてて、一度も酔った事は無いんです」
そうこう言っている内に、目当てのバーにつく。最近は来てないが、イルとよくお忍びで飲みに来ていた所だ。バーの経営者とはそれなりに話せたりもする。
「つきましたよ。どうぞ」
まあ、王都で一番上質なバーだろう。それに再びアズリは怖気づいたらしいが、黄緑の少女の手を取って引きずるように入店した。
「いらっしゃいませ。……お久しぶりですね、レンさん」
「ええ、本当に。アンドリューさん」
にこやかな営業スマイルで迎えてくれたが、手をひかれているアズリに気がつくと、朝王宮で飽きるほど見た驚愕が彼の顔に張り付いた。
「初めてのことですね、陛下以外の方とここにいらっしゃるとは。それも」
「僕が女性と出歩くことは、そんなに異常事態ですかね?」
カウンターにアズリを座らせ、レンも隣に腰を下ろした。
「三年以上お付き合いさせて頂いている、私でも初めてのことは確かですね。バーで綺麗な女性に誘われた時も、一度もそれに乗って無いようですし」
何を注文するまでも無く、ウイスキーのロックが差し出される。乾杯、という言葉は一切思いつくことはなく、一気に半分以上を喉に流し込んだ。レンの飲むペースを良く知っているバーテンは、早速次のものを裏で造り始めていた。
「アズリさん、何を飲みますか? あ、明日の仕事に差し支えない範囲で飲んでくださいね」
「もちろんです。あ、レンさんと同じものを、お願いできますか?」
アンドリューが固まる。まあ、彼が今レンに出したのは火がつくアルコール濃度なので、確かに十七歳の少女が飲むものではないだろう。
「割と強いものですが、大丈夫ですか?」
バーテンに視線を送られ確認を取る。しかしアズリは自信ありげに頷いた。
「大丈夫です。結構わたし、お酒強いんですよ」
まあ、ここまで言い切られれば、飲むなとは言えない。
「じゃあ同じものを。あ、僕はブランデーのロックください」
既に飲み終わったタンブラーを差し出すと、レンのものはタイムラグ無しに出てきた。因みにアズリの分が出て来る時に、三杯目をレンは飲み始めていた。
「あ、これ美味しいですね」
意外にもアズリはレンの最初の一杯と同じものを、旨そうに飲んでいた。
「へえ、女性はもっと甘かったり、果実のフレーバーが入っていたりの方が好きだと思っていました」
「もちろん、そう言うのも大好きですけど、こういういかにもお酒って言うのも美味しいですよね。レンさんは甘いのはお飲みにならないのですか?」
「甘みが強すぎて、アルコールの味がしないものはちょっと美味しいとは思いませんね」
「へー、あ、次これください」
「かしこまりました。レンさんは、こちらをお持ちしました」
「どうも」
このバーに来ると、レンはほとんど注文をしなくてもいい。アンドリューが勝手に、メニューにある物を片っ端から出してくるからだ。もちろんレンが好まないカクテル類を除いてだが。
元来飲食という物が好きなのだろう。アズリは心から幸せそうに次から次へとグラスを開けて行く。
それを見ているのが楽しくて、レンは彼女が好き放題注文するに任せていた。
アズリは生真面目な人間だ。そして飲む前にやんわりとだが忠告もしてある。そう思って、レンはそれ以上余計な口を挟まなかったのだが、もしこの場にイルがいたらこう言っていただろう。
お前と初めて飲んで、自分のペースを狂わされない奴はいない、と。
一時間に最低二十杯以上。その早さを目の前にすると、どうしても自分の飲み方がひどく遅く感じられると言うのは、心理学でもある対比効果というやつだ。それを今一つ理解していないレンは、彼女がしっかりと己のアルコール分解能力に合わせて飲んでいることを疑わなかった。
二時間後。完全に酔っ払った黄緑の少女は、レンの腕にしがみ付いて愚痴を零し始めていた。
「だーかーらですねっ! あの時は一枚目の計算が難しくて、二枚目の方の見直しが疎かになってしまったと言うわけです!」
酔っ払いに反論も適切な助言も無意味である。溢れんばかりの後悔を抱え、レンはアルコール由来ではない頭痛を覚えつつも、手もとのタンブラーを空にした。
「はいはい、それは大変でしたね」
新しいブランデーを差し出しながら、アンドリューもさすがに苦笑いを隠せない様だった。しかし、アズリと身体が密着して、少なからず動揺しているレンにはアンドリューが黄緑の少女にそれを許していることにこそ、驚いていることは気がつかなかった。
「ヴィンセントさんと、同じ酔い方ですね」
イルもレン程ではないが、かなりアルコールには強い。しかも酔い始めるとあっという間に潰れる奴なので、後はベッドに放り込んでおけばいい。朝起こす時よりはよっぽど手間がかからない。
「ええ、よりにもよって」
ヴィンセントは酔うのが早く、中々潰れないのだ。はっきり言って周りにとってかなり迷惑な状態が長時間続くのだが、『息子』のレンとしては放り出すこともできない。始めはイルと一緒にあしらうのだが、イルが寝てから結局は一人で面倒を見ることになる。
「おかわり、ください! アンドリューさあん」
目の前にいるというのに、そんなに大きく手を振る必要がある? などとはもちろん突っ込まない。
「もうやめておいた方がいいのでは?」
バーテンは制止したが、レンは口を挟んだ。
「あ、飲ませてあげてください。ふらふらされるのも面倒ですからね、潰してから運んでいきます」
言いながらも、再びタンブラーを空けて次を促した。
「はい、わかりました」
「さすが、レンさんは話が分かる上に、お優しい!」
アズリの顔ががくんと落ち、しがみ付く腕に更に力が込められる。さっきからレンの腕には柔らかいものが押し付けられているのだが、それくらいで動揺する程子供ではないつもりだ。
「僕は優しくないですよ」
もうそろそろ眠ってくれるのかと思ったが、レンの返答にばっと顔が上がった。
「優しいですよー。わたしがあんなにミスしても、頸にしないでいてくれたじゃないですかあー」
「それは貴女が優秀だったからですよ。そうじゃなきゃ、あんな面倒なことしません」
運ばれてきたウイスキーを、アンドリューが去らない内に飲み干し、可哀相なバーテンは再び酒を注ぎに行った。
「わたしを意地悪な同級生からかばってくれたじゃないですかあー」
聞いているのかいないのか、少々古い話題を持ち出され、一瞬何の事か思い出せなかった。
「卒業式典のことですか? あれだって、くそ忙しい中あんなのに行かされて、下らない理由で無意味なことで討論の邪魔をしたからです。貴女のためじゃ無く、自分のためですよ」
しれっと言ってのけると、アズリはむっとしたように頬を膨らませた、までは良かったがそれから顔をどんどん近づけてきた。嫌な既視感が脳裏をよぎったが、数センチ手前で侵攻は停止した。
「レンさんて、そんな細かい事いつも考えてるんですかあ? そんなことわたしの知ったことじゃないですよー」
「はあ」
「どうでもいいじゃないですか、レンさんが、別にわたしのことを考えて何かしたわけじゃなくても、それでわたしはすごく嬉しくて、優しくしてもらったと思ったんですよー」
こてり、とレンの方に頭を預けた。上半身の力が抜けたのか、椅子から転げ落ちそうになるところを支えてやる。
「どうでもいいじゃないですかー。誰が何のために、なんて、他人には絶対に全部分かりはしないんですよ? 重要なのは結果と、それによって関わった人がどう感じたか、だと思いませんかねえ?」
半分寝言のような問い。しかし、レンはそれに返すことができなかった。
「わたしにとって、レンさんは絶対優しくて暖かい人です。今までしてくれたことがわたしのためなんかじゃなくたって、それでもわたしはレンさんに感謝するんですー」
「感謝してくれるのは、まあいいんですが」
それに、レンは応えることができないのだ。しかしそんなレンの事情を考慮せず、黄緑色の髪を持った少女はこう言った。
「レンさん、大好きです。ずーっと一緒に居たいですよー」
そう言い残して、黄緑色の少女はレンに全体重を預けて眠りに落ちた。
「物好きな方ですね、本当に」
彼女のようなまっさらな人間が、何故レンなどに惹かれるのかさっぱり分からない。
「もう隠れなくて結構ですよ。勘定お願いします。アンドリューさん」
カウンターの後ろにしゃがんで盗み聞きしていたバーテンに、レンは絶対零度の声を頭上から最後の酒と共に注ぎ込んでやった。
「あ、はい!」
この程度で済んだこと、彼は感謝するべきだろう。こんな職業倫理を疑われるような所業、普段のレンなら情け容赦なく裏から営業停止に追い込んだはずだ。
例えば、次の日からこの店で食中毒になる客が何故か相次ぐことになる、等々。
「それでは、気をつけてお帰り下さい。レンさん」
妙ににこやかなバーテンの声を背中に、レンはアズリを抱えて店を出た。
「アズリさん?」
王宮とバーのほぼ中間地点、レンは腕の中で眠る少女の名前を呼んだ。起こそうとしているわけではないのだ。ただ、眠っていることを確認したかっただけのこと。
思った通り、彼女は深い眠りについているようだった。
抱えたまま器用に耳元に顔を近づけて、そして囁いた。
「僕も君のこと、好きだよ」
だからこそ、僕が君にできることは祈ることだけだ。
幸せになって。僕なんかより君のことを大切にできる人を、どうか見つけて欲しい。
「なんか、前にもこんなことあった、なあ」
まあ、今回は相手が死体じゃないだけましだろう。
王宮に入る。当然のことながら、出る時より出会う人は格段に少なかった。しかし、不運にもすれ違う人の反応は出るとき以上だ。
レンが酔い潰れた少女を抱えていることが、そんなに異常なことだろうか。極めつけはサリーで、何と彼女は広間に入ったレンとその腕で眠る助手を見て、尻もちをついた。
「お帰りなさい、レンさん。遅かったですね」
溜息が自然と漏れた。
「ただいま、ちょっと両手が塞がってるから、アズリさんの部屋のドア開けて」
直接入ればいいのかもしれないが、年頃の少女の手荷物を漁りたくは無い。素直にサリーは指示に従ってくれた。部屋に入ってとりあえず外套だけ脱がせて、寝台の上に寝かせる。そのままでは風邪をひくだろうから、脱がせた外套を上からかけた。
「ごゆっくり」
背後からかけられた悪意たっぷりの科白に、凍てつく怒気をみなぎらせて振り返ると、既にそこにメイドの姿は無い。
「お疲れさまでしたぁ」
遠くからこんな声と足音が聞こえた。
アズリの部屋から広間を通って寝室に行き、身支度を整えた。
「何か、疲れたな」
寝台に腰を降ろす。大したことをしていたわけではないと言うのに、身体の芯から疲労感が滲み出て来るようだった。だというのに、ちっとも眠いとは思わなかった。
理由は一つしか思い浮かばない。方膝を持ち上げて、腕で抱き寄せる。
一人でいることを寂しいと思ったのは、何年振りだろう。
頭の中を容赦なく反響するのは、愛しい少女の声。それについ手を伸ばしそうになる自分が情けなくて、いつか理性を突き破ってしまうのではないかと考えると、怖かった。
だめだ。
絶対に、無理だ。
許されることじゃない。
今更、大切な誰かを側に置くなんて。
己の中で凶暴な程膨れ上がる欲求を、押し込める作業は本当に久しぶりで、それは簡単にハウスウォードや革命中の生活を思い起こさせた。
駄目だ、こりゃ。
数十分の自分内格闘の後、レンは己の危険性を悟った。今夜一人でいることは、絶対にやめた方がいい。セシリアに悪いとは思うが、イルの部屋に行かせてもらうことにしよう。
このまま一人でいれば、部屋一つ隔てて平和な寝息を立てている少女を襲いそうだった。
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