えー、お花ちゃんが悪徳商人・黒金屋の土蔵に捕らえられたと聞いて、神田の町は大騒ぎでございます。
正面から戦っても勝ち目はない、おまけに土蔵の鍵は厳重にかかっている。町内の誰もが諦めかけ、涙を流しているところへ、与太郎が「へへへ、あふぅ」とやってまいりまして、長屋の広場で何やら奇妙な作業を始めました。
ゴミ捨て場から集めてきた、大量の和紙。それから、竹の皮や、荷物を縛る縄、そして煮炊きに使う油。これらを広げて、何やら大きな、本当に大きな袋のようなものを、せっせと張り合わせ始めた。
そこへ、長屋の兄貴分の八五郎が通りかかりました。
「おいおいおい! みんな、ちょっと来てみろよ! お花ちゃんが大変だってのに、与太郎の奴、とうとう頭がおかしくなっちまったぞ!」
その声に、ご隠居が縁側から顔を出します。
「ん? 八公、そんなに騒々しくしてどうしたんだい。与太郎がどうしたって?」
「あいつを見てくださいよ! どんどん和紙を張り合わせやがって、今じゃあ長屋の屋根よりデカい、とんでもねえ化け物みたいな提灯を作ってやがるんです。みんなで『また与太郎がバカなことを始めやがった』って、指さして笑ってますよ。お花ちゃんが可哀想だってのに、あいつぁ暢気に凧揚げの準備か何かしてやがるんだ!」
「ううむ……いくら大きな提灯を作ったって、お花ちゃんは救えやしない。可哀想に、与太郎の奴、お花ちゃんが拐われたショックで、本当に気が触れちまったのかねぇ……」
長屋の連中は、呆れたり、憐れんだり、中には「バカのやることは分からねえ」と軽蔑の目を向けて通り過ぎていく。しかし、彼らは知らなかった。その与太郎の頭の中――元・天才物理学者の脳内では、凄まじい速度で「熱気球の浮力計算」が行われていたのでございます。
「(……外気温は摂氏二十度、空気密度は一立方メートルあたり一・二キログラム。和紙の気球内の空気を、炭火を使って約百度まで熱すれば、内部の空気密度は〇・九五キログラムまで低下する。その差、〇・二五キログラム。俺とお花、二人分の体重と、この竹で編んだ籠の重量、合わせて約百二十キログラムを浮かすのに必要な体積 V は……四百八十立方メートル。よし、このサイズなら、理論上、完全に重力を凌駕する浮力が生まれる!)」
「へへへ、八つぁん、これね、提灯じゃないよぅ。お空を飛ぶ、おっきな『ふうせん』だよぅ。これでお花ちゃんを助けにいくんだよぅ」
「ははは! 人間が空を飛べるわけねえだろう、この唐変木(とうへんぼく)が! もう夜だ、夜風が冷てえからみんな家に帰るぞ!」
連中は笑いながら、みんな家に入っちまった。
やがて夜も更け、丑三つ時。町がしんと静まり返った頃、与太郎の計算通り、風向きが「北西」――つまり、黒金屋の屋敷の方角へ向けて、緩やかで安定した風が吹き始めました。流体力学、気象学の計算、すべて完璧でございます。
与太郎は、巨大な和紙の袋の下に取り付けた鉄のバケツへ、真っ赤に熾った炭火をドサッと投げ入れました。
すると、どうでしょう。
しぼんでいた巨大な和紙の袋が、中から温められた空気によって、むくむくと、まるで夜闇に現れた怪物のようにおっきく膨らみ始めた。
和紙を通して、炭火の赤い光がボウッと浮かび上がる。まるで、巨大な満月が地面に降りてきたようでございます。
与太郎は、竹で編んだ大きな籠にピョコンと飛び乗ると、地面に繋いでいたロープを、小刀でぷつりと切った。
……ふわり。
重力という宇宙の法則を、江戸の和紙と竹が打ち破った瞬間でございます。巨大な光の球が、ゆっくりと、しかし確実に地面を離れ、夜空へと浮かび上がった。
「お、おい……なんだありゃ。おい、カミさん、起きてくれ! 表を見てみろ!」
「なによ夜中に騒々しい……って、まあ! なにあれ! 火の玉!? お月様が動いてるの!?」
「嘘だろ!? おい、あの籠に乗ってるの、与太郎じゃねえか! 与太郎が、あのデカい提灯に乗って、本当にお空へ上がっていくぞ!」
さっきまであざ笑い、軽蔑していた長屋の連中が、ガタガタと震えながら表へ飛び出してまいりました。誰もが口をあんぐりと開けたまま、夜空を見上げている。軽蔑は一瞬にして「驚愕」へ、そして「畏怖」へと変わった。
夜空をゆらゆらと進む光の球は、風に乗って、一直線に黒金屋の屋敷へと向かっていきます。
さて、黒金屋の屋敷では、見張りの手下たちが酒を飲んで油断をしておりました。ふと見上げると、夜空から見たこともない巨大な、真っ赤に光る球が、自分たちの頭上へ迫ってくる。
「て、天狗だぁーーー!」
「火の玉だ! 祟りじゃあーーー! お花を拐ったから、神様が怒ったんだぁーーー!」
手下たちは腰を抜かし、武器を放り出して蜘蛛の子を散らすように逃げていっちまった。
与太郎は冷徹に、空気の排出口の紐を引いて温度を調節し、お花ちゃんが捕らえられている、石造りの土蔵の二階の窓際へ、ピタリと気球を横付けいたしました。
ガタガタと震えていたお花ちゃんが、窓の外を見て目を見張る。
「まあ……! 与太さん!? どうして、どうしてお空から……!」
「へへへ、お花ちゃん、お待たせ。危ないから、こっちの籠にピョコンって飛び移って。しっかり僕に掴まっててね」
「はいっ……!」
お花ちゃんの手を取り、グッと自分の籠へ引き寄せた与太郎。すぐさまバケツの炭火を煽ると、気球は再び浮力を増して、黒金屋の屋敷を遥か眼下に見下ろし、夜空へと高く、高く舞い上がりました。
下を見れば、江戸の街中が大騒ぎ。「与太郎がやったぞ!」「お花ちゃんを救い出した!」と、さっきまでバカにしていた連中が、今度は地響きのような大歓声を上げて、手を振っている。
冷たい、けれどどこか心地よい夜風が、二人の頬をなでていく。
お花ちゃんは、与太郎の胸にしっかりと顔を埋め、じっとその手を握りしめておりました。
現代では当たり前の科学の知識。しかし、この時代には誰も知らなかった力を使って、大切な人を守り抜いた。かつて孤独の中で死んだ物理学者は、いま、与太郎として、この上ない幸福の中にいたのでございます。
顔をくしゃくしゃにしながら、いつもの暢気な声をお花ちゃんにかけました。
「へへへ……お花ちゃん、どうだい。空を飛んでるだろう」
お花ちゃんは、うっとりと輝く江戸の夜景を見つめ、それから、自分を抱きしめてくれている与太郎の顔をじっと見つめて、クスッと、実に嬉しそうに微笑みました。
「与太さん、とんでもない話ね」
――えー、お粗末さまで、一席。
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