激情ストイック

 富士の樹海では、実際のところ、方位磁石は狂わないのだという。
 調子を合わせることよりも、狂う方がとても簡単で容易い。距離の測り方も、関係性も崩してしまうことの方が楽で脆く、そして呆気無い。
 くっついてみたいと思うのは簡単で、でも実際には難しい。彼と私の距離は、物理的な距離は近かったかもしれないが精神的な心の距離は遠かったに違いない。
「結婚しよう」
 指輪を見せて、これで良いかと囁いた。彼の愛は、最後まで私の愛に勝ることは無かった。小さな指輪の箱を手にした彼の瞳の奥に見える、億劫さが私の息の根を止めようとしていた。大して、情熱を書き換えるような好意を寄せられていないことは、分かっていた。それでも、足掻くようにもがくように繋ぎ止めてきた。
 けれども、指輪を道具に人生の転機となる筈のこの瞬間にも、彼の表情に愛は無い。貼り付いていたのは、労働の疲れと罪悪感と失望だった。酷く背筋が冷たくなるのを感じた。母と同じ空気を吸い、同じものを食べて、二十四年間生きてきた娘はどうしてこんなにも母と同じ幸せな恋愛が出来ないのだろう。情けなくて目尻が痛む。
「嫌だわあなた。年収いくらか分かってるの?」
 そんな程度で、私を養おうだなんて思ってるの。
 戯れた媚びを、わざと声音に潜ませて彼の苛つきと憤りを絡め取る。これで、良いの。穢れた恋に溺れた女の末路としては、醜く上出来になったはず。

 せめてマフラーだけでもと編んだ、置いてけぼりの毛糸玉。イニシャルが半分も縫い込まれないまま、引き出しの奥に追いやられる。私自身も、置いてけぼり。
 愛しかったのよ。そのだらしない所が。
 奥さんの愚痴を酔いに任せて嫌そうに言う割には、全部言い切って慈しむような顔をする。食事を一緒にすると、お互いの共通した嫌いなものを何食わぬ顔で自分の取り皿に分けて、私の好きなものを多く渡す。外回りで焼けて痕が付いているのに、セックスするときには指輪を必ず外す。手を繋ぐことに対して「もうそんな歳じゃないから」と嫌がるのに、繋ぐのが好きな私の為に我慢をしていること。
 そうね、あとは四十代を迎えただらしない体つきで、乱暴に虚しい顔で、情けなく喘いで私を抱くところとか。沢山、あるのよ。誰でも良かったようなポジションに、私という存在を選んでくれたあなたが、とても愛おしかった。

 机の上の、とっくに冷めてしまった作り置きのテキーラのグラスを掴んで床に叩き付けた。透明なグラスにヒビが入って、隙間から琥珀色のテキーラを逃した。赤くなったのは、涙に濡れた頬では無く、割れた硝子を摘まみ上げた私の白い指先だった。

 この燃える感情は、未だ冷めぬまま。冷ます方法も知らぬまま。

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激情ストイック

いつも好きになってはいけない人ばっかり好きになって、花の中で一人、泣くんです。

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投稿日:2012/10/05 23:41:57

文字数:1,135文字

カテゴリ:小説

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