十一月九日

 最近、あの人に会わない。初めて会ったあの教室に行けば会えることは分かっているけれど、あの人がやってくるまで待っていなければならない惨めさが、わたしにはたまらない。それに、松本さんに会うのが苦痛。
 あの人のことも、今ではほとんど忘れかけている。今のわたしには、胸騒ぎも、紅潮もない。そして、わたしはスタンドピアノを弾く。小学生のころ、友達のマネをして、母にせがんでピアノ教室に通わせてもらったものの、先生が弾く和音「ドミソ」「ミファラ」「シレソ」を当てる練習が何のためなのか理解できずに、1年もたたずに止めてしまった。ヤマハのスタンドピアノだけが残った。
 わたしは、結局浮気なのだ。ついこの間まで、あれほど熱狂的だったのに、今は嘘の様に平静。本当は、ピョートル・チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番変ロ短調作品23の第1楽章を弾きたいところだが、・・・気分的には、イーゴリ・ストラヴィンスキーの『春の祭典』は、弾く気にならない。昔の彼は、
「チャイコのピアノコンチェルトは女子供のクラシックだ」
と言っていたが、なんとなくわかるような気がする。その同じ彼は、また、
「死ぬということは、モーツァルトを聞けなくなるということだ」
と言っていたが、わたしには意味が分からない。そこで、歌が生まれる。

  ぽろろん ぽろろん んーん
  ぽろろん ぽろろん ぽろろん
   その細い指に 慎ましやかな想いを込めて
    風に震える花のように
     貴女は誰に恋を仕掛けて
  ぽろろん ぽろろん んーん
  ぽろろん ぽろろん ぽろろん
夕暮れの部屋 赤く染まるレースのカーテン
    部屋の明かりもつけないで
     貴女は誰に恋を仕掛けたの

  ぽろろん ぽろろん んーん
  ぽろろん ぽろろん ぽろろん
   その細い指で その鍵盤に想いを込めて
    海に融けてく雪のように
     貴女は誰を愛し続けて
  ぽろろん ぽろろん んーん
  ぽろろん ぽろろん ぽろろん
肌寒い夜 暗い暖炉 ブルーのムートン
    暖かい火もともさずに
     貴女は誰を愛し続けるの

  ぽろろん ぽろろん んーん
  ぽろろん ぽろろん ぽろろん
   夜も更けた部屋 たった一人 ピアノに告白
    部屋は涙で溢れそう
     貴女は誰に愛を奏でる

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

土岐明調査報告書『千鶴子の日記』十一月九日

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投稿日:2022/04/01 07:51:25

文字数:1,008文字

カテゴリ:小説

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