青と白が入れ替わる。一回、二回、緩やかに円を描いて空気の中を泳ぐ。
 息を吸って、右旋回。吐いて、降下。レバーを握るんじゃなく、仄かに触れるように扱い、大脳の中枢から極細のグラスファイバーケーブルを伝い、時速数百キロの風を受ける翼を感じて空を飛ぶ。
 その時一度、胸の音が高鳴る。耳元で血は騒がしく流れ、皮膚が張り詰めて体が重力に締め付けられる。とても痛いこの感覚がやってきた。コックピットに警報音が溢れだし、一定方向から翼に触れるはずの風を何かが掻き乱している。荒々しく、そして速い。
 方角、七時。高度三五、距離六〇、速度五三〇。近づいてくる。
 ≪FOX-2、レーダー照射を受けている。後方、詳細位置は不明≫
 無線が聞こえる間もなく、いつの間にかレバーに触れていた掌は強く握りられて、風を逆らうように機体を翻す。同時にスロットルレバーが押し込まれエンジンの燃料燃焼室に大量の燃料が流し込まれ、一気に発火した。エンジンから解き放たれた蒼い爆発は時速約八〇〇キロの速度を一瞬で押し殺 し、全ての運動エネルギーを九〇度直角に捩じ曲げ跳ね飛ばす。〇.一秒で七時方向が十二時方向になった。
 見える・・・・・・標的が。目で見えるのではなく、機体に搭載された三十六個のセンサーが「あれ」を捉えて、全天周モニターとナノマシンで脳に直接見ると同じように情報を送り込んでくる。目標を補足すれば次は、撃墜だ。
 ≪FOX2、FA-1を補足。攻撃態勢へ移行≫
 ≪FA-1がロックオンされた≫
 攻撃、あれも、あのシュミレーターと同じように、撃墜、赤い花に。
 スロットルを開放し、音速に到るまで加速して目標を追いかけながら、親指が無意識にレバーの兵装投下ボタンを押しこみ白い煙を吐くミサイルが、モニターに表示された目標へと吸い込まれるようにして飛んでいく。
 だがその時、レーダーから目標の影が消え、発射されたミサイルだけが何も無い方向に消えて行った。
 ≪FA-1、レーダーからロスト。いや、FOX-2、後ろだ!≫
 無線が終わるより早く、機体はまた背後に現れた目標に反転していたが、その時、蒼空から差し込む陽の光が、巨大な黒い影に阻まれた。鋼の肉体、黒い翼。靡く黒い髪。
 なんだこれは。見たこともない。
 一瞬の放心が、トリガーを引く指先とレバーを握る腕を狂わせ、銃弾として照射された赤外線センサーは、黒い翼にかすることもなく虚しく空を舞う。
 もう一度、攻撃を・・・・・・・そう思っていた瞬間、目の前のモニターに赤く「LOST」と表示され、耳元で耳障りなブザーが鳴り響いた。これで、三度目だ。
 ≪FA-1がFOX-2に撃墜判定。FA-1見事だ≫
 この実験では、シミュレーションの中では、もう三回も自分は撃墜されたことになる。
 ≪どうだ? 一日に三回も撃墜された気分は≫
 AWACSからの無線だが、いつもとは違う。明るい声だ。
 「こんなの、ただの遊びだ。撃墜なんかされてない。」
 ≪ハッ、FA-1に足りないのは、その負け惜しみの機能だけのようだな。こちらウォーヘッド。地上の司令部に告ぐ。データは必要十分に採取した。実験終了だ≫
 ≪こちらセメンテリー。実験終了。FA-1とFOX-2は編隊を取って帰投コースに入れ≫
 「了解・・・・・・。」
 なぜだろう、いつもより返事が重い。撃墜されたという感覚が、胸の中に残る嫌な感覚として残っていた。
 ≪こちら基地司令部。二機に告ぐ。緊急事態だ。帰投コースを変更しヘディング201に進路を取れ。状況は追って説明する≫

 ◆◇◆◇◆◇

 総合司令室は、突然の事態に騒然としていた。まるで仕組まれたかのように立て続けに巻き起こったそれは、明らかに先程この基地を飛び出した戦術偵察機と、基地の飛行実験団のテストパイロットに扮していたとある興国の軍人が関連するものだった。
 僕も一体、何が起こっているのか半分しか理解出来ていない。でも、ミクがまだ空にいる今、不安に駆られた心臓の動悸を禁じえない。
 しかしこの中で、唯一平然とした面持ちで振舞う人間が一人だけいる。世刻大佐だ。彼はいつの間にかインカムを手に取り、指令を下している。
 「セメンテリーに通達。実験に出ている二機を強奪された機体の捕縛に向かわせなさい。従わない場合は威嚇射撃も許可します。貴機は速やかに実験空域を離脱されたし。」
 ≪了解だ。大佐≫
 「何ですって!」
 大佐が途中に付け加えた言葉に、僕は驚愕した。今回の実験では、二人の機体とも実験用の被弾判定レーザー投光器だけでなく、実戦の兵装状況や機体重量を再現するため、対空兵装が装備されているはずだ。
 「ご安心ください博士。従わなかったら、の場合ですよ。それに戦闘力から見ても二人の圧倒的に有利です。」
 「・・・・・・。」
 僕はそれ以上の反論はしなかった。いや、できなかったというべきか。世刻大佐の意味深な微笑は、この事態を予期していたどころか、この先起こることさえも見通していると言わんばかりだ。
 ≪こちらセメンテリー、了解した。これより帰投する。≫
 その時、オペレーターの一人が振り向き、叫ぶように言った。
 「レーダーに正体不明の反応多数! IFF回線、識別信号共に応答なし。高度二.五〇速度五〇〇、方位二〇一。残り十分で領空に侵入します!」
 「フムン、彼の脱出を援護する役目とでも言うのですね。」
 やはり大佐は眉一つ動かさない。決して動じない。やはりすべてを知っている。偵察機の強奪も、正体不明機の接近も、全て。
 「大佐、あなた一体・・・・・・何をどこまで知ってるんですか?」
 「それは博士に申し上げるわけには参りませんね・・・・・・。まぁご安心ください。悪いようにはなりません。お二人ともきっと無事に戻られます。」
 これ以上周章狼狽しても意味が無い。その言葉を信じる他に、僕には為す術がなかった。

 ◆◇◆◇◆◇

 ≪こちら空中警戒管制機セメンテリー。実験から帰投中の二機に告ぐ。当基地に潜入していたと見られる興国の敵性スパイ分子二名が、基地に保管されていた機密データを持って試作段階の装備を搭載した開発中の戦術偵察機RF-15を強奪し、現在領空の突破を試みている。二機は直ちにこの機体を基地まで連れ戻し、強制着陸させろ。威嚇射撃も許可する。目標の座標データと予想進路を順次送信する。以上だ≫
 本来仲間に伝えるべきはずの無線が、今は敵である俺の耳に流れこんでくる。向こう側もそんなことなど承知の上だろう。
 もうすぐこの国の領空を抜け、同時謎の機体四機が俺をエスコートしてくれる。二機の追っ手に対しても、連中は容赦ない目視外攻撃を仕掛けることだろう。二機の性能は未知数だが、今はこの機体と機密データ、そして―。
 「ちょっと、なんかマズイことになってない? ねぇ聞いてる?!」
 このふざけた女を背後に乗せて、祖国のところまで舞い戻る。その一連の過程が、ただこの航空機を飛ばすだけで事が済めば良いのだが。
 ≪おい・・・・・・機体・・・・・・!≫
 突如、無線に何者かが介入した。ノイズにまみれて上手く聞き取れないが、日本語ではない。同時に、こちらとすれ違う形で直進する機影の姿がレーダーに現れた。
 ≪聞こえ・・・・・・周波数・・・・・・せよ≫
 「待っていろ。今回線を調節してる。」
 元のF-15から格段に進化した通信制御パネルを操作し、俺は祖国の軍用回線の周波数と敵味方識別信号の回線も同じく設定すると、ノイズが薄れ、彼の声が明瞭になる。
 「無線を調整した。そちらの声が聞こえるぞ」
 ≪ご苦労。その声、グライツァ・リヨン・ヴィーオだな。迎えに来たぞ≫
 懐かしい声と口調が聞こえた。この声を聞くのは士官学校を出てもう数年ぶりになるだろうか。
 「お前か。イーグリ・ベレチェンコフ!」
 ≪再会を懐かしむのは祖国の土を踏んでからだ、グライツァ。貴機はこのまま進路を変えず直進せよ≫
 次の瞬間、一瞬頭上を通過する四機のフランカーの姿が、陽光を鋭く反射した。
 ≪幸運を祈る≫
 「ああ、お前こそ。」
 空になった増槽タンクを一つ投棄し、俺は機体を更に加速させた。
 だがその時、背後から信じがたい速度で追いかけて来る目標を警戒装置が捉え、焦燥を煽るアラームが鳴り始めた。機体との距離は更に縮まり、ついに目視できる距離まで黒いアンドロイドと白い奇抜な機体が近づいてくる。強制着陸を促すメッセージを送ってくるところだろうが、あろうことか既にコックピットにはロックオンされたことを告げる警報まで鳴り響いていた。
 「くそッ!」
 無理やり操縦桿を倒そうとした瞬間、白い機体の姿が飛び引いて、その下を無数の閃光が駆け抜けていった。
 ≪逃げてください! 早く!!≫
 若い女性パイロットの声が、緊迫していた俺に冷静な判断を取り戻させた。とっさに俺は電波妨害装置を展開させ、螺旋を描いて機体を急降下させる。
 「きゃあっ!」
 当然、背後で悲鳴が上がる。
 「口を閉じていろ。舌を噛むぞ。」
 急降下で機体と全身を重力の荒縄が容赦なく締め上げる中、俺はスロットルレバーをアフターバーナーゾーンまで押出し、機体の速度を性能の最高潮まで導いた。コックピットに警報と機体の悲鳴が鳴り響き、眼前には海面が猛スピードで迫っていた。間髪入れず操縦桿を引き、機体と海面をこすり合わせるように低空まで降下した。
 四機がかりで白い機体を押さえ込んでいるが、あの黒いアンドロイドはその異常な機動性で執拗に追いかけてくる。その背中の長い銃身が前方に展開しているのがミラーに写った瞬間、俺は無意識に操縦桿を倒し、高G旋回をとっていた。案の定、視界の左側を光の弾丸が駆け抜けいく。
 全身から冷たい汗がまるで霜が降りたかのように吹き出した。生まれて初めて、本当に命の危機に直面した瞬間だった。既に体はGの苦痛を忘れ、恐怖一色に染まっていた。
 死にたくない。死にたくない。死にたくない。ただ頭の中ではその言葉が高速で循環し、生への渇望はひたすら俺を回避行動に突き動かした。
 ふと、キャノピーから鋭い日差しが挿し込み、俺の瞳に痛みを与えた。
 その時思い出したのだ。彼女の、あの女性(ひと)の言葉を―。
 「怖がることなんて無いわ。貴方の背には翼があるんですもの。」
 遥か昔、そう言って俺を慰めてくれたあの言葉が、一瞬、全ての時を止めて俺の脳内に蘇った。
 ―そうだ。俺には翼がある。
 背後から接近する漆黒の姿が、機体の右主翼に手を伸ばし、取り付こうとする。俺はとっさに機体をロールさせ、反対側の主翼を奴の黒いボディに叩きつけた。
 「舐めるなァッ!」
 バランスを失った翼に翻弄され、遥か後方に吹き飛んで行った。だが、すぐに体勢を立て直して再び急接近し、次の弾丸を発射しようとしている。
 その時、一機のフランカーがアンドロイドの背後上空に取り付き、機関砲による掃射を行った。一瞬でアンドロイドは回避をするが、その黒い翼から僅かに火花が散った。
 ≪援護します!≫
 だがその時、フランカーの胴体を青白い光が一閃し、次の瞬間爆炎に包まれ原型を留めないまでに空中分解を始めた。炎に飲み込まれた機体のパーツが、そのまま海の藻屑と化していく。
 ≪セ、セレス! ・・・・・・この悪魔めが!≫
 激情した男の声と共にアンドロイドの背後に仲間が取り付き、絶え間なく弾丸を乱射し続ける。だが闇雲にまき散らした弾丸が当たるはずもなく、次の瞬間には真後ろを向いて発射された光弾がコックピットを抉り、パイロットだけを失った機体は海面に接触して飛沫を上げる。
 ≪駄目だ敵わない・・・・・・ひ、ひひ、ひゃあああああッ!≫
 一瞬にして二機の仲間を失い、恐怖に駆られて発狂した仲間がアンドロイドの追跡を放棄して逃走を始めた。そして奴の照準は、再び俺に向けられる。いくら機首を振っても、全く切り離せない! 黒い悪魔の銃口が、俺を目がけて光を収束させていく。
 もうダメだと思ったその瞬間、俺と奴の合間に、一機のフランカーが割り込んできた。そしてその背に、光弾を受け止めた。
 「イーグリ・・・・・・?!」
 ≪くっ! グライツァ、貴様は生きろ・・・・・・!≫
 それだけ言い残して、彼の姿は炎に飲み込まれた。
 空中に撒き散らされた機体の破片が黒い悪魔の体に次々と叩きつけられていく。甚大な被害を受けたアンドロイドは俺の追跡を断念したらしく、振り向いたときには視界から消えていた。
 全てが終わったと悟ったその瞬間、強烈な吐き気と眩暈が襲い掛かってきた。心臓が破裂しそうなほど動悸が荒ぶっている。極限の緊張と危機感から脱したあとは、それまで忘れていたものが一気に吹き出すのだろう。高度を保つことに専念しながら時間の経過を待つと、それらの症状はすぐに治まった。
 「おい女。生きてるか?」
 「ええ、なんとかね。何度か失神しかけたけど。」
 タフな女だ。尤も、男性より女性のほうがGには強いと聞いたことがある。
 「よく頑張ったな。もう日本の領空は越えた。もうすぐ陸地が見えるはずだ。」
 「あのさ、貴方の名前、グライツァっていうの?」
 「ああ、それがどうした。」
 いきなりなんだと、俺はため息を付いた。考えて見れば後部座席で座っているだけの身だ。その呑気な正確は変わらない。
 「素敵な名前ね。私は、英田道子っていうの。」
 「そうか・・・・・・いい名だ。」
 短く答え、俺はキャノピーの遥か下に広がる海原に視線を下ろした。澱みない青々としたこの中に、命を賭して俺を護った英雄達であり、良き友である彼が眠っているのだろう。
 「Прощай, мой друг」
 俺は別れの言葉を残し、改めて前を見据えた。はるか先には、淡い黄金の陽光に照らされ、祖国の大地が、海原の向こうに現れていた。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

Eye with you第三十話「Sky of Black Daemon」

ダスヴィダーニャ、ドルーク

閲覧数:156

投稿日:2011/02/22 23:48:30

文字数:5,730文字

カテゴリ:小説

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