深夜、レンは名前を呼ばれた気がして、目を覚ます。
静まり返った部屋、教会。ただ響くのは、時計の針が動く音。
不審に思ったレンはベッドから起き上がり、もう一度よく耳をすます。
『レ…ン』
「………リン…?……リンッ?!」
レンは慌てて枕もとの鏡に手を伸ばす。
鼓動が妙に早くなって、汗がうっすらにじんできた。
いまさらになって何故彼女は鏡を見て、僕の名を呼んだのか。
頭の中で、疑問が交差する。そして僕は、この鏡を、のぞいていいのか。
一瞬の躊躇い、後。
「リン…?」
鏡はどういうもの?
鏡は自分の姿を写しだすもの。
他人を写しだすなんて
ありえないのだ。
『レン…?…ごめんね』
鏡に写るリンを見て、レンは唖然とした。
ナイフを握り締め、血まみれのリン。その背後には、幾つかの死体が。
あの優しい笑みの面影もない、暗い表情。
希望が絶たれ、全てを捨てて、それでも生きる亡霊のような顔。
「なっ……?!」
『また、殺した』
ポツリとリンが呟いた。右手にナイフ、左手に現金を握り締めていた。
震える肩はあまりにも小さく、細く。
「リン…?!どうし、て…」
『……レン、今のレン、前に比べてすごく幸せそうだね』
「何を…」
レンはあまりの衝撃に、声を震わせ、叫んだ。
「どうしてっ?!どうしてリンが…!!!僕は君のお陰で絶望から抜け出せたんだ。それなのに、どうしてっ…」
リンはその叫びをジッとレンを見つめながら聞いていた。しばらくして、リンは口をかすかに開け、歌うように囁いた。
『鏡を御覧なさい、今の自分がどう写るか、確かめるのです。
そして知りなさい、罪の哀しさと愚かしさを。
その罪を背負って生きる覚悟はありますか?』
「!!」
それはかつて少年が殺した、とある老人の言葉。
「何故…君がそれを…」
『私にこの鏡をくれた人は、こうも言っていた。この鏡は、自分を写す。その意味をよく考えなさい、と』
レンは、息をのんだ。
どうして今まで気づかなかったのだろう。
僕が絶望から抜け出そうとするたびに、リンは絶望に飲み込まれていった。
どことなく顔が似ていると思えたのも、多分そのせいだ。
この鏡は、どこか別の、例えば、反転世界の僕を写す鏡なのだ。
僕は彼女で、彼女は僕。
そして、反転。
「あ…ああああああっ!!!!!!!」
少年は絶叫した。
僕はどうしたらよかった?
僕はどうしたらよかったんだ?
『……レン』
「やめろぉぉぉぉっっ!!!」
刹那。レンは鏡を床に叩きつけ、粉々に割ってしまった。
狭い部屋に、荒い息が響く。
そして、静寂。時計の針がいつもどおりに、チクタクとなるだけだ。
「うっ…ああっ…」
夜が明ける。
レンはその場で咽び泣いた。
数年が経った。
レンは今でも教会にいる。
神父は、貧しい村などへの布教を目的として旅に出てしまったので、今はレンが神父代理として教会を切り盛りしている。
青年に成長したレンは、無口ながらも親切で優しい神父として、町の人に馴染まれた。
数年のうちに、幾度ともなく救いを求める人が教会を訪れてきた。レンは救いを求める全ての人に手を差し伸べ、支えてきた。
割れた鏡のことを、レンは今でも忘れられない。
忘れてはいけない。そう思えてならないのだ。
「あの、レンさん」
「どうかしましたか?」
教会で生活する修道女の一人が、申し訳なさそうな顔をして、レンに言った。
「実は、戸締りをきちんとしていなかったらしく、猫が入り込んでしまって。絨毯が猫の毛だらけになってしまって…」
「その猫は?」
「もう外へ逃がしました」
「そうですか…それでは、今日は皆で大掃除をしましょう。もうそろそろ頃合かと思っていたところですし」
「はい、分かりました」
教会のほうは修道女達にまかせ、自分の部屋でも掃除しよう。
そう思ったレンは、部屋へ向かう。
久しぶりに掃除をすると、埃がたくさんあり、案外骨の折れる作業となった。
ベッドの下の隅の隅。
何か光るものを見つけ、レンは手を伸ばしてそれを掴む。
それは、割れた鏡の破片だった。
フラッシュバック。それはあの金の鏡。
「あ…」
レンはその破片をゆっくりと覗き込む。
「!!!!」
そこにリンはいた。
ナイフを持って、たたずんでいるリンが。
「リン…」
彼女は何も言わない。
誰にも、何も言わず、ナイフを自らの胸へ突き立てる。
「リ…っ…リン!!!やめるんだ!!!!リン!!!」
『…あ…』
小さく、彼女の口から声が漏れる。
レンは鏡の破片に向かって、必死に叫ぶ。
「リン!!だめだ!!やめろ!!!」
リンはその声に気づき、鏡を見る。
何の感情も残っていないような顔をしていた。
やせ細り、綺麗だった髪には、血がこびりついている。
リンは何も言わない。
何も言わず、ただ最後に、
ふっと、笑った。そして。
「リン!!!!!!!!!!!!!」
ナイフを、胸に突き刺す。
レンは鏡の破片を取り落とした。涙が、後から後から零れ落ちる。
今、やっと分かった。
あの老人が言っていたことの、本当の意味が。
罪は哀しい。
罪は愚かしい。
レンは泣いた。
全てをさとった今、彼は無力だった。
これが、僕の罪の一部始終。
彼が顔を上げたとき。
その顔には、決意があった。
―…僕と彼女の罪を、背負って生きなければならない。
窓から日差しがさしこむ。教会の外は今日も変わらない。
レンは鏡の破片をポケットに滑り込ませ、立ち上がった。
その夜。酷い嵐の夜だった。
教会のドアを叩く音がする。レンはたまたま遅くまで作業をしていたので、容易にそれに気づけた。
こんな時間に、誰だろう。
レンは教会の扉を開けた。
そこには、少年がいた。みすぼらしい格好をした、少年が。
「どうしたのですか…?」
レンは優しく問いかける。
少年は黙ってレンをにらみつけるだけだ。
雨は激しく降りしきり、少年はびしょぬれだった。
「とにかく、入りなさい」
レンが少年の肩に触れた、そのときだった。
「………ッッ…!!!」
鈍い音と、鋭い痛みがレンの腹部に奔る。
少年は囁いた。
「金はどこだ」
「…嗚呼」
罪は哀しい。
罪は愚かしい。
レンは痛みの中、ポケットを探る。鏡の破片を探して。
それを手に取り、レンは少年に差し出した。
眉間にしわをよせ、少年は鏡の破片を見つめる。
「鏡を御覧なさい…今の自分がどう写るか、確かめるのです」
「聞こえなかったのか、金を…」
「そして知りなさい…罪の哀しさと…愚かしさ…を」
息も絶え絶えに、レンは続ける。
「その罪を、背負って、生きる…覚…悟は…」
そこまで言って、レンの意識は途絶えた。
僕は死ぬ。
レンは思った。
僕は償いきれただろうか?
僕は生きた。生きたのだ。
きっと償えただろう。
最期の瞬間、ふととある少女の笑顔が頭をよぎる。
「リン、」
そして、彼は息絶えた。
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