一分後にインターホンが鳴った。私はチェーンロックを外してドアを開けた。でもそこに立っていたのはいつもの傘、ではなかった。あの端正な顔は、なんとなく寂しげに笑っていた。私がその場に凍りついたように立っていると、彼は自分でドアを引いて玄関に入ってきた。それからデニムの尻ポケットに入った、折りたたみ式のホワイトボードと黒いペンを取り出した。それは彼がふだん筆談用に持ち歩いているものだった。
見られちゃったね
きゅっと音を立てながら、彼はそう書いた。私は唇を少し噛んだ。それから彼の手からボードとペンを半ばひったくるように取った。
CYCTやってたの
傘、はちょっと笑って肩をすくめた。それから私の手の中にあるボードの文字を消した。
おれ意外とエリのこと知らないから、少しでも知りたくて
でもあたしあの会話の中に参加したことないよ
傘、は再び肩をすくめた。
知ってる
じゃあなんで
きみの話す内容を知りたいんじゃなくて、きみの周りの人たちを知りたかったん
だ。きみの周りの人たちを知れば、きみが彼らについて思ってることとか、そういうのも想像できるかなって
そこで一度彼はボードを真っ白にした。
写真、出ちゃったのはおれ、別に気にしてないよ。ただああいうふうに晒しものにされるのは、ちょっと寂しいというか悲しいというか
私は少しだけ安心すると同時にあきれてしまった。傘、は私のなにもかもお見通しなのだ。口では言わないけれど、知らないことなど、きっとほとんどないのだ。思えば傘、とはもう7年目の付き合いになる。翔吾よりも付き合いが長い人は、おそらく家族のほかに傘、しかいないだろう。私がこのマンションに引っ越してきたのが小学5年生のときだった。そのときから傘、は私の―
そこまで考えて私ははっとした。傘、は今まで私にとってなんだったのだろう。セックスフレンド?ともだち?それとも、恋人?
わからなかった。傘、は今まで傘、以外のなにものでもなかった。これでいいのだと思っていた。でも今私はそれ―傘、は私にとってなにか―を考えなければならない状況に立たされていた。
どうしたの
いつのまにか訝しそうな表情の傘、がそこにいた。私は黙って首を横に振った。すると傘、は再び寂しげな笑いをその口角に浮かべた。それから黙って靴を脱いで私の部屋へと歩いていった。私はその痩せて少し前屈みな背中をしばらくただぼんやりと眺めていた。
絶頂、を迎えて深い深いキスをして、いつものように私たちはお互いにくっつきあったまましっかりと抱き合っていた。でもその日はしばらくすると右肩のあたりがだんだんと温かく濡れてくるのに気がついた。そこにはちょうど傘、のまぶたが押しつけられていた。そして傘、は心なしか小刻みに震えているようだった。彼は泣いていた。
「どうしたのよ―ねえ一体どうしちゃったのよ」
鼻をすするかすかな音が聞こえた。それから傘、は自分自身の涙に対してか、それとも聞こえないはずの私の声に対してなのか、とにかく頭を横に振った。振りつづけていた。私はそんな彼の頭を夢中で抱きしめた。そのさらさらした髪に顔をうずめた。そして知らないうちに私も泣いていた。涙は彼の髪をじっとりと濡らした。それはまるで肌にまとわりつく夏の湿気のようだった。
傘、はなおもなにかを激しく打ち消そうとするかのように首を振りつづけていた。大丈夫だよ、大丈夫、私はあてどもなく繰り返した。その呟きは広い海原をさまよう亡霊のようなぼんやりとした余韻を持っていた。まるで自分の声じゃないようだ。でもその感想はあくまでいつものものだった。
それが枯れかけた頃になってようやく傘、は落ち着きを取り戻したようだった。私が彼の頭を押さえつけていた手を離すと、彼はゆっくりと起き上がって枕元のティッシュボックスに手を伸ばした。そしてティッシュを3枚ほど使ってじっくりと鼻をかんだ。私はその音をただじっとタオルケットの下でうずくまり、背中で聞いていた。
それからしばらくすると、その音は傘、がホワイトボードにペンを走らせる音に変わっていた。私は濡れた目をこすり、寝返りを打った。枕元の机におかれたスタンドライトの淡い朽葉色の光の下で、彼は私に背を向け、一心不乱になにか書いていた。
彼が振り返った。もう涙はなかった。余韻すらなかった。
おれはエリにとっての一体なんなんだろう?
それはさっきまで私がずっと考えていたことだった。しかし彼は私に訊ねているというよりむしろ自分自身に問いかけているような印象を与えた。また浮かびかけた涙が傘、の姿を歪めた。
なにも知る余地がないもんね
再び現れた視界にはこんな文字列が見えた。私は眉間にしわを寄せた。この人は一体なにを言っているんだろう、あなたが一番私を知っているんじゃないの?そう思って私は彼のボードに向かって手を伸ばしたが、傘、はそれをかわし、再びなにか書きはじめた。
だってそうだろ、じゃあなんだよさっきの。どうしたのっておれが言ったとき、ただ首振っただけだっただろ
それは、と私は思わず声に出した。言いたくないことがあってなんで悪いの。でも彼は再びそれらを消して続けた。
やっぱりおれはきみにとってただのセフレなんだよ
ちがう、ちがう。泣きじゃくっていた。必死で彼の手の中にあるボードを取ろうとした。でもやっぱり彼はそれを私に渡そうとはしなかった。彼はそのままさっさと服を着ると私の部屋から出ていってしまった。玄関のドアが閉まる音がしたあとに残ったのは惨めな私と、膣外に出された精液の海と、傘、がいた温もり、ただそれだけだった。私はその温もりの跡に横たわった。それから考えた。私の頭の中は記憶はおろか現在ある私欲憎悪怨恨悲哀その他諸々の感情とそれに匹敵するくらいに膨大な未来へ追随する妄想、それらが走馬灯のように駆けめぐった。めぐりにめぐって、ここに行き着いた。そして私はひとつの答えに行き当たった。
傘、は、私を愛しているのだ。
小学五年生のときにここに越してきたばかりの私の前に現れた傘、は、まだ補聴器をつけていた。奥まった田舎から移り住むことになった二十階建てのマンションの屋上は、それまでの私とはまた違った世界観をもたらしてくれた。東京タワーにも、スカイツリーにも、のぼったことがなかった私にとってそれはたいへんに大きくて計り知れない世界だった。目の前に広がる世界―それはあまりに広すぎた。広すぎたからこそ、夢、もその大きさに比例して膨れ上がった。今思えばその頃の夢、なんてたかが知れていた。あんなところに大きな公園があったなんて。今度あそこに行ってみたいな。向うの山の方に見える観覧車。遊園地でもあるのだろうか。あそこには長い長い行列ができている。なにがあるのだろう云々。でもそれが楽しかった。楽しいから夢だった。
そんな夢を見ていた最中だった。転落防止のための緑色のフェンスに肘をかけていると、同じ格好をして私と同じように下を見下ろしていた、私よりも少し背が高く、大人びた感じの男の子が少し向うにいるのに気がついた。だれだろう、としばらくそちらを見ていると目が合った。彼はにっと笑った。行儀良く並んだ小さな歯がちらりと見えた。私は強く吹きつける風にたなびく髪の毛を押さえつけながら、彼の方へと歩いていった。
なにしているの、と訊ねたような気がする。でも彼は黙ったまま困った顔をして自分の耳を指差した。そこにはマイマイのような形をしたなにかがかけられていた。補聴器、というものは小学校の道徳の時間だかに「そういうものをしている人がいたら、たすけてあげましょう」とかいったことを習った覚えがあったので、存在は知っていた。でもそれ以上は知らなかった。実際に見たのはそのときがはじめてだった。ほちょうき?私はなるべく大きな声で言った。すると少年は聞こえたのか、やっぱり黙ったまま首を縦に振った。
どうしてしゃべらないの、と再び大きな声で私は問いかけてみた。その頃の私には耳が遠ければ喋ることもできないなんていう理屈を知らなかった。もちろん少年は説明することができない。やはり黙ったまま、力なく首を横に振っていた。私はあきらめて、それから今まで私たちが見ていたマンションの下に広がる世界を指差しながら、言った。
眺めてるの、楽しい?
うん、と、彼は頷いた。もちろん声には出さなかったけど、なんとなく聞こえたような気がした。私はなんとなく嬉しくなって笑った。少年も笑った。
そして私たちは互いに別々の学校から帰るとそこに集まるようになった。いつも私たちは別にすることもなく、ただ黙々と並んで狭い屋上の上を何周も何周も歩き回ったり、ほとんど身振り手振りで目下の建物や人々についての話をしたり云々。傘、は言ってみれば私の夢の第2ラウンドだった。自分の全く知らない世界に住む人。音のない世界って一体どんなだろう。かわいそう、というのは考えてみれば一度も感じたことがなかった。ただ興味関心のバブルがもこもこと沸きでてくるのを少し幼かった私は楽しく感じていた。
幼かった?
ちがう、今もだ。
私が思考の渦の底で今やっと気づいたのは、自分が幼かったということ。そしてそれは現在進行形でそうであるということ。それだった。傘、が私のことを愛してくれていること。今思い返してみればそんなことに気づく要素はそこらじゅうにありふれていた。まるできらきらとちりばめられたビーズやスパンコール、もしくは岩にあたって砕ける水しぶきのように。それがたとえ自分の足の裏にあったって、鼻の先にあったって、それでもなお気づかなかったのは、私の目先には自分しか映っていなかったからだ。私は東雲のことが好きだ。セックスもしたい。だけどそんなことはかなわない。だからその気を紛らわすために傘、に相手をしてもらう。まるで鏡の中を突き進んできたみたいだった。そう気づいた。
鏡の中、にいた私には横にいた傘、など後ろ姿さえ見えず、常に両隣に当たり前のようにいる存在だった。青年期の男性はだれしもがそうであるように女性の体を渇望している。傘、も青年期のまさに盛りにいるのだから、まさにそのうちの一人だと勝手に過信していたのは明らかな誤りだった。彼が渇望していたのは私の体だった。たしかにその条件だけなら今だって充分に満たしている、しかしそうじゃない。この体は、気持ちも伴わなければ彼の体を、心を、満たすことは決してありえないのだ。
東雲に恋をしはじめたのは中学二年の頃だった。そして私はそれを傘、に告げていた。傘、は、そうか、がんばれよ、と言ってとにかく私を励ましてくれた。でもそのはかなくも力強い励ましとは相反して、私は学力、思考、その他様々な面での東雲とのギャップに戸惑いと失望を感じるようになった。次第にそれはエスカレートして、どうしようもなくなって、そしていつしか私は傘、に体を求めるようになっていった。
きっとはじめのうちは私のため、それに自らの欲求を満たすための行為だった彼にとっての私とのセックスは、しかし、私の欲求が深まるにつれて耐えがたいものになっていっているに違いない。なぜって私の欲求が深まることが意味するのは、私の心がいよいをもって傘、から離反していくことに他ならないから。
どうしたらいい?改めて自分に問いかけてみた。答えを出す合間にも私はようやくなれた傘、の気持ちに自分を重ねて様々な妄想を繰り広げていた。だけどその妄想は今までの愛液にまみれた妄想とは違い、悲しいことにあながち間違いでもなさそうなものばかりなのだ。自分が愛する女が、たしかに裸で自分に抱かれているのに、しかし彼女の心は常に別の男にあって、おれはただ単に彼女のかなわぬ恋の発散場所でしかない。しかもおれがというよりもおれの体が。彼女が求めるのはおれではなくおれの体だから。どうして。
どうして。
どうしてその男よりもよっぽどおれのほうが彼女を体の隅々まで知っているのに、その男の方がおれよりもはるかに彼女に近いところにいるんだろう?いっそ彼女がその男にふられて、その反動でおれのところに帰ってきてくれたら、いや、やってきてくれたら。
どんなに。
どんなにいいことか。
―そんなむごいことを、傘、は考えるのだろうか?おそらく幾度となく考えたのだと思う、そしてその度にああおれはなんてやつなんだって罪悪感みたいなのに苛まれてきたんだと思う。
告白しよう、そう思った。東雲に、今までの全て、打ち明けよう。結果は良くても悪くても、きっと傘、は喜んでくれるに違いない。そう決めた私は、だいぶ冷たくなってしまった毛布をぎうと抱きしめ、顔をうずめた。それは汗と、精液、それに少しだけ涙のにおいがした。
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