三十センチ踏み出しただけで、まだ夏も遠い午後十時の冷たい気温が体を包み込み、震わせた。それは人の肌を持つミクも同じだった。
 「ミク。寒くない?」 
 「うん。」
 ミクは僕に身を寄せ小さく返事をしたが、そのか細い声すらも、微かに震えているような気がした。 
 寒気ではなく、それは恐らく、緊張と、恐怖心。
 玄関から踏み出し、敷地を抜け、他の住宅が両側に並ぶ道路へ出れば、そこは完全に外の世界。ミクが初めて訪れた世界だ。
 初めて触れた冷気はその繊細な肌を震わせ、不気味なほど静まり返った夜の住宅街は、その異様な姿でミクに恐怖心を植えつけたのだろう。
 でも、そんな彼女を励まして、出迎えてくれる最高のお迎えが、頭上で僕達を待っていた。
 「ミク。上を見上げてみて。」 
 「え・・・・・・。」 
 ミクと同時に見上げた夜空には、視界を埋め尽くすほどの巨大な月が、漆黒の空に浮かんでいた。その輝きは他の星は全て姿が見えなくなってしまい、そして僕達の姿を琥珀色に照らすほど明るかった。
 「うわぁ・・・・・・。」
 ミクは言葉ではなく、感嘆の声を漏らした。この壮大で美しい黄金色の姿に、人として感動を覚えた証拠だ。
 「どう?」
 「きれい・・・・・・きれい・・・・・・。」
 ミクからは、先程の緊張や恐怖はすっかり消え去っており、今はだだ、月の姿に見とれるばかりだ。
 それにしても、常識で考えてみれば、こんな夜中に散歩したいと言う女の子はまずいない。月の姿を見せたければ窓から眺めればいいと言ってしまえばそれまでだが、僕はどうしてもミクを外に連れださなければ、と考えていた。
 「足はどう?」
 「うん・・・・・・いま、なんかいい・・・・・・。」
 「よし。じゃあ、ゆっくり進もうか。」
 僕は改めてミクの手を握り、片方の腕を腰に回し、その体を支えながら、昼間の練習と同じように歩行を始めた。
 右手は優しく握り、微かな力で引く。左手は微かに、彼女の背を押す。
 両足の動きは、ひとつ、ふたつ、みっつと、心の中で数えながらミクの歩幅と合わせる。
 ただし、絶対に僕はミクを追い越してはならない。並ぶことさえ、良いことではない。僕はミクを、すこし後ろから微かに押す程度。それぐらいが、ちょうどいい。
 二つの意志をもった、一つの存在となって、僅かな、でも確かな歩みを続けて、冷気の漂う夜の住宅街を、音もなく歩き続けた。
 「うん。昼間より上手になってる。」
 「そうかな・・・・・・。」
 言葉をかけながらミクの顔色を伺うと、そこには家を出た時の緊張と恐怖の色が、無くなりつつあることが見て取れた。ミクが僕に振り向くと、その色はすぐに薄れて消えていった。
 月の姿を眺めながらも、僕達は歩き続けた。ミクにこの月を見せ、外の世界に触れさせることもそうなのだが、何より、ミクと共に歩き続けていることに、僕は仕事でも感じたことのないほどの充実感を得ることができるのだ。
 触れ合う温度と感触、重ねる鼓動と歩み、通じる言葉と心が、僕とミクを満たしている、そんな気がしてならない。
 「ミク。あのね、すごそこに公園があるから、そこまで歩いたらひと休みしようか。」
 「こおえん・・・・・・?」
 初めて聞く言葉に、ミクが小さく首を傾げた。
 「みんなで休んだり、遊んだりする場所だよ。」
 本来なら、公園などと言う場所は深夜行くような場所ではない。
 しかしどうしても昼はダメだった。近所の人々は、ある程度僕の事を知っている。天才少年、クリプトン所属、そして独身。だから僕が女の子と手をつないで歩いている姿など、絶対に見られてはならないのだ。ミクが研究室から消えたことは多少メディアで報道もされている。僕の頭には都合のいい言い訳なども用意されていない。どうしても、人目を忍ばなければならなかった。
 月夜でしか、ミクに外の世界を世界を歩かせることはできない。
 陽の光を浴びる日は、ミクに訪れるのだろうか。
   
 ◆◇◆◇◆◇
 
 部屋に入るなり、ランスは鍵を閉め、私にPDAを手渡した。
 「今日の渡せる分はこれだけね。」
 「ええ。構いませんよ。お楽しみはなるべくあとに取っておくものです。」
 私は純粋に胸を踊らせながら、彼の手からPDAを受け取った。ハードディスクの中にあるファイルを改めようとしたが、当然、お宝と言うものはそんな簡単には拝めないものだった。
 「プロテクトはナノマシン通信を送信すれば開くはずだ。」
 彼の言う通りに、私は体内に流れるナノマシンで通信電波を送信すると、PDAがそれを受信して自動的にファイルのプロテクトを解除してくれた。
 そして、意気揚々と中身を検める。
 「・・・・・・素晴らしい。」 
 ただそう言葉を漏らすより、どのように反応を示せばよいか分からない。この胸の高鳴りに、鳥肌。自分が何か恐ろしい力を手中に収めたような征服感すら感じる。
 私の反応を前に、ランスはどうだと言わんばかりに口元に笑みを浮かべていた。
 「だろう。あれの開発と同時進行で開発される。ソレの担当は俺だが、クリプトンのアンドロイド開発では、あんたが数名の付き添いと一緒にアンドロイドの開発技術を頂いてくれ。ある程度知識と基本設計が済めば、俺と合流、で、一緒に開発とそういう手順。我々はこれを『Project BlackAngel』と呼んでいる。」
 「ブラック・・・・・・エンジェル・・・・・・。」
 反芻した言葉には、何か言葉にできない、魅力的な響きがある。
 新型複合金属ピアニウム。空力特化型強化服。展開型全游翼。
 ファイルに収められた用語とデータ一つ一つに、私は驚きを隠せない。
 「これが完成すれば・・・・・・我々は全てを超越した力を、手にいれることができるのですね。」
 「そうそう。最強の名に相応しい力だ。最も、搭乗者が手に入れば直ぐにでも完成するんだがなぁ大佐。」  
 ランスの視線が意地悪く私を突き上げる。何が言いたいのかは明白だ。
 「・・・・・・いけません。ランス。あのお二人の事は忘れなさい。」
 「どぉして? 大佐ぁ、やっぱあの二人に情が移ったな。」 
 「可笑しければ、笑ってもよろしいですよ。」
 反抗する言葉のない私は、そう言い捨て、ランスに背を向けた。
 「笑えないね・・・・・・あんたの発想もなかなか面白い。」
 背後で小さな呟きが聞こえると、ランスはそのまま呑気な挨拶を残して、部屋を去った。
 一人残された宿泊室で、私はランスの言っていた言葉を頭の中で反芻した。
 情が移った、か・・・・・・。
 確かにそうかも知れない。あの豪雨の日、間違いなく私は、あの二人に特別な感情を抱いたのだ。それは、生まれて初めての感情だった。
 哀れみか、単なる正義感か。ともかく私は何かに煽られて二人を救い出した。おそらく、あのまま彼女が連れて行かれたら、待ち構えていたであろう運命からも、網走博士の生命に近寄る闇からも。 
 未来のない二人に未来を与えようと、私は手を差し伸べた。それだけだ。
 単なる気まぐれでも、それはそれでどうでもいいことだ。
 そんな物思いにふけっているうちに先程までの興奮と胸の高鳴りはすっかりなくなってしまい、興が冷めてしまった私はふうと溜息を付き、マッサージチェアに腰を降ろした。
 ふと窓の外を見やると、電光に煌々と輝く水面都のビル群を巨大な月が見下ろしていた。
 その光のなかに私は再び網走博士と彼女の姿を思い浮かべていた。
 今頃二人は、この美しい夜の下で・・・・・・。  

 ◆◇◆◇◆◇

 公園のベンチに二人で座り、僕達は肩を寄せた。流石に疲れたのか、ミクは頭を僕の肩に預けてうとうとしている。
 もう夜も深い。そろそろ家に帰らないと、明日の出勤に差し支えるかもしれない。 
 「ごめんね。無理、させちゃったかな。」
 「ううん・・・・・・ひろき。」
 「なに?」
 「だきしめて・・・・・・。」
 「あ、うん。」
 ミクを膝の上に載せ、その体を優しく包みこむと、ミクは落ち着いたように、溜め込んでいた息を吐いた。
 「ひろき・・・・・・。」
 「ん?」
 「すき・・・・・・。」
 「えっ・・・・・・?」 
 想像もつかなかった言葉がミクの口から飛び出したせいで、僕は一瞬、そんなたったニ文字の言葉の意味が、全く理解できなかった。 
 好き、だなんて、ミクはどこでそんな言葉を覚えたのだろうか。 
 いや、多少の言語は知っているはずだから、おかしくない。だけど、なんでだろう・・・・・・?
 「僕が?」  
 「うん。よくわからないけど、すき・・・・・・。」 
 「そ、そう・・・・・・。」
 僕は女性に告白されたことなどない。だから、こんなときどのような対応を取っていいのか全く持って無知だ。たとえ今まで行動を共にしてきたミクでさえも、そんな言葉をいきなり突きつけられたら、戸惑ってしまう。  
 「ひろきは・・・・・・?」
 「え?」 
 「ひろきは・・・・・・。」
 「も、もちろん、僕もミクの事が大好きだよ。」 
 「じゃあ、すきって、どういうこと・・・・・・?」
 そんな事を問われても、僕はどう答えればいいか、全く分からない。
 なんだろう。なんて言い表せばいいのだろう。好きとは、一体どういう事だろう。
 迷っていたその時、僕は無意識にミクと顔を向き合わせていた。
 言葉で、表現できなければ、あとになにが残るだろう? それを確かめるために。
 「ひろ、き?」
 「・・・・・・・。」
 不思議そうにする彼女の言葉を、僕の唇が塞いだ。
 柔らかな感触が僕の唇に触れた瞬間、僕は我に帰り、慌ててミクの瞳から視線を逸らした。 
 間違ってはいないはずだ。これは好きという愛情表現の一つのはずだ!
 必死に自分に言い聞かせつつも、痴情と自己嫌悪で、血の気が引いて顔が紅潮すると言う現象が、僕の顔で同時に起こった。
 「・・・・・・それが、すき?」
 「あ・・・・・・うん。」 
 「じゃあ・・・・・・わたしも。ひろきがすきだから・・・・・・。」
 今度はミクの顔が僕の顔に迫った。
 もうどうにでもなれ、と腹をくくった僕は、まはや何の躊躇もなく、ミクと唇を合わせた。
 大きな月が見下ろす誰もいない公園。ひどく不器用で、そして純粋な愛情表現が終わると、ミクはいつの間にか、僕の胸に身を任せて眠りについていた。
 吐息とともに、ミクの口から微かにうわ言が聞こえる。
 「ひろき・・・・・・すき・・・・・・ひろき・・・・・・。」
 僕はその頭をいとおしく撫でると、ミクの眠りを妨げないように、自分の着ていた上着を着せ、その体を背に負った。
 帰路につきながら、僕はミクとの未来を想像した。 
 いつか昼間の世界に出ること。僕の支えなしで歩くこと。手もを使えるようにすること。完全な手足を、いつの日か手にいれること。もっと美味しいものを食べて、もっときれいなもの見る。言葉もたくさん覚えて、いろんなことに詳しくなる。もっともっと、ミクは知ることがある。
 今でさえ、こうして人目をはばかり闇夜にしか出歩けないけど、いつかきっと、ミクにも明るい未来が来ることを、僕は夢見ている。
 青空に羽ばたく、ミクの姿が。
 だけど、ひとまず・・・・・・帰ろっか。ミク。 

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

Eye with you第十ニ話「月に夢見る」

黒ミクさん(後の雑音ミクさん)のターンがオワタです。

・・・・・・そして第一作へ近づいていく・・・・・・。

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投稿日:2010/07/03 21:57:13

文字数:4,678文字

カテゴリ:小説

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