上京してしばらく経って、地元に帰る理由は色々とあるけれど、家族に会いに帰る事がやっぱり一番強いものだと思っていた。
でもそれって逆を言えば、地元に友人も家族もいなくなれば帰る事自体望まなくなるんじゃないかって思ったら、すごく淋しい気持ちになった。
家族に喜んでもらうには自分を含めた取り巻く人たちが必要なのに、今の私には誰もいないから、夢を叶えてから本当は帰郷したかった。
今一人で帰郷した所で家族は喜ぶどころか、帰ってくるなと夢を追う事にきっと激励してくれるのだろうけど。
そんな私は今も元気でやっています、だなんて。そんな夢は、所詮夢でしかなかったんだ。
私は夢破れた事を、正直に両親に伝えようと決心していた。
夢を叶えるためにがむしゃらに頑張ってきたけれど、私には頑張りが足りなかったって正直にそう伝えようと思ったんだ。でも多分、辛くて悔しくて、それ以上に泣いてしまうかもしれないけれど。
だけど、せめて自分の大切な家族だけには受け入れてほしいと。
そう、願っていたんだ。
「…ただいま」
「!」
台所で夕食準備をしていた母は、玄関先に佇む私に気付くと慌てて走ってきて言った。
「何の連絡もよこさないで、突然帰ってきてどうしたの?」
私は帰郷という決断を、ただ受け入れてほしかった。
「ゴメン、ママ。私…もう夢をあきらめたの」
私は玄関先に佇んだまま、負け惜しみを正直に伝えた。夢は確かに叶えるものだけど、叶わない場合もあるのだと、母にだけは分かってほしかったから。
「…とりあえず、中に入んな」
母はそう言うと台所に戻っていった。私は旅行バッグを置いて靴を脱ごうと人差し指を踵まで差し伸べたその時、轟くばかりの罵声が私の耳に届いた。
「何しに帰ってきたっ!」
勢いよく届いてきた声はいつも聞き慣れていた、厳格な父の怒鳴り声だった。
「帰って来なくていい!夢破ったお前を甘やかそうなんて誰が思うんだっ!」
夢を叶えるために親の反対を押しのけて出て行った私がすべて悪いのは、当に知っていた事。だから父のその罵声に、自然に反感する気力もなかった。
「…」
私はそのまま実家を後にして、来た道を引き返すように旅行バッグを引きずっていた。そして、私の少し離れた所に母が私を追ってきていたのも、背中の向こうで薄々と感じてもいた。
私は母を振り払うように勢いよく駆け出すと、自分の夢を恨む気持ちと自分の選んだ道の過ちを嘆く気持ちとが混在したまま、私はこぼれ落ちる涙を拭き取る事をせず、気付けば駅前のロータリーまで辿り着いていた。
夢を叶える人はほんの一握り。それを分かっていて、私はその一握りにいたかった。でもそれが叶わなかったというより、報われなかったのかな。一握りになれなかった人たちは、私みたいにこんな苦しい思いをしているのかな。私はそう被害者面をして、駅付近の時計台をぼんやりと見つめていた。
「お願いします!今日も、いってらっしゃい!」
行き交う人たちの真ん中に、ティッシュ配りをしている人の声に気付くと、ゆっくり振り返ろうと目を遣った。
その人は私より少し若い印象で、青いジャケットを羽織った格好は、おそらくショップのキャンペーン中か何かなのだろう。
「こちら、お願いします!おはようございます!いってらっしゃい!」
行き交う人全員に声をかけては、ほとんどの人に無視されていた。ティッシュ配りなんていう仕事も絶対楽ではないのにと思うと、密かに尊敬の意を表していた。
「あの…」
私はその彼に近寄っていって、声をかけた。
「あ、こちらですね」
彼はそう言って、私にティッシュを差し出してきた。
「…辛く、ないですか?」
「はい?」
私は正直な感想が、ただ知りたかった。
「この仕事が、ですか?」
「はい」
彼は少し困った顔をして、続けた。
「辛くなんかないですよ?これは仕事ですからね」
当たり前の回答が返ってきた。
「…分かって言ってるんです。そんな仕事の何処が楽しいんですか?何処が魅力的なんですか?人に無視されて、嫌な顔されて。私には全く意味が分かりません」
私がそう伝えても、彼はまた困った顔をした。
「じゃあ聞きますけど、楽しい仕事って何ですか?魅力的な仕事って何ですか?」
私は少し戸惑いながらも強く言い返した。
「何だってあるじゃないですか?歌手や女優やアイドルや、キラキラした職業とか魅力的じゃないですか?」
私がそう言うと、彼もまた強く反発した。
「キラキラした仕事が楽しいとか魅力的とか、そんなのキミの抱いてる勝手なイメージでしょ?どんな仕事だって辛い事はあるし、自分以外にいる敵だって周りにたくさんいるんだよ」
仕事の価値が職業の種類で左右される事なんて絶対にない。ましてや、キラキラした職業の方がずっと難しくて辛くて厳しいものだと、彼は続けた。
「ボクはね、こんな仕事でも誇りを持ってやってるつもりなんです。キミにはきっと出来ないでしょ?プライドが邪魔するだろうから」
私は首を横に振ると、行き交う人にティッシュを差し出して言った。
「お願いします!受け取って下さい!お願いします、受け取ってもらえませんか?」
私はプライドを捨てるように、周りの人に大声で呼びかけるも、そんな思いは一度と届かなかった。
「一方的に差し出しても、誰が受け取ってくれないですよ。キミは何も分かってないね」
彼は私からティッシュを奪い、満面の笑みで周りの人に再度呼びかけて言った。
「おはようございます!いってらっしゃいませ!宜しくお願いします!」
彼の言い方は、周りの人を気遣うように柔らかい姿勢で、しかも一切笑顔を絶やさなかった。
「ピエロになるんですよ。わざとバカみたいにおどけて振る舞うんです。分からないでしょ?そういうの」
私にはどう見ても、彼がバカやってるようにしか思えなかった。
「周りの人のほとんどは皆辛い思いをして生きているんです。そんな人にこそ笑顔を差し出してあげるって事、分かりますか?こいつバカだなって見下して、憐れに思ってでも受け取ってくれるかもしれない。もしくは自分の振り撒く笑顔で、少しはマシな気持ちになったからって受け取ってくれるかもしれない。どんな理由であれ受け取ってほしいから、おどけて笑っているんです。人の幸せに笑顔は絶対に不可欠だからね。笑顔を見せられて嫌な顔する人なんていませんから」
私は、彼の話を真剣に聞いていた。
「ピエロってのは、頭が良くないと出来ないんです。頭の悪い人はそんなの馬鹿馬鹿しいって、ただ呆れるだけだからね。相手のためだけを思ってさ、自己犠牲をいとわない精神を笑顔に変えて、長い時間それをし続ける事がどんなに辛く難しい事か分かりますか?ボクはそんなピエロを尊敬しているから、こんな仕事でも誇りを持ってやってるんですよ」
私は呆然としたまま、そのまま膝を地面に座らせていた。夢を叶えるために頑張ってきた事を本当に全力でやってきたのか、自問自答を繰り返していた。
「…ゴメン、なさい」
心から、彼に謝まりたくなった。
「…夢ってのはさ、自分のために叶えてあげるべきだってずっと思ってたから、それだけを必死になって頑張ってきたの。でも、違ったんだね?」
「…」
今度は彼が、私の話を真剣に聞いていた。
「夢ってのはさ、一人よがりじゃ叶わないんだね。周りの事にも目を向けて、自分の事にも客観的に見つめてあげないといけない。私は敵を周りにたくさん作っていただけじゃなく、大切な家族にさえも何処かで敵だと決めつけて、自分を遠ざけていたのかもしれない」
私は震える身体を堪えようと、必死だった。
「…自分をずっと見失っていたんだね。夢という高くも険しい壁を乗り越えるために、間違った方向に翻弄されていたんだね?」
彼は手に持っていたそれを、私に差し出して言った。
「じゃあもう、これからのキミは大丈夫だね?これ、ボクにはもう必要ないから」
私は、彼のそれを受け取って続けた。
「私はまだ強くないから、これが必要なんだ。あなたは強いから、必要ないのね」
涙を伝う頬は、私をきっと強くさせてくれるはず。彼もまたそう思ってくれたのか、取り出したもう一つのそれを一枚、私の潤んだ瞳の所まで、そっと優しく手を伸ばしてくれた。
「泣かない事が強さなんかじゃない。泣いた後にまた笑える事が、本当の強さなんだよ」
彼はそう言うと、私と同じように瞳を潤ませて、次の二枚目を自分の目元まで、そっと近づけていった。
「これじゃあ、仕事になんないわ」
彼はそれでも、少しだけ笑顔だった。
「ホント、ゴメンなさい」
私はそう言って、彼に事情の全てを話した。
そうして、引き返すという提案を受け入れてくれた彼に深く会釈をした後、明るく笑顔を作ってみせてから手を振ると、ありがとうのさよならをした。
「ティッシュ、ありがとう」
「どういたしまして」
「でも、こんなにも要らない、かな?」
しばらくして。
私は再び、来た道を引き返していった。
大切な人たちの待つ、この道のりを。
足どりと気持ちを軽くしたまま、我が家の玄関まで来て足を止めて、一呼吸した。
表札の下に咲く庭の桔梗を少し見つめて、天を仰ぐように空を見上げてから、今度は深く深呼吸をした。
「…ただいま」
夢が、夢を破るのではない。
破るのはいつだって。
あきらめてしまおうとする、自分なんだ。
勝手に無理だと決めつけて。
あきらめているのは、何処の誰だ?
あきらめるから無理にしてる。
そう決めつけている、お前のせいだろ?
父から教わった、その夢に対する教訓を胸に。
私もピエロになってみようと思います。
自分の背中をさ、ポンと励ますように。
この両手は自分用には出来ていないけど。
今度は、誰かの背中を励ませるように。
私の背中を強く押してくれた彼と、父へ。
「じゃあね、パパ。行ってきます!」
庭に咲いた桔梗に、手を振って。
ありがとう、って。
弱虫だった自分にも、手を振って。
また帰ってくるね、って。
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