気付けば、ゆらゆらと揺られていた。
上の半身を、星の砂の光る夜空に浮かべるように、液体と空のみの空間に、ただひとりで、揺れていた。
ここは海だろうか。
見渡しても、陸は見えない。
ここはどこだろうか。
空には星しかない。だがそのおかげで、星と液体の、遠くの境界線を見ることができる。
たしかに星の輝きは液体に反射するのだが、液体の上の光は、つねに揺れているのだ。
いまの私のように。
境界線は遠いから、そのゆらめきは私には見えづらい。
ところで、あれは水平線と呼ばれるものだろうが、水平線とは、液体にとっての境界でしかありはしないか。そのことばは、この空の価値を下げてしまっていないか。私はそう思った。
黒い液体よりも、色々な星の方が、今は美しくみえているからだろう。
だが私の頭は、空中にある。ならば、空から見た液体への境界を定めるべきではないか。そんなことは、だれも考えたことがないだろう。私は考えた。少し笑った。
だからと言って名付けようにも、いい名前は浮かばなかった。
液体に沈んだ、私の半身を見下ろした。足元が透明になっていて、微かに青く光る、暗い水の中が見えた。
なにか、大きなごつごつしたものが横たわっているが、遠く下の方だから、よく見えない。
手を伸ばすと、柔らかいような、堅いような壁に指が当たった。
私は、透明な楕円形のカプセルの中にいるのだと気づいた。
カプセルの壁は暖かい。よく触ると、それは堅い。
暖かさで、柔らかく感じただけだった。
だがその暖かさと、錯覚による『柔らかさ』は、この広い空間から私を守っていた。
一人ぼっちの空間から、守っていた。
人類が絶滅したのだと、誰かが言った。
驚いて見渡すが、何も無い。ひょっとして空の声だろうかと見上げたが、違った。
それは自分で名乗った。声はカプセルのものだった。
あなたひとりを除いて。
皆死にました。
陸地に近づかないように、海流にうまく乗って航海をしています。
暖かい壁は言った。
陸地に近づかないための航海とは、おかしな言い方だった。
どうして陸に行かないんだい?
陸は危険だからです。
どうして?
陸には、『人でない者』がいます。
『人でない者』?
彼らは、とても危険です。
それからしばらく話しているうちに、今の状況がわかってきた。
どうやら人類は、『人でない者』に絶滅させられてしまったらしい。
私を除いて。
『人でない者』は、だから私を探している。
彼らに見つからないように、海の上を、陸や船を避けながら複雑な経路で漂っている。
どうして、私だけが?
その質問に、カプセルは答えなかった。
私は身を捩った。
カプセルの中でも、私は浮かんでいた。
重たく、弾力のある空気が、ぴったりと身体に張り付いているのだ。
背中で寄りかかれば、それは柔らかく押し返す。
少し心地良かった。
そのため、私は眠くなった。
いつここから出られるのだろう、と思ったが、カプセルには問わなかった。この暖かさに、もっと包まれていたいと思った。ひとりきりの空間だが、すぐ近くにぬくもりがあるのだ。
陸地には危険がある。カプセルの外は寒いだろう。
星空は美しく、暗い液体の揺らぐリズムは音楽だ。
明るくなれば、足元を魚が泳ぐかもしれない。
私は目を瞑った。
瞼の裏にも夜があった。
私は暖かい夜の中に、するりと落ちていった。
目を開けると、私は暗い場所に立っていた。
視界は暗くぼやけていて、霧がかかったように、僅かに淡く青い。
まず見えたのは、三つの目が全て暗い、信号機。
私は交差点の真ん中に、自分の足で、立っていた。
コンクリートの地面。前後左右に、四つの信号機。いずれも光っていない。
もっとよく見ると、周りには大きな建物がいくつもあった。そして、見慣れたような看板もいくつも見えた。
どうやらここは、都会の街のようだ。
だが建物群は壁にひびが入り、一部は崩れてしまっている。窓は暗い穴だ。看板や道路標識も、折れたり割れたりしている。風も音もない静かな街は、廃墟と化していた。
空は見通せず、星はない。
日が昇る前の、朝と夜の間のように冷たく湿った空気を感じた。
街から、光を抜き取ったような風景だ、と思った。
人の気配はない。荒んだ道路にも、車などは無い。
交差点の、四本の道を順番に眺めたが、道の向こうは朧に霞んで見えない。
音が聞こえた。
木材が軋むような、重い音。
音のする方の道を見ると、靄の向こうにうっすらと影がさした。広い道の両端を覆うほどの、巨大な影だ。
影は浮いていて、路の上を滑るように、ゆっくりとこちらに近付いている。私はそれを、ただ眺めていた。
その姿は鯨のようだった。ただ、口も目も、鰭も無い。でこぼこした黒い肌を捻り、回転させながら、それは進んでいる。
ぎぎぎ、ぎぎぎぎぎ。『それ』が身体を曲げるたびに、内部から軋む唸りが鳴った。
淡い色の霧を纏うそれは、とうとう、私の真上に到達した。
そして、通り過ぎた。
大きな胴の後ろは一旦細くなっていて、平たい鰭のように左右に広がっていた。その尾鰭を凪ぐように回転させる姿を、私は見送った。
影は、道の向こうの淡い蒼に紛れていった。軋む音が遠くなる。
その音を、その影を完全に見失う前に、私は叫んだ。
あなたが、『人でない者』ですか?
叫んだその言葉は、白い球だった。
白い球体は私の口を離れ、空へ上がった。見上げていたが、その白い球も、空の薄暗さに呑まれていった。
視線を戻した。しかし、影は路の先に行ったのだろう。
もう何も見えなかった。
もう何も聞こえなかった。
また目を開けた。
暖かさが、私の周りにあった。自分の腕を触ると、冷たい。妙に寒かった。
私はカプセルの中にいた。
上には星空がある。まだ夜だ。広大な液体の中で相変わらず、私は揺れていた。
頭が重く、気怠い感触がした。目覚めの感覚だ。私は眠っていたのだ。
朝は来ません。
何かを言う前に、暖かい壁が話しかけた。朝は、もう来ないのだという。
きっと、人類がみんな、消えてしまったからだろう。
私ひとりのためなんかに、朝は来てくれないのだ。
そもそも私には、朝がどういうものだったか、ということすら思い出せない。そして、朝が必要だとも、もう思えない。
今ここにあるのは、ちりちりと強弱する光を放つ星―――大量の星と、揺らぐ液体だ。それだけで十分だ。
視界と、少しの暖かさだけで十分だ。
音はいらない。
軋む音はいらない。
人の声もいらない。
音楽もいらない。
乾燥した匂いも、濃く粘着する味もいらない。
朝が、いらないのだ。
だからせめて、夜だけはなくなってしまうなと、願う。
ゆらゆら、ゆらゆらと、いつまでもこうして、揺れていることになんの意味があるだろうか?
暖かさに甘えて、一人で夜を占領している。
下を見た。奥底にごつごつしたものが、うっすらと見えるだけだ。
その正体など、とっくに気づいている。
ごつごつした海底の間を縫う、巨大な影。あれには一度だけ会ったことがある。
軋む音はうるさかったが、嫌いではなかった。きっと、もう聞くことはないのだけれど。
真上に光る億千の星の瞬きを音楽にして、楽しんだ。
その輝きを、ひとつだけでも欲しいと思った。だが手を伸ばせば、暖かい壁が、柔らかく私の指を弾く。空には触れないと、カプセルは言う。そんなことは、わかっている。
何度も眠った。下方の影は、私の足元をいつまでも回遊している。カプセルの壁を叩いても、気づいてはくれない。
星は静かに笑う。幼げに、しかし気品と誇りを持って、笑いかけているのだ。
朝ではなく夜に選ばれた、私は嬉しかった。
夜は甘えさせてくれるのだ。孤独に耐える勇気のない私に優しさを与え、暖かい感触と冷たい光を与え、畏怖の影を与える。
…だが、かつて朝の喜びを、人の絆の大切さを知っていた自分を思うと、涙が零れる。
誰にも拭われない涙は、下に落ちるしかない。その一滴を得るために、影は回遊するのだ。
カプセルから零れた涙が、影の肌に染みた。影は軋む音を唸らせる。
その巨大な姿の横を、白い球体が、形を崩しながら浮かんでいった。
薄青い世界に、私の声が反響した。
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