あなたに抱いた感情は、所謂初恋というやつだった。
いつのまにか目で追っていて、あなたの笑った顔が忘れられなくて。
あなたは誰にでも優しいから、私のことを特別に意識したことなんて、無いのだろうけど。
大多数のうちの一人でも良かった。あなたを見ていられるだけで十分だったから。
時々廊下ですれ違う時、いつもあなたは誰かと話に夢中だった。
一人きりで歩いているところなんて見たことがなかった。
それくらい人気者の彼にこちらから話しかけられるとしたら、彼が物を落とした時に、拾い集めるのを手伝うことくらい。
偶然偶々居合わせただけの自分は、一瞬でも彼から向けられた感謝の言葉が嬉しくて。
たったそれだけの出来事で、夢に彼が出てくるくらいには浮かれるほどだった。
手の届かない存在。雲の上に住む天使。
ガラスケースに閉じ込められた色とりどりのお菓子のように。
幻想を手にしてしまえば、夢から覚めるように跡形も無く消えてしまう。
だから私は傍観者でいよう。誰を邪魔することもなく、彼という人間の語り部でいようと決めたのに。
ある秋の放課後、彼が一人でいるところを見た。
その教室の扉が少しだけ開いていて、ちらりと特徴的な彼の髪色が見えたので、私はそっと覗き込んだ。
珍しいなと思って眺めていたけど、彼が向かっている机の上に、一枚の紙が置かれていることに気づいた。
なにを書いているんだろう。見つめ続けたその背中が、視線を感じて振り返る。
「俺に何か用?巡音さん」
目が合ってしまって慌てていた私の思考は一瞬で、名前を覚えられていたという歓喜に塗り替えられていく。
それと同時に、覗きという趣味の悪いことをした罪悪感が湧き上がる。
「いえ、何か用事があるわけではないのですが…。その、なにを書いていらっしゃるのかな、と思って」
「ああ、これのことかい?ちょっと外の風景をね。良かったらここに来て、見ていってくれないかな」
未だ扉の隙間から視線を投げていた私を気遣ってくれたのか、美術室の中へと私を招き入れる。
恐る恐る近づいてはじめて、彼が一枚の絵を描いていたのだと知る。
色鉛筆の温かな色彩が、窓から見える景色を色濃く写し取っていた。
「上手くないだろう?」
突然投げられたその言葉に、心臓を直接掴まれたような感覚になる。
「いえ、あの」
「いいんだ。お世辞はいらない。正直に言っていいよ」
「…では。確かに特別上手な絵ではないと思います。平凡の域を出ない、ごく一般的なただの風景画です。だけど、あなたの色彩は、温かみを感じて私は好みだと思います」
「思った以上にはっきりと言ったね」
「すみません」
「でも、君の趣味に合ったなら、描いて良かったと思う」
私のために描いてくれたわけではないのに、まるでそのように感じてしまう言い方がずるい。
溢れ出しそうになる嬉しさを堪える私に、彼がその絵を差し出した。
「良かったらもらってくれる?」
「え?そんな、私なんかがおこがましいです」
「どうして自分を卑下するかはわからないけれど…描いているところを見られたのは君が初めてなんだ。この通り、俺は決して上手くないし、趣味の範囲でしかないから、他の人に知られるのも恥ずかしいし」
「代わりに処分してほしいと、遠回しに言っていますか?」
「別にそれでも構わないよ。ただ、この絵を好きだと言ってくれたから、もらってほしいと思った。それだけだ」
どうするかと、試すような目で紙を差し出したままの彼の手から、ゆっくりとその紙を抜き取る。
ただの紙だと思っていたそれは葉書だった。
「あなたから何かをいただく機会は少ないでしょうから、処分なんてする訳がありませんよ」
「それを聞いて安心したよ。…そうそう、明日もどこかで絵を描くつもりだから、探してみるといい」
「追いかけっこみたいで良いですね。そういうの、嫌いじゃないですよ」
笑いながら手元の葉書を裏返す。
宛名の部分に、日時と、「美術室」とだけ書かれていた。
丁寧に整えられた彼の文字。
汚してしまわぬよう、余白の部分に葉書を持つ指をずらした。
それから私たちは、場所を変えては放課後を共に過ごした。
行く先々の風景を、視点と月日を変えながら、絵葉書として残し続けた。
彼が一人で描いているところを私が見つけたら、今日それぞれあったことを各々喋り合って、互いの間に静寂が流れ始める頃に絵が仕上がる。
また互いに感想や評価を伝え合って、彼が宛名面を記入したら、その葉書は私のものになる。
最初のうちは遠慮から断っていたけど、彼がどうしてもと言うので結局いつも私が受け取るのだ。
もらった絵葉書は汚したり折れたりしないようクリアファイルに仕舞っていたけれど、彼と過ごして一月経った頃から、ポストカード用のファイルに一枚ずつ入れて、アルバムのように見られるようにした。
同じ一週間、同じ時間帯でも、空気や日の高さは日に日に冬のものへ転じていく。
ファイルをめくる度に、校舎を照らす夕焼けは顔色を変えていく。
それが彼と過ごした放課後の軌跡だった。
「近頃は物騒なことがよく起きているよね」
「そうですね。そろそろ雪が降り始める季節ですし、暗いから尚更帰り道は気をつけなければいけませんね」
珍しく互いに話題が続かなかったある日、彼から振られた話にそっけなく返した。
丁度先程冬の風物詩について話していたところだったから、そういうことだと私は思っていた。
「そう。帰り道には、言った通り気をつけるんだよ。この辺りには通り魔が出ると噂になっているからね」
「通り魔?そんな話、聞いたことがないですけれど」
「夕方、職員室で小耳に挟んでね。まだ生徒たちの間では中々知られていないことだけど、明日になれば君も教室で聞くことになる話だ」
「悪い冗談では済まない話ですね。早く解決したらいいのに」
その後、無言で描き終えた彼の表情は、少し険しいものだった。
彼の色鉛筆を握る手が好きだった。
力の掛け方で変わる色の濃淡は毎日見ているはずなのに、彼が生み出しているというだけで、海の寄せては返す波を見ているようだった。
彼の横顔が好きだった。
時々構図を考えるように窓際を見る、物事に対して真剣な眼差しに、私が映ることはなかったはずなのに。
今日の後悔を独り言のように吐き出しても、聞き流さずに手を止めて、真正面から話を聞いてくれた誠実さが好きだった。
私ひとりだけ、彼の一日の内数時間を独占している。
手の届かない人だった。私が入り込む余地など無いはずだった。
ほんの一瞬話す機会を与えられただけなのに、日に日に当たり前だと勘違いをし始めていた。
思い上がった。選ばれたと、自分は特別だと錯覚した。
自らの傲慢さは罪となり、いつか己の身を蝕み始める。
罰が下ったのだろうか。
気がついた時には、鋭い痛みを抱えながら、冷たいアスファルトへ横たわっていた。
私は…通り魔に襲われたらしい。
悪い冗談が現実になったのだ。
闇に沈んだ意識は、時間の感覚を完全に失くしていた。
夢か現かの区別もつかず、時々瞼の裏に映り込む情景をただ眺めていた。
現実でほんの一瞬意識が戻ったのか、それとも覚めない幻を見ているのか、私にはわからない。
微かにスクリーンに映り込む赤い袋から、ぽたぽたと落ちる雫が管を伝っていく。
ぼんやりとした頭のまましばらく考えて、自らの命が本当に危なかったのだろうと、他人事のように思った。
そしてその危険は、今もなお続いている。
映像が切り替わると、ベッドの傍に彼が立っていた。
口元が動いて、何かを私に言っているのがわかった。
彼は何かをベッドテーブルに置いた。
それが何かを認識する前に映像は途切れ、砂嵐へと変わった。
時々電波を受信する壊れたラジオのように、映像は不規則に流れた。
その度に彼が映り込み、私は食い入るようにスクリーンを見つめる。
その度に彼はこちらに語りかける。されど、音声が流れない暗闇の映画館は、あまりにも不気味だ。
なにを話しているんだろう。どんなことを考えているんだろう。
それが例え心を追い詰める憎悪の言葉でも構わない。
彼の声が聞きたかったのだ。
たった一人、現実から絶たれた世界で無音で生きるのは、あまりにつらく恐ろしい。
正確には、映像が流れる時以外は砂嵐が流れているのだが、耳障りなホワイトノイズを音として認識するには、心に余裕がなかったのだ。
毎日、彼は何かを囁き、何かを置いて帰っていく。
何も聞こえない絶望の淵で目を閉じても、空けない夜はぐるぐると廻る。
希望を地に降ろそうとした時、突如ホワイトノイズが途切れ、画面が真っ暗になる。
これはいよいよお終いだろうか?
そう感じたのは束の間、耳に入り込んで来た音に打ち切られる。
『このまま放っておいたら彼女は死ぬんでしょう?だったら怪我をしていようが、今生きてる俺の血をいくらでも使えばいい!』
『…理解が早くて有難い。早く彼女を助けてあげてくれ』
『俺の手当ては後でいい。取りに行かなければいけないものがあるから、…彼女の意識が戻ったら教えてください』
今まで聞いたこともないその声色は、酷く自らの感情を押さえつけているように感じた。
それが焦がれ続けた彼の声だと気づいた時、身体ががくんと重くなった。
視界に光が滲んでいる。
きっと現実に帰れたのだろう、なんとか首を動かすと、ベッドの傍に立っていたのは彼ではなかった。
偶々見舞いに来ていた担任が、ぽつぽつと話してくれた内容を、すぐには信じることができなかった。
私は覚えていないけど、襲われた時、その場には彼もいたらしい。
重傷を負った私に連れ添って病院へ行き、自らも傷を負わされたというのに、私に輸血をしたのだそうだ。
そして何かの用事があると言ってふらふらと外に出て行って、…逃げていた犯人と再会し、帰らぬ人になったという。
じゃあ、ずっと長い間見ていた彼はなんだろう?
本当に幻だったのだろうか?
ベッドテーブルに置かれていたのは、全て彼からの絵葉書だった。
描かれていた内容を見て、涙が止まらなかった。
彼は私がいない時にも絵を描き続けていたらしい。
美術室、教室、図書室。全ての景色の中心に、私が描き込まれていた。
どうしてそこまでしてくれたんだろう。
何もない私に、命まで投げ出してくれた理由はなんだろう。
そうまでしてくれる義理なんてなかったはずだ。
彼と私の関係に、名前など付けられるはずがないのだ。
彼は、ただの学校の先輩だったのだから。
私の身勝手さが、彼自身さえ奪ってしまった。
その罪と、彼が生きた証を、この身体とファイルに抱えて生きていく。
その人生がエンドロールを迎える時まで、彼が待っていてくれることを願って。
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